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如月令嬢は『砂場の卵焼きを諦めない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『砂場の卵焼き』 ~Section 9:ノイズの調律師と、止まった時計塔~

 少年が消えた時計塔の入り口は、まるで巨大な怪物の口のように黒々と開いていた。

 新市街の建築物なら必ず設置されているはずの、指紋照合センサーも網膜スキャナーもそこにはない。ただ、長年の風雨に晒されて錆びついた鉄の扉が、不気味に半開きになっているだけだった。


「……如月さん。本気で入るんですか? ここ、不法侵入以前に、物理的に崩落してもおかしくないですよ。僕のスマホの構造診断アプリだと、危険度A判定です」


 僕は、銀色の弁当箱を抱えたまま、足の震えを隠そうと必死にスマホの画面を見つめた。

 だが、瑠璃は僕の警告など微塵も気にする様子はなく、その華奢な手で鉄の扉を押し開いた。ギィィ……と、耳を(つんざ)くような不快な金属音が深夜の旧市街に響き渡る。


「AIの診断など、過去の統計に基づいた憶測に過ぎぬ。サクタロウ、お主は知らぬのか。この街の管理AIが『危険』と定める場所こそが、人間が最も自由になれる場所なのじゃよ」


 彼女はためらいなく暗闇の中へと踏み込んだ。

 僕は慌ててスマホのライトを最大出力にし、彼女の足元を照らす。埃が舞い、カビと油の匂いが鼻を突く。螺旋階段の鉄柵は至る所で折れ曲がり、壁には無数のグラフィティが描かれていた。それは、新市街のクリーンなキャンバスには決して許されない、剥き出しの自己主張の跡だ。


「……見てください、如月さん。この壁の落書き、さっきのボタンと同じ紋章がいくつもあります」


「ふむ……。ここは『聖域』などという甘美な場所ではないな。わが如月コンツェルンが作り上げた『完璧な庭』から間引かれた、雑草たちの温床というわけか」


 階段を一段上るたびに、足元の鉄板が不吉な音を立てて撓む。

 ようやく最上階――巨大な歯車が静止したまま並ぶ、時計の文字盤の裏側に辿り着いたとき、そこには予想だにしない光景が広がっていた。


 廃墟のような外観とは裏腹に、その一角だけは、異常なほど高度な電子機器で埋め尽くされていた。

 数十台のモニターが並び、そこには如月学園の校内カメラ、港の監視ログ、さらには個人の通話記録と思われるデータが、滝のような速度で流れ落ちている。その中心に、一人の男が座っていた。


 男は、白衣を纏っていたが、それは医者のものでも科学者のものでもなかった。

 あちこちがインクや油で汚れ、ボタンは掛け違えられ、その背中からは何年も太陽を浴びていないような陰湿な気配が漂っている。


「……いらっしゃい、如月家の『最高傑作』。そして、その不器用な『インターフェース』くん」


 男が椅子を回転させ、こちらを向いた。

 その顔を見て、僕は思わず息を呑んだ。

 男の胸には、佐伯浩介が付けていたものと同じ、だがさらに鈍く、使い込まれた『アーク・コンサルティング』の社章が輝いていた。


「……佐伯浩介、じゃない。誰だ、あんたは」


「お主、アーク社の創設メンバーの一人……五年前、管理システムのバグを指摘して追放された、九条一馬(くじょう かずま)か」


 瑠璃の声には、一切の揺らぎがなかった。彼女は万年筆を抜き、まるで指揮棒のように男に向けた。


「ほう、さすがは瑠璃様。アナログな手帳に刻まれた記憶の精度は、わがシステムの予測を上回る。……その通り。私はかつて、この街の『心臓』を作った。だが、如月家は私の完璧なプログラムに『従順』だけを求め、そこに宿るはずの『意志』を切り捨てたのだ」


 九条と呼ばれた男は、モニターの一つを指差した。

 そこには、今夜の佐伯家の様子がリアルタイムで映し出されていた。泣き崩れる父親と、絶望する息子の姿が。


「あの卵焼きは、私の『実験デバッグ』だった。佐伯浩介は私の教え子であり、最も優秀な、そして最も脆いサンプルだった。彼に『おふくろの味』という非合理な執着を植え付け、如月学園の入試説明会という最高に合理的な舞台で、その矛盾を爆発させる……。どうだい、見事なノイズだろう?」


「……あんたが、翔太くんにあの卵焼きを捨てさせたのか? 自分の教え子を壊してまで、こんなことをして楽しいのかよ!」


 僕は怒りで震える声を上げた。抱えていた弁当箱が、カタカタと音を立てる。


「壊したのではない、解放したのだよ、光太郎くん。……この街のAIは、完璧な人間しか愛さない。だが、人間は不完全な時にこそ、最も美しいエラーを吐き出す。砂場に埋められたあの卵焼きは、管理システムに対する宣戦布告だった。……そして、それを如月瑠璃、君が拾うことまでが、私の計算に入っていた」


 九条は不気味な笑みを浮かべ、キーボードを叩いた。

 一斉にモニターの表示が切り替わり、そこにはサクタロウのスマホの内部データが表示された。


「……っ!? 僕のスマホが……勝手に操作されてる!」


「お主のその『光る板』は、既に九条の支配下にあるようじゃな。……だが九条、お主は一つ大きな見落としをしておる」


 瑠璃は一歩も引かず、九条の懐へと踏み込んだ。


「お主は『矛盾』を愛していると言ったが、真の矛盾とは、計算で生み出せるものではない。翔太くんが卵焼きを砂場に埋めたのは、お主の教唆があったからかもしれぬ。……だが、それをわしが拾い、サクタロウが泥まみれで走り、店主の想いに触れた。そこにある『体温』は、お主のどのモニターにも映っておらぬのじゃ」


 瑠璃は、手帳の中から一枚の紙を引き抜いた。

 それは、港の『月見亭』で店主が渡してくれた、領収書の裏に書かれたメモ書きだった。


「主は言っていた。『この卵焼きは、冷めても味が落ちぬように、特別なリンゴ酢を混ぜてある』と。……九条、お主の弁当箱に入っていた三種類の卵焼き……。その中に、主の真心がこもった『四つ目』の卵焼きは入っておらなんだ」


 九条の表情が、初めて凍りついた。


「四つ目……? バカな、佐伯が買ったのは六つだ。私が回収し、再配置したのは……」


「お主がモニター越しに眺めている間に、真のノイズは既に動き始めておったのじゃ。サクタロウ、あの弁当箱の中身を、今一度よく見よ!」


 僕は瑠璃に促され、銀色の弁当箱の蓋を再び開けた。

 三つの卵焼きの隙間にあった、あの『銀色の社章』。

 ライトを至近距離で当てて気づく。……その社章の裏側には、小さな、本当に小さな文字で、九条一馬の指紋では決して消せない『店主の指印』が、醤油の跡となって付着していた。


「……これ、店主さんが、わざと付けたのか? 『銀色のバッジの男』が来たときに、目印として……」


「そう。お主が管理しきれなかったのは、最新のハッキング技術ではなく、旧市街の弁当屋の、油塗れの指先だったというわけじゃ。……九条、お主の負けじゃ。真実を暴いたのはお主のシステムではない、わしのこの『紙とペン』、そしてサクタロウの『筋肉』じゃよ」


 瑠璃が万年筆を九条のモニターに向かって鋭く振り下ろした。

 パリン、というガラスの割れる音とともに、時計塔の電源が激しく火花を散らし、一瞬にして周囲は真の闇へと戻った。


 九条の悲鳴のような絶叫が、止まった歯車の間に響き渡る。


「……サクタロウ、今のうちにその弁当箱を抱えて脱出するぞ! 崩落の予兆じゃ!」


「ええええ!? 結局、物理的に壊れるんじゃないですか!」


 僕は瑠璃の腕を掴み、火花が散る暗闇の中を、螺旋階段へと飛び込んだ。

 背後で、時計塔の心臓部が、砂の城のように音を立てて崩れ始めていた。



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