第3話 朝の光は、待ってくれない
朝が、来ている。
目を開く前から、それがわかった。
地下の通路は、まだ静かだ。
けれど、昨日までの静けさとは違う。
上の世界から降りてくる音が、薄くなっている。
重さを失い、引き伸ばされ、遠ざかっていく。
……世界が、先に動き始めている。
私は、少し眠っていたらしい。
身体の痛みは残っているけれど、鋭さはない。
深く沈み、封じられ、
無理に触れなければ暴れ出さない程度には、収まっている。
目を開けると、彼がいた。
昨夜と同じ場所で、
昨夜と同じ動作を、繰り返している。
長い柄のついた道具を動かし、
床に溜まった水と塵を、細い線に集めていく。
一つひとつの動きは遅く、
けれど、迷いがない。
床がそうしろと命じているわけではない。
彼の身体が、それを覚えているだけだ。
私が身じろぎすると、動きが止まった。
彼は私を見て、
それから、上へ続く通路を見て、
もう一度、私を見る。
何かを言う。
「#@%……?」
音は、はっきりしている。
抑揚も、間も、安定している。
……意味だけが、来ない。
私は、意識を内側へ折りたたむ。
集中。
引かない。
漏らさない。
外へは、触れない。
引き出さない。
ただ、自分の内側に張った“結び目”を、
ほどけていないか、そっと確かめる。
返ってきたのは、かすかな反応。
心配。
警戒。
敵意は、ない。
彼の肩が、ほんの少しだけ緩む。
彼は、もう一度、今度はゆっくり話した。
「……だいじょ……ぶ?」
私は、形をなぞるように、口を動かす。
「……だいじょうぶ。」
一瞬、彼の目が見開かれた。
そして、すぐに柔らぐ。
――通じた!
胸の奥が、きゅっと締まる。
怖さではない。
負荷だ。
封じたまま、慣れない音を押し出すのは、
内側を、細い刃でなぞられるような感覚がある。
これは……長くは、できない。
私は、そこで止めた。
彼は、一度だけ頷いた。
肯定でも、拒否でもない。
理解。
彼は道具を置き、
近くにあった透明な容器を指さしてから、
手を上へ向けて、ゆるく動かす。
命令ではない。
方向を示しているだけ。
……朝。
私は、小さく頭を下げた。
彼は何も言わず、
また同じ動作へと戻っていく。
私がどうするかは、私が決めるものだと、
最初から知っているみたいに。
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通路を上る。
外の闇は、薄れていた。
開くのではなく、
押し戻されていく。
高い構造物の向こうから、淡い光が広がっている。
鋭く、細く、
空気に切り込みを入れるみたいに。
……薄い。
空が、ある。
本当に、ある。
天井も、
閉じ込めるガラスも、
規則正しく並んだ偽物の太陽もない。
一瞬、息を忘れた。
けれど――
空は、押し返してこない。
私の世界の光は、重さを持っていた。
空間を満たし、
肌に触れてから、目に届く。
この光は、違う。
遠い。
澄んでいる。
どこか、冷たい。
明るくなっていくのに、
一切、ためらわない。
この世界の朝は、
立ち止まらない。
私が迷っている間にも、
空は次の色へ移っていく。
朝は、決断だ。
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地面は広く、濡れている。
硬く、平らな面が光を割り、
くぼみに溜まった水が、
何かが通るたび、小さく震える。
金属の獣たちは、列をなして動いていた。
止まり、
そして、同時に走り出す。
高い柱に灯る色が変わると、
動きも変わる。
魔法は、ない。
レイラインも、ない。
それでも――秩序はある。
優しくはない。
支えもしない。
壊れるかどうかを、気にしない規則。
これは、レイラインじゃない。
あれは、運び、
戻し、
和らげる。
これは、ただ進ませるだけだ。
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視線が、集まる。
一人でも、二人でもない。
露骨には見ない。
けれど、
見て、逸らし、
また見る。
私は歩調を落とす。
視線は、同じ順番で私をなぞる。
服。
頭。
顔。
私は、目を伏せた。
この世界の人々の装いには、
静かな規則がある。
長さ。
形。
色。
暗く、
控えめで、
使われて、馴染んでいる。
引っかかるものが、ない。
私の服は――違う。
縫い目も、布も、
この世界のどれとも噛み合わない。
ガラスに映った自分を見る。
……考える必要はなかった。
私は、範囲の外にいる。
問題は、存在じゃない。
差だ。
理解は、すぐに追いついた。
私は息を整える。
集中。
封じる。
布は、変えられる。
表面は、鈍らせられる。
けれど――
変えられないものも、ある。
だから、動くしかない。
立ち止まること自体が、
もう目立っている。
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一人の女性が、少し離れた場所で足を止めた。
声が、届く。
意味は、まだ来ない。
……変わっていない。
それでいい。
そして――困る。
私は、集中する。
彼女は、もう一度、ゆっくり話した。
「……迷ってますか?」
意味が、細い糸の上を渡ってくる。
自然じゃない。
自由でもない。
胸の奥が、ひりつく。
……これが、限界。
私は頷いた。
彼女は微笑み、
何かを続けて言おうとする。
意味は、ほどけた。
痛みが、深くなりかける。
私は、小さく頭を下げ、
その場を離れた。
完全な成功じゃない。
でも――
できる。
少しなら。
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光が、また強くなる。
立ち止まっている間にも、
世界は進んでいく。
朝の光は、待ってくれない。
私は一度だけ、振り返る。
地下へ続く暗い入口。
隠れられる場所。
同時に、閉じ込められる場所。
……いられない。
私は、意識をもう一度内側へ折りたたむ。
集中。
引かない。
漏らさない。
歩き出した――そのとき。
足の裏から、
微かな振動が伝わってきた。
空でも、
地面でもない。
一定で、人工的な揺れ。
背骨を上り、
目の奥に、じんと残る。
……下。
深い場所から、
何かが動いている。
理由は、わからない。
でも、わかってしまった。
――行かなければならない。
私は、そちらへ向かって歩き出した。
今日(12/25)はクリスマスということで、特別に前倒しで更新しました!
基本は「毎週日曜日」の更新を予定していますが、今回はクリスマスのおまけです。
足を止めて読んでいただけたら嬉しいです。
次回(第4話)は、予定通り今週の日曜日に更新予定です。
ルーナが少しずつこの世界を知り、関わりが増えていく展開になりますので、
ぜひ楽しみにしていただければと思います。
皆様、良いクリスマスを!




