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プロローグ:境界線の向こう側

 月見坂市(つきみざかし)の空は、いつだって嘘くさいほどに青い。この街を支配する如月コンツェルンが設計したスマートシティは、すべてが『最適解』で構成されている。空気を汚さない電気自動車が音もなく滑り、AIが管理する清掃ロボットが、道端の塵一つ、あるいは人々の心に生じるわずかな『ノイズ』さえも、見逃さずに処理していく。

 超高層ビルのガラス壁は、太陽の光を効率よく街の隅々にまで反射させるように計算され、地上には影さえも許されないかのような、徹底した清潔さと規律が守られていた。それが、僕たちの住む世界の『表側』――完璧に調律されたディストピアに近いユートピアだ。


 だが、その完璧な設計図から、意図的に塗りつぶされたような場所が一つだけある。北側の斜面、緩やかな坂を上り切った先に佇む『月見坂高校・旧校舎』がそれだ。

 新市街の喧騒から隔絶されたその場所には、蔦が血管のように這い回り、木造の壁は風雨に晒されて黒ずんでいる。近代的なビル群を見下ろす巨大な墓標のようにも見えるその建物は、如月コンツェルンの慈悲か、あるいは気まぐれか、再開発の手を逃れてひっそりと息を潜めていた。校門を一歩くぐれば、最新式のスマホのアンテナは瞬時に一本、また一本と力尽き、やがて『圏外』という絶望的な無音の世界へと、僕を突き落とす。


「……なんで僕が、こんなところに」


 朔光太郎(さく こうたろう)は、手に持った進路希望調査票を恨めしく見つめ、軋む廊下を歩いていた。ここは生徒たちの間では『魔窟』あるいは『お化け屋敷』と呼ばれている。如月の令嬢が、放課後に怪しげな実験を繰り返しているという噂。拾い集めた死体をつなぎ合わせているだの、異世界の門を開こうとしているだの、ろくな話を聞かない。


 平穏無事、無味乾燥、目立たず生きる。それが高校一年生、僕の座右の銘なのに。


 突き当たりの、旧三年二組の教室。

 引き戸を引けば、「ギィィ……」と鼓膜を逆なでする悲鳴が上がる。西日に照らされた埃が舞う中、部屋の中央に置かれたコタツの中から、一人の少女がひょっこりと顔を出した。


 如月瑠璃(きさらぎ るり)

 如月家が誇る『至高の宝石』と称される少女だ。絹糸のような黒髪が肩に流れ、大きな紫色の瞳が、侵入者である僕を静かに、だが射抜くような鋭さで捉えた。彼女は、銀色のピンセットを使い、どこから拾ってきたのかもわからない錆びついた『ネジ』を、解剖医のような冷徹さで観察していた。


「――遅いぞ、サクタロウ。お主を待つ間に、このネジは四度目の輪廻を終えたわ」


「……如月さん。先生に言われてた進路調査票、届けに来たんだけど」


「瑠璃で良いと言ったはずじゃ。お主はいつまで如月などと他人行儀な呼び方をするのか。わしの名前は、お主の薄い辞書には載っておらんのか?」


「いや、それは……その……」


 正直に言えば、女の子に耐性がない僕にとって、この至近距離で、それもこんなに美しい――そして恐ろしい――少女を名前で呼ぶなんて、エベレストに軽装で挑むようなものだ。声が震えないようにするのが精一杯で、とても『瑠璃』なんて甘酸っぱい響きを口にできる勇気はない。


「ふん、臆病なやつめ。だが、その慎ましさだけは評価してやろう」


 彼女はピンセットを置くと、コタツから勢いよく立ち上がった。一四七センチという小柄な体躯が、夕暮れの教室に長い影を落とす。


「サクタロウ。この街には何でも揃っておる。光も、富も、計算された幸福もな。だが、一つだけ足りないものがある。お主にはわかるか?」


「え……? 娯楽、とか?」


「無知だな。足りないのは――意志ある『ノイズ』じゃよ。この完璧な世界に、道理の通らぬ不純物を叩き込む。それがわしの、高貴なる遊びなのじゃ」


 彼女は不敵な笑みを浮かべ、そのまま廊下へと風のように踏み出した。窓の外を見下ろせば、旧校舎のアスファルトに不釣り合いなほど長大な黒塗りのリムジンが待機している。彼女が車に乗り込み、V8エンジンの唸りが旧校舎を震わせ、夕闇の中へと消えていく。


 後に残されたのは、わずかな排気ガスの匂いと、取り残された僕の溜息だけだ。このときはまだ、知る由もなかった。

 翌日、彼女が砂場から『卵焼き』という名の、あまりにも不純で、あまりにも愛おしいノイズを拾い上げてくることなど。


 これが、僕の平穏な日常が『ありえないもの』によって崩れ去る、前夜の静寂だった。



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