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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 10:砂場の終焉と、明日への足跡~

 背後で、内臓を揺さぶるような重低音が響いた。旧市街の象徴であった時計塔が、自らの重みに耐えかねた巨獣のように、ゆっくりと、だが確実に崩落していく。数十年分の埃が巨大な灰色の雲となって夜空へ舞い上がり、新市街の清潔な空気を一時的に汚染した。

 命からがら外へと飛び出した僕たちは、泥と煤、そして火花の残り香にまみれた姿で、冷たいアスファルトの上に倒れ込んだ。肺の奥まで埃っぽく、呼吸をするたびに喉の奥で鉄錆のような味がする。新市街の煌びやかなネオンが遠くに見えるこの境界線上で、僕たちの周りだけが、まるで古いモノクロ映画のワンシーンのように色褪せ、静止していた。


「……はぁ、はぁ……死ぬかと、思いました。如月さん、無事ですか? 怪我は……」


 僕は、脇に抱えていた『銀色の弁当箱』が歪んでいないことを確認し、隣に座り込む瑠璃に声をかけた。僕の制服は袖が破れ、膝には擦り傷が滲んでいたが、隣に立つ少女は驚くべき気品を保っていた。

 彼女は、乱れた黒髪を指先で優雅に整え、煤で汚れた制服の襟を、まるで高級ホテルの鏡の前であるかのように正した。その小さな手には、あの革表紙の手帳が、何よりも大切な聖典のように握られている。驚くべきことに、あれだけの騒動の中でも、彼女の瞳には一切の怯えも動揺もなかった。そこにあるのは、ただ夜明けを待つ空のような、透き通った知性の光だけだ。


「案ずるな、サクタロウ。如月家の人間は、砂の城が崩れる程度で狼狽えはせぬ。……それよりも、お主の抱えているその『亡霊の器』を離すなよ。それが、九条という男がこの街に残した唯一の、そして最も価値のない『答え合わせ』じゃ」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、煤けたローファーの先で地面を叩いた。そして、遠く東の空を指差した。

 水平線の彼方が、薄らと紫から白へと混ざり始めている。完璧に管理された新市街の幾何学的なシルエットが、夜の帳を脱ぎ捨てて、再び『正解』だけで構成された冷酷な世界へと姿を変えようとしていた。


「……九条は、どうなったんでしょう。あの崩落の中で、逃げられたのかな。それとも……」


「奴のような男は、システムという名の鏡の中にしか居場所を持たぬ。物理的な塔が崩れたところで、その精神は既にデジタルな海へと逃げ込んでおるじゃろう。……だが、奴が愛した『不純物の演劇』は、わしとお主という観客によって、今夜、無様に幕を下ろしたのじゃ。……さあ、戻るぞ。砂場が、朝を告げる準備をしておる」


 僕たちは、鉛のように重い足取りで南公園へと戻った。

 数時間前まで、狂気と陰謀の舞台だったあの砂場は、朝の冷たい空気の中で、何事もなかったかのように静まり返っていた。僕が必死に掘り返した穴は、周囲の砂が崩れ落ちて半分以上埋まり、あの『砂場の神様』という不気味な噂さえも、朝露とともに蒸発してしまいそうなほど儚く見えた。


 瑠璃は砂場の縁に腰を下ろし、膝の上で手帳を開いた。

 彼女は万年筆のキャップを外し、今夜起きた出来事の最後の一行を、一文字ずつ噛みしめるように書き加えた。ペン先が紙を擦る繊細な音が、静まり返った公園に心地よく響く。


「サクタロウ。お主、あの弁当屋の店主に、この社章と弁当箱を返しに行かねばならぬな。……労働の最後は、常に『清算』じゃ」


「ええ。それに、佐伯さんたちにも……。あ、でも、なんて説明すればいいんだろう。『お父さんの社章、時計塔の地下でハッカーが持っていました』なんて、警察も新市街の住民も信じてくれないですよ。狂人扱いされるのがオチだ」


「真実を語る必要はない。ただ、『落とし物がありました』とだけ言えば良い。……この街の人々は、自分たちの生活に説明のつかない不純物が混ざることを極端に嫌う。だが、一度それが『解決済みの遺失物』として形式化されれば、何事もなかったかのように日常という重い蓋を閉じる。それが、新市街という巨大な温室で生きる住人の、哀れな処世術じゃよ」


 瑠璃は、手帳から顔を上げ、僕をじっと見つめた。

 その視線には、いつもの傲慢さや冷徹さだけでなく、どこか『戦友』を認めるような、微かな、本当に微かな熱が含まれているように感じられた。

 女の子に耐性のない僕は、至近距離で見つめる彼女の瞳の深さに耐えきれず、顔が熱くなるのを感じて慌てて視線を砂場へと逸らした。


「……あの、如月さん。昨日の放課後……瑠璃、って……呼んでいいって、言ってくれましたよね」


 心臓が、時計塔が爆発した時よりも激しく脈打つ。

 彼女は少しだけ意外そうに目を見開いたが、すぐにクスクスと、冷たい真冬の鈴を鳴らすような声で笑った。


「言ったな。お主がその勇気を持っているのなら、呼ぶが良い。……だが、煤だらけで鼻の下に汚れをつけたままの無様な姿で、わしの名を呼ぶ資格があるかどうか……。それは、お主の今後の『労働』の質によって、わしが判断してやる」


「……やっぱり、如月さんでいいです。今の僕には、そのハードルはヒマラヤ山脈より高いです」


「賢明な判断じゃ。わしの名は、そう安売りするものではないからな。……お主にはまだ、如月さんの『さん』の響きが丁度良い」


 彼女は立ち上がり、公園の入り口に音もなく現れた、漆黒のリムジンへと歩み寄った。

 車窓に反射する強烈な朝焼けが、彼女の横顔を美しく、そして残酷なほど気高く照らし出す。彼女はドアに手をかけると、思い出したように僕を振り返った。


「サクタロウ。明日の放課後、旧校舎の図書室に来い。……お主の白紙だった進路調査票、わしが少しばかり『調律』してやったからな。感謝するのじゃぞ」


「えっ!? ちょっと待ってください、勝手に何を書いたんですか!? まさか、探偵助手とか、如月家専属奴隷とか……」


「それは明日のお楽しみじゃ。……さらばだ、サクタロウ。お主の筋肉とスマホ、次はもう少しマシな使い方を考えておけよ。……でないと、わしの手帳の余白がもったいない」


 リムジンは吸い込まれるように街の喧騒の中へと消えていった。

 僕は一人、朝日が完全に差し込み始めた公園に立ち尽くしていた。

 右腕には、数々の矛盾を吸い込んで重みを増した銀色の弁当箱。

 足元には、僕と彼女が駆け抜けた、長く、異常な夜の戦いの跡。


 ふと、砂場の隅に目をやると、そこには小さな、本当に小さな新しい足跡が一つだけ残っていた。

 それは、翔太くんが埋めた絶望の跡でも、九条が仕組んだ悪意の跡でもない。

 ただ、新しい一日を、自分の足で歩き出そうとする誰かの、確かな一歩。


 僕はスマホを取り出し、泥だらけの指で『月見亭』の店主に送るためのメッセージを入力した。 『卵焼き、冷めても本当に美味しかったです。……全部、あるべき場所に返しました』


 送信ボタンを押すと、画面の向こう側で、新市街の管理AIが『今日も異常なし。月見坂市は平和です』という無機質な通知を弾き出した。

 だが、僕は知っている。

 この完璧に見える世界には、目に見えない無数のノイズと、拾われるのを待っている『真実』が息づいていることを。

 そして、それをアナログな手帳に刻み続ける、一人の誇り高きお嬢様がいることを。


 僕は大きく背伸びをし、悲鳴を上げる脚を引きずりながら、自宅へと歩き出した。

 明日には、また新しい『落とし物』が僕たちを待っているだろう。

 如月瑠璃の指揮する、狂気と理性のアンサンブル。

 僕の、そして彼女の物語は、まだ始まったばかりなのだ。



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