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第2話『甘い重石の並べ方』 ~Section 1:歩道橋の境界線と、赤い沈黙~

 その日は、朝から微かな違和感が街に漂っていた。

 新市街の管理AIが制御する気象予報は『快晴』を告げていたが、空には薄い膜を張ったような、不透明な白さがこびりついている。排気ガスを完璧に除去しているはずの空気には、どこか古い機械油が焦げたような、あるいは湿った土が蒸れるような、旧市街の『体臭』が混じっていた。


「……また、この筋肉痛か」


 僕は通学鞄を肩に掛け直し、自分の太ももの強張りに溜息をついた。

 数日前の『砂場の卵焼き事件』以来、僕の身体は悲鳴を上げ続けている。泥だらけで走り回り、如月瑠璃という嵐に巻き込まれた代償は、安っぽい湿布の匂いとなって僕の日常に居座っていた。


 月見坂市。この街は、巨大な見えない境界線によって二分されている。

 僕が通う如月学園高等部があるのは、すべてが幾何学的で、清潔で、最適化された『新市街』。そして、僕のような一般生徒や、時代の流れから取り残された人々が住む、錆びたトタンと複雑な路地が入り組む『旧市街』。

 その二つの世界を繋ぐのが、国道十六号線を跨ぐ、この古びた歩道橋だ。


 新市街の住民は、ほとんどこの歩道橋を使わない。彼らは自動運転の車か、地下を通る高速リニアで移動する。この歩道橋を利用するのは、僕のような自転車通学の生徒か、あるいは公共交通機関の恩恵に預かれない、旧市街の住人だけだ。


 その歩道橋の、踊り場へ向かう階段の途中で、僕は足を止めた。

 目の前に現れた『それ』を、脳がすぐには物体として認識できなかったからだ。


「……なんだ、これ」


 歩道橋の階段は、全部で十二段ある。

 その一段、一段。コンクリートの端の方、通行の邪魔にならない絶妙な位置に、『それ』は置かれていた。


 ――未開封の、イチゴジャムの小瓶。


 スーパーの棚で見かける、安価でどこにでもあるプラスチックの蓋が付いたガラス瓶だ。それが一段につき一つ、正確に配置されている。

 一段目に、一つ。二段目に、一つ。

 階段を上るごとに、同じ赤い瓶が僕を出迎える。


 僕は一段目に置かれた瓶を、まじまじと見つめた。

 もし誰かが買い物袋から落としたのなら、瓶は転がり、割れているはずだ。あるいは、誰かがうっかり忘れたにしては、十二個という数はあまりに不自然すぎる。

 何より異様なのは、その配置の正確さだった。

 ジャムのラベルに印刷された『真っ赤なイチゴ』の絵が、定規で測ったかのようにすべて正確に北の方角――新市街のビル群の方を向いて、直立していた。


 朝日が、瓶の中のドロリとした赤い果肉を透過し、階段の汚れを血のような色で染め上げている。

 誰かの嫌がらせだろうか。それとも、たちの悪いいたずらか。

 あるいは、最近街を騒がせている『砂場に卵焼きが埋まっていた』という、あの奇妙な都市伝説の模倣犯だろうか。


「サクタロウ。お主は、その程度の『不純物』で思考停止に陥るほど、安っぽい処理能力しか持ち合わせておらぬのか」


 背後から、凛とした、だがどこか楽しげな声が響いた。

 振り返る必要はない。この街で、僕をこれほどまでに傲慢な、しかし正確な一言で射抜く人間は、たった一人しかいない。


 如月瑠璃が、階段の下に立っていた。

 彼女は制服の襟を正し、左手にあの革表紙の手帳を抱えている。その瞳は、階段に並ぶ赤い瓶の列を、まるで名画を鑑賞するコレクターのような冷徹な情熱で捉えていた。


「如月さん……。見てくださいこれ。誰かが、ジャムを……」


「見ればわかる。イチゴジャムじゃな。糖分含有量は四十パーセント前後。賞味期限は……ふむ、一瓶ごとに一日ずつズレて並んでおるな。まるで、この階段を上るごとに時間が一日ずつ遡っているか、あるいは進んでいるかのような、稚拙で美しい演出じゃ」


 彼女は僕の横をすり抜け、一段、二段と優雅に階段を上り始めた。

 瑠璃の足取りは、瓶に一切触れることなく、それでいて瓶の一つ一つの『存在』を確認するように丁寧だった。彼女は踊り場まで辿り着くと、そこから振り返り、赤い瓶の列を眺めて鼻を鳴らした。


「サクタロウ、この光景をどう思う。……『うっかり落とした』と言うつもりなら、今すぐその『光る板』を旧市街の溝にでも捨ててくるが良い」


「言いませんよ……。落としたにしては綺麗すぎます。でも、誰かがわざわざこんなところでジャムを並べる理由なんて……。アートですか? それとも、何かの宗教儀式か……」


「否。これは儀式でもアートでもない。……これは、『重石(おもし)』じゃ」


 瑠璃は手帳を開き、万年筆を走らせた。

 彼女の指先が動くたびに、カサカサという紙の擦れる音が、歩道橋の下を走るトラックの走行音にかき消されていく。


「重石、ですか? こんな小さなジャムの瓶が?」


「そうじゃ。お主は、飛ばされそうな書類の上に石を置いたことはないか? あるいは、自分の心の揺らぎを抑えるために、掌を強く握りしめたことは? ……この瓶は、この古びた歩道橋が、新市街の『効率』という名の暴風に吹き飛ばされぬよう、誰かが必死に繋ぎ止めている、祈りのような重石なのじゃよ」


 瑠璃は、一番上に置かれた十二瓶目のジャムを指差した。

 その瓶の蓋には、他の瓶にはない、小さな指紋が残っていた。それは、機械が管理するクリーンな指紋ではない。油と、そして僅かな『土の匂い』を感じさせる、生々しい人間の痕跡だ。


「サクタロウ。お主のその『光る板』を使って、この瓶の製造ロットを洗え。新市街の管理AIが、いつ、どこで、この『時代遅れの甘味料』を廃棄対象にしたのかをな」


「……新市街の住民は、ジャムなんて食べないんですか?」


「彼らが摂取するのは、精密に計算された栄養ペーストと、サプリメントだけじゃ。……イチゴの種が歯に挟まるような非効率な悦びは、この街の『成功者』には必要のないものなのじゃよ。……だが、だからこそ。ここにこうして並べられたジャムは、致命的なまでの『毒』として、わしの目に映るのじゃ」


 僕は瑠璃の指示通り、スマホを構え、瓶のラベルのバーコードをスキャンした。

 解析画面が走る。

 

「……如月さん、出ました。これ、一ヶ月前に新市街のすべての全自動スーパーから撤去されたロットです。理由は……『不純物の混入』。いえ、違います。内容物のイチゴの糖度が、規定の数値を僅かに下回っていた。たった一パーセントの誤差で、このジャムたちは『ゴミ』として処理されたはずなんです」


「一パーセントの不完全……。なんとも美しい理由ではないか。……ゴミ捨て場から拾い上げられた十二の不完全さが、この歩道橋の階段で、北を向いて整列しておる」


 瑠璃は、踊り場の手すりから新市街を見下ろした。

 高くそびえ立つビル群は、朝の光を反射して、まるですべてが完璧であることを誇示しているようだ。だが、その足元にあるこの歩道橋には、赤いジャムの瓶が、血を流すように沈黙して並んでいる。


「……砂場に卵焼き。そして、歩道橋にジャムの瓶。……サクタロウ、お主はこれが、単なる偶然の連続だと思うか?」


「思いません。……誰かが、僕たちを……。いえ、如月さんを呼んでいるような気がします」


「呼んでいる? 傲慢じゃな、サクタロウ。……奴らは呼んでいるのではない。……堪えきれなくなった『生』が、この完璧な世界に吐き出した、ゲップのようなものじゃ。……そしてわしは、その不作法な音を、手帳に記さねばならぬ義務がある」


 瑠璃は、手帳をパチンと閉じた。

 その瞳には、退屈を何よりも嫌う、残酷で知的な光が宿っている。


「行くぞ、サクタロウ。まずはこのジャムを『ゴミ箱』から救い出した、不届きな足跡を探す。……この歩道橋が、本当に重石を必要としているのかどうか、わしが確かめてやる」


 僕は、自分の自転車を歩道橋の下に放置したまま、再び彼女の背中を追うことになった。

 階段を一段下りるたびに、ジャムの瓶が僕の足元で静かに笑っているような気がした。

 十二段の糖分。

 それは、これから僕たちが踏み込む、さらに甘くて苦い、因果の迷宮への入り口に過ぎなかった。



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