第7話 牙を見せない微笑み
「……だいじょうぶ?」
その音は、静かだった。
鋭くない。
命令でもない。
ただ、
空気がわずかに震え、
問いの形を取っただけの音。
言葉としての意味は、すぐにはわからない。
けれど――
意図は、先に届いた。
心配。
確認。
差し迫った敵意は、ない。
人の流れは、まだ私たちの周囲を押し続けている。
騒音は止まらない。
形を変えながら、ただ流れ続けている。
その人は、歩調を落とした。
急ではない。
私が気づく程度に、ほんの少し。
壁際。
人の密度が薄くなる場所。
細い通路が、そこに開いている。
誘導のための表示はない。
色も、装飾もない。
白い光。
滑らかな面。
何かと何かをつなぐためだけに存在する、
余白のような空間。
その人は、指ささない。
行けとも言わない。
ただ、立ち止まった。
……わかる。
そこは、静かだ。
圧が、弱い。
私は、自分から足を向けた。
人の流れを外れた瞬間、
騒音が、剥がれ落ちる。
肩の力が、
意識しないうちに抜けていた。
その人は、ついてくる。
けれど、距離は保ったまま。
ここでは、
空気の感触が違う。
まだ不安定。
けれど、薄い。
肌の上を這っていた静電気のようなざわめきが、
わずかに、和らいだ。
……話したくない。
疲れている。
さっき修正したガラスの箱のリズムが、
まだ胸の奥に残っている。
息を吸うたび、
空気そのものが、噛み合っていない感覚。
座りたい。
考えるのを、やめたい。
でも――
応えなければならない。
沈黙は、ここまで私を運んできた。
これ以上の沈黙は、
絡まった糸を、さらに締めるだけだ。
私は、意識を内側へ向ける。
慎重に。
まず、封を補強する。
縁を締め、
内部の流れを、ならす。
開かない。
放出もしない。
ただ、
音の形だけを作って、
外へ押し出す。
「……だいちょ……ぶ」
痛みが、即座に弾けた。
鈍くない。
遠くもない。
喉の内側が、
砕けたガラスで敷き詰められたように、
息の通り道を削っていく。
この世界で、
触れてはいけないものに、
無理やり振動を通した感覚。
呼吸が、詰まる。
音は、歪んだ。
欠けている。
整っていない。
……わかっている。
一瞬、
失敗したかもしれないと思った。
けれど――
その人の表情は、
やわらいだ。
音は壊れていても、
意図は、届いたらしい。
心配の色は、濃くなる。
それでも、疑念には変わらない。
近づいてこない。
手にしていた黒い物体も、持ち上げない。
ただ、
次に何をすべきか、
判断を探している顔。
……話すのは、痛い。
でも、
ここで話さなければ、
もっと高くつく。
その人は、
手の中の黒い板に視線を落とした。
周囲の光を吸い込むような、
平たいガラス。
表面が、かすかに揺らぐ。
水面が落ち着くのを拒むような、
微細な乱れ。
私は、無意識に身構えた。
けれど、
その人は小さく息を吐き、
それをしまい込む。
見えないところへ。
そして、また話す。
今度は、より自然に。
断片だけが、耳に残る。
調子。
方向。
「ここは……よくない」――そんな響き。
意味は、つながらない。
私は、
首を傾げてしまった。
その動きを見て、
彼は言葉を止める。
私を見る。
考え直す。
「……何か、食べる?」
今度は、はっきりと伝わった。
差し出す意図。
世話。
安定させようとする動き。
体が、先に反応する。
封が、
反射的に締まる。
未知の危険に備えるように。
言葉は、知らない。
でも、
何を問われているかは、わかる。
そして、
この世界に来てから初めて、
はっきり理解した。
話すことは、痛い。
けれど、
助けを拒むほうが、
もっと危険かもしれない。
私は、一度だけ頷いた。
その人は、微笑んだ。
歯が、見える。
ほんの一瞬、
体が硬直する。
私の世界では、
歯を見せる行為は、
安心ではない。
威圧。
優位。
警告。
脈が跳ね上がる。
その変化を、
彼はすぐに察した。
笑みは消え、
形を変え、
慎重な表情に置き換えられる。
視線を落とし、
自分を小さくするような仕草。
……やっと、わかる。
あれは、
私に向けた反応ではなかった。
彼はもう一度、
黒い板を取り出し、
何かを確かめるように見てから、
しまう。
そして、
ついてくるように手で示した。
⸻
自動扉が開いた瞬間、
空気が変わった。
外よりも、あたたかい。
音が、吸われる。
光は、均一。
影が、ほとんどない。
中は、
整えられた空間だった。
長方形の机が、
規則正しく並んでいる。
滑らか。
清潔。
痕跡を残さないための材質。
人は、座っている。
静かに。
ほとんどの視線は、
上がらない。
――一つだけ、上がった。
隣の机の男が、
私の髪を見る。
次に、
私の向かいに座る人を見る。
一拍、長い。
それから、
何もなかったように視線を戻す。
皮膚が、ひりつく。
私は、
思わず目を伏せた。
空気には、
温かさがある。
苦味。
わずかな甘さ。
どこかで、
湯気が立っている気配。
意味を持たない旋律が、
天井から流れてくる。
一定。
変化しない。
私は、
露出している感覚を覚えた。
全員に見られているからではない。
見るかどうかが、
選べる場所だからだ。
誰かが、
見ることを選んだ。
その人は、
端の席を選ぶ。
隠れてはいない。
けれど、中心でもない。
私は、
少し迷ってから、
向かいに座った。
手の下の机は、
冷たく、
不自然なほど滑らかだ。
現実を思い出させる感触。
彼は、
黒い板を机に置いた。
ガラスが、目を覚ます。
光が広がる。
像が、現れる。
鮮やか。
密集。
重なり合う。
形。
色。
意図をもって配置されたものたち。
気づかないうちに、
身を乗り出していた。
……食べ物。
光で、選ばれる。
準備は、見えない。
待ち時間も、ない。
道具も、ない。
この世界では、
こうするのか。
栄養が、
情報に還元され、
触れることで決まる。
彼は、
私の反応を見て、
慎重に微笑む。
今度は、歯を見せない。
視線で、
見ていいと伝える。
どこを見ればいいのか、
わからない。
すべてが、
過剰だ。
彼は、また話す。
「何がいい?」
構造は、理解できる。
でも、
答えが、存在しない。
沈黙が、伸びる。
彼は気づき、
短く笑った。
……また、身が固まる。
彼はすぐに止めた。
音は、戻らない。
代わりに、
指を滑らせる。
像が、
ガラスの下を流れていく。
終わりのない選択。
数えきれない変化。
「これ、美味しい」
一つを、軽く叩く。
小さな音。
決定。
光が、並び替わる。
見えない工程が、
一段、進んだ気配。
彼は、
黒い板を脇に置いた。
終わり。
……何も起きない。
動きもない。
運ばれてくるものもない。
私は、待つ。
静けさが、
伸びる。
空気が、
一度、揺れる。
もう一度。
それでも、
何も変わらない。
光は、戻らない。
形も、現れない。
仕組みは、
完了している。
理解が、
ゆっくりと収束する。
この世界は、
光で、食べ物を得る。
第7話をお読みいただき、ありがとうございます。
誇り高き王女であるルーナにとって、沈黙を破り、見知らぬ相手の問いに応じることは、決して些細な決断ではありませんでした。
それは屈服ではなく、生き延びるために状況を見極め、最善を選び取るという、彼女なりの「判断」です。
私たちにとっては何気ない仕草や表情――歯を見せる微笑みでさえ、彼女の世界では異なる意味を持ちます。
その小さなズレが、二つの世界の距離を静かに浮かび上がらせていたなら幸いです。
次回、ルーナが足を踏み入れるのは、光に満ちた選択の先にある、より現実的で、より「重い」体験です。
彼女がこの世界で生きるために、何を受け入れ、何を手放すのか。
第8話「光ではないもの」も、どうぞお付き合いください。




