第2話『甘い重石の並べ方』 ~Section 3:廃棄ログの死角と、甘い誘引~
夜の月見坂市は、暴力的なまでの光の洪水によって、その真の輪郭を塗りつぶされている。
新市街の摩天楼から空へと放たれる無数のレーザー光や、夜空を巨大なキャンバスに変えるホログラム広告は、天の川さえも駆逐し、空を不自然な――電気信号の死骸のような――紫色に染め上げていた。だが、その光の恩恵が届かない場所、すなわち高度な管理網の端に位置する旧校舎の周辺には、どろりとした濃密な、それでいて凍りつくような『本物の闇』が、行き場を失った澱みのように溜まっていた。
「……如月さん、本当に、本当にまた行くんですか?あの歩道橋、夜は街灯もまばらだし、新市街のパトロールドローンだって『効率が悪い』って理由でルートから外している場所ですよ。不審者や、法の手が届かない連中のたむろ場になっているって噂、僕の耳にも入ってるんです」
僕は、自転車の冷えたハンドルを指が白くなるほど強く握りしめ、前をゆく瑠璃の背中に、精一杯の抗議を込めて声をかけた。
彼女は夜の底冷えを防ぐためか、制服の襟を立て、その上に薄手の漆黒のコートを羽織っている。その姿は、夜の闇に溶け込み、まるでこの街の影そのものを物理的な衣として纏っているかのようだった。
「不審者?……サクタロウ、お主は自分の現状を棚に上げて何を寝ぼけたことを言っておる。わしの第一補助員として、深夜に如月家の令嬢を護衛するという、一生かかっても返しきれぬ名誉を授かっておきながら、その不届きな腰抜け発言は万死に値するぞ。それに、人間が闇を恐れるのは、そこに幽霊がいるからではない。己の中にある『見たくない現実』が、形を持って映し出されることを本能的に予感しているからに過ぎぬのじゃ」
瑠璃は一度も足を止めず、迷いのない、それでいて踊るような足取りで歩道橋へと続く緩やかな坂を上っていく。
僕たちは図書室を脱出した後、新市街の『全自動物流センター・リリィ』の深層ログを、瑠璃のハッキングに近い検索能力でより詳細に解析していた。僕のスマホを学園のハイスペックなサーバーに偽装接続し、表向きの整然とした在庫データではなく、管理AIが削除を試みていた『廃棄予約・個別シリアルナンバー』の断片を、力技で抽出したのだ。
「……解析の結果、やっぱり、物理法則が悲鳴を上げています。あの歩道橋にあった十二個の瓶、製造番号がすべて連番なのは当然として……。そのロット、実は一週間前に物流センターの第八自動搬送機がオーバーヒートを起こした際、一度だけ『規定外の高温』に晒されているんです。品質管理センターのメモによると、味に致命的な影響はないものの、瓶内部の真空圧が微妙に変化し、蓋がミクロン単位で浮き上がっている可能性がある。AIはそれを『完璧な製品ではない』という一点において、一瓶たりとも市場に出さないことを即座に決定しました。……つまり、あの瓶たちは、この世に生まれて一度も、誰の口にも入らないことが、そして誰の記憶にも残らないことが確定した『未踏の死体』なんです」
「なるほど……。味わわれる前に死ぬことが約束された、欠陥という名の純粋品。……そしてそれらは、管理カメラの記録上、今この瞬間も物流センターの地下にある廃棄用コンテナの中で、粉砕機にかけられる順番を待っているはずなのじゃな?」
「そうです。少なくとも、僕が覗き見たサーバーの監視ログでは。コンテナの総重量にも一グラムの誤差もありません。……なのに、なぜ僕たちは、あの階段でその『死体』を十二個も……まるで墓標のように並んでいるのを見たんでしょうか。……ホログラムじゃなかった。僕の手には、確かにガラスの冷たさとジャムの重みがあったんです」
僕たちの目の前に、あの歩道橋が巨大な骨組みを現した。
昼間の喧騒が嘘のように死に絶えた国道の上で、錆びついた鉄製の巨大な影が、巨大な蜘蛛の死骸のように蹲っている。新市街からの光が斜めに差し込み、階段の一段一段を、外科手術用のメスのように鋭く、そして冷酷に切り裂いている。
「……あ、如月さん!見てください、一段目……!」
僕は思わず叫び、ペダルを漕ぐ足を止めた。
階段の最下段。今朝、確かにそこにあったはずの「五月一日」のジャムの瓶が、そこにはなかった。
いや、消えたのではない。
一段目にあった瓶が消え、二段目にあった瓶が一段目に、三段目にあった瓶が二段目に……というように、すべての瓶が一段ずつ、正確に「下りて」いたのだ。
そして最上段――今朝は「五月十二日」の瓶が置かれていた十二段目には、新しく、より真っ赤に輝く「五月十三日」の瓶が、そこに鎮座していた。
「……日付が、更新されている。……一日が終わり、世界がまた一歩未来へ進んだから、古い日付は役目を終えて階段から脱落した。そして新しい『未来の廃棄物』が最上段に補充された……。これ、誰かが毎日、この時間に手作業でやってるんですか?」
「ふむ。……お主にしては、まともな推論じゃな、サクタロウ。……カレンダーは、誰かがめくらねばその機能を果たさぬ。……そして、役目を終えて一段目に下りてきた瓶を見よ。そこに、この世界の『不都合な真実』がこびりついておる」
瑠璃は、一段目に下りてきた瓶の前にしなやかな動作でしゃがみ込んだ。
彼女は白い手袋をはめた指先で、その瓶を、壊れやすい卵でも扱うかのように慎重に持ち上げる。
瓶の底には、今朝はなかった、粘り気のある黒い液体の痕がべっとりと付着していた。
「……これは、何ですか?泥?それとも……」
「……オイルじゃ。それも、極めて純度の低い、古い規格のな。……新市街を走る無音の電気自動車には、逆立ちしても使われぬ、旧式の内燃機関用エンジンオイル。……サクタロウ、この匂いを、その鈍感な鼻で深く吸い込んでみよ」
「……っ、鼻が曲がりそうですよ。焦げたゴムと、鉄錆が混ざったような……」
「黙れ。これは、この街がまだ『不潔』という名の生命力に溢れていた頃の匂いじゃ。汗と、埃と、そして誰かの使い古された記憶が混ざり合った、労働と生活の残り香。……このジャムを並べている主は、新市街の無菌室に住む者ではない。旧市街の深い、深い闇の中から、この歩道橋を支えにやってくる亡霊じゃ」
瑠璃は瓶を元に戻すと、階段のずっと先、最上段のさらに上――歩道橋の中央に位置する、闇の濃い踊り場を見上げた。
そこには、新市街の強烈な逆光を背負った、痩せ細った、だが異常に背筋の伸びた人影が立っていた。
人影は、ゆっくりと、まるで錆びついたゼンマイ仕掛けの人形のような、ぎこちない、しかし慈しむような動作で、もう一つの「赤い瓶」を両手に抱えていた。
その人物は、僕たちの存在に気づいているのか、あるいは最初から僕たちのことなど眼中にないのか。
ただ、その場に跪き、最上段に置かれたばかりの瓶のすぐ隣に、もう一つ、別の『異物』を供えようとしていた。
「……おい!そこで何をしてるんだ!それは学園の備品じゃないぞ!」
僕が反射的に叫ぶと同時に、その影はびくりと大きく肩を揺らした。
逆光で見えなかった顔が、一瞬だけ、月の光に照らされる。
それは、想像していたような不気味な怪人でも、ハッカーのような若者でもなかった。驚くほどどこにでもいそうな、それでいて深い絶望を瞳に湛えた、初老の男性だった。
彼は如月学園の清掃員が着るような、しかしそれよりもずっと着古された、油汚れの染み付いた作業着を纏っている。
「……ああ、いけない。……また、足りないんだ。……重さが、まだ。……このままじゃ、この場所ごと、消えてしまう……。あの子との約束が、消えてしまうんだ……」
男の声は、湿った夜の風に溶けてしまいそうなほど、細く、掠れていた。
彼は持っていた瓶を、落とさないよう、それでいて急いでその場に置くと、階段を下りるのではなく、歩道橋の反対側――旧市街の、光を拒絶した暗闇へと向かって、転がるように走り出した。
「追うぞ、第一補助員!お主の唯一の存在意義である、その泥臭い脚力と、無駄に頑丈な心肺機能を見せてみよ!あの男を逃せば、わしたちの進路調査票は、本当の意味で白紙に戻るぞ!」
瑠璃の冷徹な激が、静寂を切り裂いた。
僕は反射的に自転車を放り出し、階段を一段飛ばし、あるいは二段飛ばしで猛烈に駆け上がった。
足元のジャムの瓶が、僕の足音の振動に合わせてカタカタと怯えるように震え、新市街の冷たい光を不気味に、そして嘲笑うかのように反射する。
なぜ彼は、廃棄される運命にあるジャムを『重石』と呼び、縋っているのか。
なぜ、この頑丈な鉄の歩道橋が『消える』と怯えていたのか。
踊り場に辿り着いた僕の視界に、男がジャムの瓶の横に置こうとしていた、『新たな拾得物』が飛び込んできた。
それはジャムの瓶ではない。
――古びた、真鍮製の、重厚な『呼び鈴(受付ベル)』。
かつて旧市街の賑わっていた商店や、小さなレストランのカウンターに置かれていたような、指で上部を叩けば『チーン』と澄んだ、しかしどこか寂しい音を鳴らすはずの、小さな鈴。
それが、真っ赤なジャムの瓶の横で、場違いなほどの存在感と、圧倒的な静寂を放っていた。
「……ジャムの瓶と、古臭い呼び鈴。……如月さん、これ、どういう因果の繋がりなんですか?まるで、見えない食卓の一部をここに運んできているみたいだ……」
「……『注文』じゃよ。……あの男は、この世界から消え去ろうとしている何かに向かって、届くはずのない注文を、毎夜、毎夜、繰り返しておるのじゃ。……あの呼び鈴が鳴らされる時、この街の『管理』という名の皮が剥がれ落ちるのかもしれぬな」
瑠璃は男が逃げ去った、光を拒絶する旧市街の暗闇をじっと見据え、その瞳をかつてないほど鋭く、そしてどこか哀悼の意を込めた色に尖らせた。
僕たちは今、新市街の完璧な管理網から完全に脱落した、歴史の裂け目へと、引きずり込まれようとしていた。
十二段の糖分は、もはやただの不条理な光景ではない。
それは、この街の底に重石として沈められた、誰かの――もう声にならないはずの――悲鳴そのものだったのだ。




