第2話 地下の静けさ
通路は、地下へ続いていた。
奥へ進むほど、さっきまでの喧騒は遠い残響に変わっていく。
代わりに残ったのは、どこかで水が落ちる、かすかな音だけだった。
一歩ごとに、私は地上から引き剥がされていく。
通りの音は、薄く伸び、途切れ、ほどけて、
まるで上の世界が、層を重ねるように封じられていくみたいだった。
一気に閉じるんじゃない。
ゆっくり、意志を持って。
急に静かになって、耳の奥がきんと鳴った。
空気は冷たい。
重い。
肌をすり抜けるというより、まとわりついてくる。
私は、ゆっくり息を吐いた。
白く曇った息は、目の前で薄く広がって、
均一じゃないまま、散っていった。
……ここは、何も調律していない。
快適さのための循環もない。
安定させる流れもない。
この世界の人間は、こんな剥き出しの環境を当たり前に耐えている。
その事実が、一瞬だけ怖かった。
私の世界の沈黙は、空っぽじゃなかった。
止まってもいなかった。
宮殿の最奥でさえ、レイラインの脈動は常にそこにあった。
やさしい圧力が、世界をそっと押さえ、
「大丈夫」と、どこまでも支えてくれるような――
でも、ここにはない。
背後の共鳴もない。
支える微かな唸りもない。
運ばれている感覚もない。
叫び声も。
金属の獣も。
眩しい光も。
ただ、静けさ。
……平穏ではない。
ただ、空白だ。
私は呼吸を整え、冷たい壁にもたれた。
掌の下の表面は、ところどころ粗く、ところどころ滑らかで、
継ぎはぎの修繕が重なっている。
左右対称でも美しくもない。
「長持ちすること」だけを優先した構造。
そして――意識を内へ向けた瞬間、すぐにわかった。
欠落。
空っぽというより、応答がない。
呼びかけても、反響が返ってこないみたいに。
もっと深く触れようとする衝動が強い。
身体が、思考より先に動きかけた。
けれど私は、痛みが膨らむ前に止めた。
気をつけないと。
癖に支配されたら終わる。
呼吸のたびに、引っ張られる。
探したくなる。
本来そこにあるはずのものを。
その習慣は、幼いころから骨に刻み込まれていた。
――また、やりかけた。
肋の奥に、刃を押し当てられるような鋭い警告が走る。
私は硬直した。
だめ。
それじゃない。
私は逆の動きを選んだ。
外へでも、内へでもなく。
自分の内側で、自分を畳む。
閉じる。
塞ぐ。
開いてしまったものを、封じる。
ゆっくり。
慎重に。
まず呼吸を整える。
吐く息を長く、吸う息を短く。
それに合わせて、内側の流れを導く。
痛みが、ほどけた。
何かが漏れていく感覚が弱まっていく。
裂けた縫い目が、ようやく押さえ込まれていくみたいに。
心臓が落ち着く。
乱れていた拍動が、遅く、確かなリズムに戻る。
指先の痺れも少しずつ引いていった。
温かさが戻る。
豊かではない。
……でも、足りる。
内側の流れを観察して、私は理解した。
私の核は、ひび割れた器だ。
私の世界なら、壊れた導管でさえ支えがあった。
レイラインが溢れを受け止め、
角を丸め、
均して、
静かに返してくれる。
そうして、いつかバランスに戻る。
でもここには、その慈悲がない。
押さえきれないものは、ただ漏れる。
翻訳されないまま、緩衝もされないまま。
そして、その代償を払うのは私の身体だ。
レイラインのない場所で「引く」ことは、
真空で息を吸おうとするのに似ている。
受け取るものがない。
答えるものがない。
だから今は――引かない。
漏らさない。
私は自分を確かめる。
身体はまだ痛む。
深く、鈍く、しつこく。
けれど、服の脇が裂けているのに気づいた。
さっき倒れたときだろう。
布は歪み、糸がほどけて、今にも広がりそうだ。
私は迷った。
ここで失敗したら、誰も助けてくれない。
レイラインは受け止めない。
構造は緩衝しない。
引き戻す手もない。
愚かだ。
小さなミスひとつで、せっかくの安定は崩れる。
でも――証明が必要だった。
力の証明じゃない。
制御の証明。
こんな小さなことすら任せられないなら、
敵より先に、この世界が私を壊す。
私は意識を細く絞り、
指先の裂けた布だけを世界にした。
成形しない。
増幅しない。
身体が勝手に完成させようとする型も呼び出さない。
ただ、導く。
震える手を無理やり動かすんじゃなく、
落ち着かせるみたいに。
私はわずかな制御を集め、集中した。
一定に。
最小で。
無駄なく。
魔力を動かす感覚が、ひどく「合わない」。
精密機構を、合わない工具で回そうとしているみたいだ。
世界が抵抗してくる。
この場所そのものが、協力を拒んでいるみたいに。
さらに遅くする。
意志を薄くする。
命令ではなく、囁きに近いところまで落とす。
――そして。
ほんの少しずつ。
ほどけた糸が、動いた。
引き寄せられるように揃っていくその軌跡に、
かすかな光が一本、線になって走った。
色のない、ガラスの反射みたいな光。
布が落ち着いた瞬間、その光は消えた。
私はすぐに手を止めた。
意識を放した途端、胸の奥に小さな痛みが弾ける。
警告だ。まだ本格的な反動じゃない。
あと少しでも続ければ、きっと来ていた。
……でも、これでいい。
今は、これで十分だ。
私はさらに奥へ進んだ。
水滴の音が近くなる。
それに混じって、低い、遠い唸りが聞こえた。
力でも共鳴でもない。
どこかで何かが動き続けているだけの振動。
そのとき――人影が見えた。
年配の男が、長い柄の道具で床を掃いている。
動きは急がない。
丁寧で、選び取った速度だった。
彼は私に気づくと、少し首を傾げた。
「#$& #@%?」
言葉はわからない。
でも声は落ち着いていた。
測るように、穏やかに。
さっきの人間みたいな、切迫した叫びとは違う。
彼は近くのベンチを指さした。
何を望んでいるのかは、わからない。
動作は単純なのに、意図が読めない。
私は彼を見返したまま、迷った。
――そして、慎重に意識を内へ向ける。
引かない。
外へ伸ばさない。
ただ、聴く。
彼の思考に踏み込まない。
開いたまま戻らない扉を作らない。
表面を、そっと撫でるだけ。
浮かんできたのは、映像というより感情だった。
心配。
警戒。
でも、攻撃の意思はない。
……私に、向けて?
私はベンチに腰を下ろした。
男はそれだけで納得したように頷き、
少し離れてから、透明な容器を持って戻ってきた。
手の中で、その容器は冷たい。
滑らかで、均一で、完璧すぎる形。
同じものが何千でも作れそうな――工業の形。
でも中の水は、間違いなく水だった。
私が躊躇していると、男は蓋を開け、もう一度差し出した。
私は一口飲む。
冷たい。
驚くほどきれいだ。
変な味もしない。
抵抗もない。
……少なくとも、水は水だ。
その事実だけで、胸の奥の固さが少し緩んだ。
私は小さく頭を下げた。
男はかすかに笑って、また掃除に戻る。
さっ、さっ、と、規則的な音が地下に戻っていく。
そして私は、この世界に来て初めて――
今夜を越えられるかもしれない、と感じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しずつですが、彼女はこの世界に足場を作り始めています。
次回もよろしくお願いします。




