表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/9

第1話 この世界には、空がない

おかしい。


……いや。


とても、おかしい。


私は、いつものように「内側」へ意識を伸ばした。


簡単にできるはずだった。

呼吸するみたいに。

指を動かすみたいに。


普段なら、身体の奥に、やわらかな温もりが広がる。

寒い日に、あたたかいお茶を飲んだときみたいに。


それはいつも、胸のあたりのやさしい圧から始まる。

重くもなく、

痛くもない。

……ただ、そこにあるだけ。


内側から、抱きしめられているような感覚。

「大丈夫だよ」と、静かに告げられているみたいな――

私が、ちゃんと「今ここにいる」って、確かめられる感覚。


それが全身に広がると、

思考は静まり、

心臓の鼓動はゆっくりになって、

震えていた手も、自然と止まる。


……はずだった。


でも、触れたその瞬間。


中の何かが、激しく拒絶した。


身体中が、悲鳴を上げる。


まるで、とても恐ろしいものに、触れてしまったみたいに。


――おかしい。


そして次の瞬間、胸の奥で激痛が弾けた。

誰かに刃物で突き刺されたみたいな、鋭い痛み。


息を詰まらせ、私は膝から地面に崩れ落ちた。


冷たい「石」の上――

……でも、石じゃない。


手のひらの下は、あまりにも滑らかすぎた。

動かない水のように、淡い光を映している。


雨が、顔を打つ。


……でも、これもおかしい。


冷たすぎる。

薄すぎる。

なのに、一粒一粒が、強く、痛いほど当たる。


こんなの、普通の雨じゃない。


そう気づいたとき、

じわじわと寒さが、私を包み込んでいった。


そして――空。


そこには、空がなかった。


見上げても、あるのは、果てしない闇。

その闇を貫くように、

ガラスに閉じ込められた小さな白い太陽が、いくつも浮かんでいる。

それは、規則正しく並びすぎていた。


……そんなはず、ない。


星が……吞みこまれたの……?


違う。


おかしい。


頭上の「それ」は、広くない。


空っぽで、

どこか、未完成で。


これは、空じゃない。


何度見ても――

空になることを、拒んでいる。


私は、周囲を見上げた。


光る四角を並べた巨大な「断崖」が、

四方すべてを囲むように、そびえ立っている。


山じゃない。

塔でもない。


……まったく、別のもの。


突然、空気を引き裂く轟音が響いた。


驚いて振り向いたその瞬間、

地面すれすれを、巨大な影が引き裂くように駆け抜ける。


私が知る、どんな獣よりも速く、低く。


滑らかで、不自然な身体。

白と赤の光を宿した目を光らせながら、

石の道の向こうへ、消えていった。


……一体。


そして、また一体。


光の線を引くように、

同じ「獣」たちが、周囲を走り抜けていく。


金属の身体の中には、知らない人影。


あまりにも多すぎて、数えきれない。


あの悲鳴のような咆哮――

不自然で、途切れることがない。


……あれは、苦しんでいる……の……?


誰も、私を見ない。


喉の奥に、冷たい恐怖が這い上がる。


「……ここ、どこ……?」


私の声は、この世界では、

あまりにも小さすぎた。


――


私は、地面に張りつくようにして、荒い呼吸を繰り返した。


空気さえ、変だった。

息をするだけで、苦しい。


すべてが、うるさい。


走り抜ける獣の叫び。

頭上の、無数の小さな「太陽」。


胸が、きゅっと締めつけられる。


……動かなきゃ。


ここにいるのは、だめ。


理由はわからないのに、

ここは危険だと、身体が知っている。


早く――動かないと。


震える脚で、どうにか立ち上がろうとする。


足元の「石」は、

薄い服越しでもわかるほど、冷たい。


手を離そうとした指先が、じんと痺れた。


全身の力を振りしぼって、身体を起こす。


……おかしい。


こんなに、弱かったっけ……?


一歩、踏み出す。


足首に、焼けつくような痛みが走った。


思わず、よろめく。


またバランスを崩し、

私は近くの「壁」に、何とかしがみついた。


……これも、石じゃない。


滑らかすぎる。

完璧すぎる。


指が、ただ無力に滑り落ちる。


その直後――

背後を、突風が裂いた。


また一体、獣が通り過ぎたのだ。


あまりにも近くて、

袖が引き裂かれた気がした。


思わず声を上げ、

私は壁に身体を押しつける。


……何も、わからない。


ここが、どこなのか。

あれが、何なのか。

……自分の身体が、どうなっているのかさえ。


恐怖で、心臓が壊れそうだった。


私は、また「内側」へと手を伸ばしてしまった。


……だめ。


わかっているのに。


でも、そうしなければ――


再び、触れようとしてしまう。


いやだ。


全身が、拒絶している。


それでも。


身体が、考えるより先に動いていた。


視界が、白に砕け散った。


世界が、ねじれる。


頭の奥で、何かが燃え上がる。


目の前が、ぐらりと揺れた。


驚きと恐怖のまま、

私は悲鳴を上げる。


……なに、起きてるの……?


次の瞬間、ようやく気づいた。


……また、倒れてる。


さっきまでの轟音が、

遠ざかって、耳鳴りに変わる。


咆哮は、残響に。


光は、色となって滲む。


世界が、ぼやける。


一瞬――

何もかもが、凍りついたように止まった。


冷たい地面に、

指が、力なく絡みつく。


「……やだ……」


声が、かすれる。


こんなの、いや。


ここは、いや。


私は――


そのとき。


影が、落ちた。


大きく。


動かず。


走り去る獣とは、違う影。


ぼやける視界で、見上げる。


そこに――誰かが、立っていた。


滑らかじゃない。

金属じゃない。

光ってもいない。


……生きてる。


息が、止まる。


声を出す前に――

逃げ出す前に――


次に、何をすればいいか考えようとした。


……でも、考えられない。


必死に身体を動かそうとしても、

言うことを聞かない。


こんな、わけのわからない、ひどい場所で――

終わるなんて、いやだ。


叫ぼうとした。


……でも、声は出なかった。


そして手が触れたと感じた瞬間、視界が闇に閉ざされた。


――


……落ち着け。


私は呼吸に意識を寄せた。

吸って。吐いて。

数を数えれば、思考が戻るはずだ。


一。

二。

――三。


そこで、途切れた。


数えようとした指が、空を掴む。

意識が、滑っていく。

まるで、私の心そのものが、遠くへ引きずられるみたいに。


一瞬――

「私」が、消えかけた。


そして――


世界が、ずれた。


――


闇に、音が溶けていく。


空が、赤かった。


遠くで、爆発音が響いている。


宮殿の各所に、衛兵たちが集まっていた。

城壁の外から、叫び声が聞こえる。


……状況は、良くない。


侵入者たちは、着実に進んでいた。


私は、転送門のそばに立っていた。

隣には、母がいる。


その瞬間――


すべてが、止まった。


低く、重い振動が、空気を揺らす。


次の瞬間、

まぶしい閃光が、世界を覆い尽くした。


私は、反射的に――

レイラインへと視線を向ける。


……ない。


そこにあるはずのものが、

消えていた。


構造は崩れ、粉のように崩壊していく。

静かに、静かに。

なのに、世界全体が悲鳴を上げているようで。


――やめて。


胸の奥で、何かがぱきりと折れた。

切り離された感覚。

魂に、穴が穿たれたような――

そんな感覚。


そして――


誰かの手が、私に触れた。


――


遠い悪夢から、引き上げられるみたいに、

私は目を覚ました。


背中に、冷たさを感じる。


痛みは、消えていなかった。

むしろ、さっきよりも鋭い。

骨と骨の間に、刃が残っているみたいに。


音も、まだある。

完全には、途切れていない。


視界が、一気に戻ってくる。


……鮮明すぎる。

……うるさすぎる。


「#$+& #@%?」


さっき見た人物が、私の上から覗き込んでいた。


近い。

……近すぎる。


何かを話している。

でも、言葉が、まったく理解できない。


音には、規則がある。

構造も、ある。


それなのに――

意味だけが、ない。


私は必死に、記憶を探った。

師の声。

言葉の教え。

異国の言語。

呪文の音。

術式の詠唱。


何かの「型」なら、掴めるはずだ。

音の並び。

間。

抑揚。


……でも、違う。


似ているのに、決定的に違う。

呪文なら、内側が反応する。

音を聞くだけで、胸の奥が微かに震える。


これは――何も起こらない。


ただの声。

ただの言葉。


なのに、私には理解できない。


彼の声は、緊張しているようだった。

早口で、何かを伝えようとしている。

焦り。

あるいは、恐れ。


息が、詰まる。


……敵だったら。


逃げなきゃ。

今すぐ。


必死に、周囲を見渡す。


頭上は真っ暗なのに、周囲は不自然なほど明るかった。

光は、濡れた地面に反射している。

冷たい雨で滑る「石」――石じゃない、滑らかな道。


風が吹き抜ける。

どこか焦げたような匂いを運んでくる。

煙? 火?

それとも――私の知らない、何かの匂い。


上のほうには、巨大な光の板が浮かんでいた。

四角い“光”。

中では、色が動いている。

模様が流れている。

文字のようなものが並んでいる。


光が――惜しげもなく垂れ流されている。


照明でも結界でもない。

ただ、見せるためだけの放出。

この世界のエネルギーの使い方は、荒い。


……呪文の文字みたい。


でも、違う。

魔力の気配が、まるでない。

ただ、意味もなく光っているだけ。


それなのに、視線を引きずられる。

この世界の「記号」が、私を観察しているみたいで。


金属の獣たちは、相変わらず走り続けていた。

通り過ぎるたび、水たまりが弾ける。

細かな水滴が飛び、頬に刺さる。


……ここは、止まれない場所だ。


そのとき――

細く、暗い通路が目に入った。


狭い。

でも、地下へと続いている。

入口の奥には、下へ降りる階段がかすかに見えた。


……あれなら。


あの獣は入れない。

人の身体なら、潜り込める。


彼の手が、まだ私に伸びている。


理由は、わからない。


助けようとしているのかもしれない。

捕まえようとしているのかもしれない。


どちらにせよ――

私は、確かめる余裕がない。


ここには、いられない。


考えるより先に、私はその手を振り払い、走り出した。


脚に、激痛が走る。

肺が悲鳴を上げる。

冷たい風と、容赦ない雨が、顔を打ちつける。


通路に飛び込み、振り返る。


……いない。


彼は、もう、そこにいなかった。


次の瞬間、頭上から大きな轟音が落ちてきた。

地面が震える。

何か、とてつもなく大きなものが、上を通った――そんな感覚。


私は闇の中で、息を殺した。

耳を澄ませる。

足音はない。

追ってくる気配もない。


……ここは、どこ?


……この言葉は、なに?


はっきりしていることは、ひとつだけ。


私は――

迷っていた。


家から。

世界から。

何もかもから。

遠く離れた場所で。


疑問が、次々と溢れてくる。


でも――

それよりも先に。


もっと、恐ろしいことに気づいた。


……感じられない。


あの感覚が。


温もり。

圧。

いつも、内側にあったはずの存在。


胸の奥に手を伸ばしても、

返ってくるのは、空っぽの冷たさだけ。


……まさか。


ありえない。

そんなはずはない。


惑星を、

生命を、

ことわりを――

繋ぎ止めていた、あの脈動が。


この世界には――

レイラインが、ない……?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ