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第8話 光ではないもの

時間が、過ぎていく。


何も、起こらない。


光は、戻らない。

形も、結ばれない。

合図も、続かない。


私は、待つ。


向かいに座るその人は、動かない。

最初から、こうなると知っていたかのように、

落ち着いている。


私は彼を見て、

それから、目の前の空白を見る。


今、私たちは、

どの段階にいるのか。

それが、わからない。


――そのとき。


変化があった。


内側ではない。

外側だ。


空間を縫うように、

ひとつの気配が近づいてくる。


空気が、わずかに動く。

音の流れが、ほんの一瞬、歪む。


私は、視線を向けた。


女性だ。


両手に、

平たいものを載せている。


白い。

硬い。

重ねられている。


――光では、ない。


彼女はテーブルの横で立ち止まり、

何かを口にする。


音は聞こえる。

けれど、意味にはならない。


彼が応じる。

短く。

気負いなく。


そして、

私のほうへ、手で示す。


それらは、

私の前に置かれた。


机の表面に、

確かな重さが伝わる。


鈍い音。

触れたという、事実。


女性は、

もう振り返らずに去っていった。


私は、しばらく動けない。


――そうか。


この世界は、

光を食べてはいない。


理解が、

ゆっくりと、形を変える。


一度にではない。

けれど、十分に。


胸の奥にあった、

言葉にできない恐怖が、

静かに退いていく。


得体の知れない何かで

生き延びる世界ではない。


それだけで、

体の力が、少し抜けた。


私は、

目の前のそれを見る。


あたたかい。


湯気が、

穏やかに立ち上る。


痛みはない。

鋭さもない。


匂いは、濃い。


塩。

脂。

焼かれたものの気配。


思考より先に、

体が反応した。


胃の奥が、きゅっと縮む。


知らない感覚。

けれど、拒絶ではない。


――食べ物だ。


本物の。


少し遅れて、

同じものが、彼の前にも置かれる。


彼は短く礼を言い、

女性は去った。


また、

静けさが戻る。


私は、彼を見る。


彼は、すぐには手をつけない。


代わりに、

私を見ている。


じっと、ではない。

急かすこともない。


何かを、

待っているような視線。


私は、視線を落とす。


食べ物は、

とても単純な構造をしている。


層。

パンのようなもの。

厚く焼かれた肉。

緑。

赤。

粘度のあるもの。


――道具が、ない。


置かれていない。

示されてもいない。


私は、ためらう。


手は、膝の上に置いたままだ。


私の世界では、

ありえない。


食事は告げられ、

順序があり、

器具が選ばれ、

許可のあとに、始まる。


それが、当たり前だった。


ここには――


何もない。


求められているのは、

即座の行為。


指先に、

じんわりと熱が集まる。


魔力ではない。

血の巡り。

意識。


もう一度、彼を見る。


彼はすでに、

それを手に取っていた。


両手で。

ためらいなく。


何の儀式もなく。


ひと口、噛み取る。


音がする。


柔らかく、

湿った、

決断の音。


咀嚼。

嚥下。


それから、

ようやく彼は、動きを止めた。


何かに気づいたように。


私を見る。


動かない手。

手をつけられていない食べ物。


彼の表情に、

小さな揺れが走る。


困惑。

気遣い。

そして、抑制。


彼は何も言わない。


教えもしない。

正しもしない。


ただ、待つ。


――理解した。


別の選択肢は、

用意されていない。


私は、

ゆっくりと手を上げる。


触れた感触に、

一瞬、驚く。


あたたかい。

少し湿っている。

指に、重みが伝わる。


これは、

飾るための食事ではない。


掲げるものでも、

祈るものでもない。


持つために、

作られている。


ふと、

記憶がよぎる。


白い石の広間。

磨き上げられた床。

四方から注がれる視線。


背筋を伸ばし、

手は揃え、

動かない。


――決して、こんなふうには。


私は、

指に力を込める。


これ以上、迷えば、

それ自体が、異質になる。


食べ物を、持ち上げる。


匂いが、

一気に近づく。


逃げ場はない。


口を、開く。


噛み取った。


瞬間、

すべてが押し寄せる。


熱。

塩味。

脂。

重さ。


濃く、

強く、

容赦がない。


息が、詰まる。


痛みではない。


圧倒されたのだ。


これは、

儀礼のための栄養ではない。


世界の鼓動に

寄り添うものでもない。


どこにも、

レイラインの脈動はない。


食べ物さえ、

世界から切り離された、

温かいだけの塊。


――それなのに。


噛むたびに、

確かに力が満ちていく。


指先に、

油が滲む。


私は、一瞬、固まる。


汚れ。


私にとって、

それは――


誇りの痕だ。


それでも、

私は噛むのをやめなかった。


今、止まれば、

それは拒絶になる。


飲み込む。


重い熱が、

体の内側へ落ちていく。


生きている感覚。


体は、

何の疑いもなく受け入れている。


私は、瞬きをした。


一度。

二度。


彼は、私を見ている。


覗き込むようでもなく、

観察するようでもない。


ただ、

そこにいることを確かめるように。


「……おいしい?」


言葉の形は、

完全には理解できない。


けれど、

意味は、伝わる。


心配。

確認。

害はなかったかという問い。


私は、考える。


慎重に。


そして、

小さく答えた。


「……あたたかい」


喉が、わずかに痛む。


けれど、

もう耐えられないほどではない。


彼は、

ほんの少しだけ口元を緩めた。


歯は、見せない。


意味のない所作で、

紙の布を取り、

口元を拭う。


使い捨ての、

儀式を持たない動き。


私は、また食べ物を見る。


立ちのぼる熱。

指についた油。


――そうか。


この世界は、

光を食べない。


熱を食べる。

塩を食べる。

重さを食べる。


そして、

誇りさえも――


静かに、

奪っていく。


生きるために、

私はそれを、受け入れなければならない。

第8話をお読みいただき、ありがとうございます。


彼女が手にしたのは、かつての宮廷の儀式とは無縁の、ただ温かく、重い「現実」でした。

手で持ち、指を汚し、直接熱を喰らう。


それは空腹を満たす以上に、

彼女がこの世界に「触れてしまった」最初の、確かな実感だったのかもしれません。


受け入れたのか、奪われたのか。

あるいは、その両方だったのか。


次回、第9話「あと」。

食事のあと、静寂の中で残されたものが形を持ちはじめます。

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