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第17話 裂け目のあと

沈黙は、残っている。


だが――


持続しない。


先に開いたのは、

向こうの口だった。


「来ないで」


速い。


私へ向けた言葉ではない。


この先に繰り返されてきたもの、

その手順そのものへの拒絶。


私は動かない。


廊下の非常灯は、

部屋の奥まで届かない。


入口付近だけが、

かろうじて形を持つ。


壁際に、

細い寝台。


折られた毛布。


それだけ。


ほかは、ない。


選ばれた痕跡が、

一つもない。


相手は、

さらに奥へ身を引く。


もう、

これ以上はない位置まで。


視線は、

私を捉えたまま。


それから――


逸れないまま、

横へ滑る。


布。


色。


形。


ここに属さないものを

なぞる目。


「……なんで」


語尾が崩れる。


形にならないまま、

消える。


動く。


速い。


指が、

私の胸元を掴む。


もう片方が、

肩を打つ。


軽い。


だが、

十分だ。


そこにあるものは、

すべて届く。


「なんで」


意味より先に、

音が身体に入る。


記憶ではない。


今。


ここ。


もう一度。


今度は両手で、

布を掴む。


引く。


まるで、

その布そのものが

誤りであるかのように。


「なんで」

「なんで来ぇ――」


続かない。


拳が、

肋を打つ。


裂け目の下で、

痛みが走る。


鋭い。


私は退かない。


もう一度。


爪が縫い目に掛かる。


「来……へん……」

「なんで」

「なんで……」


終わらない。


終える必要もない。


私は腕を上げる。


止めるためではない。


損傷した箇所に届く手だけを、

外すために。


向こうはそれを、

拒絶と解釈する。


さらに強く来る。


力は大きくない。


それでも――


残っているものは、

全部そこにある。


目が濡れている。


「ずっと……」

「なんで」

「なんで来ぇへんかった」


一つだけ、

完全な形で届く。


まっすぐ。


歪まず。


私はここにいなかった。


それでも――


到達する。


部屋が遠のく。


建物。


停止した機構。


薄い琥珀の灯り。


順に後退する。


残るのは、


それだけ。


声。


失われた側の言語。


ここに存在しないはずのものが、

ここで発されている。


もう一度、打たれる。


それから、

もう一度。


力は減る。


形も崩れる。


「……なんで」

「なんで……」

「……なんで」


手が止まる。


打撃が消える。


代わりに――


掴む。


切替に予告はない。


さっきまで、

全てを私に叩きつけていた手が、


次の瞬間には、

離せば崩れるみたいに

布を掴んでいる。


額が、

胸に当たる。


制御ではない。


保持ができないだけだ。


呼吸が崩れる。


一度。


二度。


速い。


浅い。


指が締まる。


それから――


緩む。


完全ではない。


力だけが抜ける。


質量が変わる。


押す動きではない。


落ちる動き。


布越しに、

熱が広がる。


不規則。


声が、

胸元から漏れる。


「……なんで」


攻撃ではない。


問いでもない。


ただ、


存在している。


私の手が上がる。


止まる。


この接触には、

該当する分類がない。


定義が存在しない。


手が王女の衣を掴むことはない。


王女がそれを許容することもない。


その前提は、

ここでは機能しない。


手を下ろす。


相手は震えている。


小さい。


継続的。


私は発話を試みる。


形式が先行する。


距離。


構文。


整った形。


「わたくしは――」


継続しない。


再び。


残るものは、

さらに単純化される。


「……ここに」


一拍。


「……いる」


相手の動きが止まる。


完全ではない。


だが、

十分。


指先が一度だけ強くなる。


頭が上がる。


最小限。


視線が私に到達する。


不安定。


湿っている。


声が出る。


細い。


摩耗している。


「……また……」

「……いかんといて……」


私宛ではない。


それでも、

到達する。


私は応答しない。


ただ、

離れない。


呼吸だけを置く。


近くに。


しばらくして――


手が離れる。


片方。


もう片方。


相手が下がる。


足が揺れる。


支持を失った身体が、

一瞬だけ傾く。


壁に触れる。


呼吸を整えようとする。


遅れて。


うまくいかない。


それでも――


吸う。


吐く。


もう一度。


目を閉じる。


開く。


残っているものは、

さっきまでのものではない。


削り取られたあとに残った、

最低限の動き。


私はそれを見ている。


声を落とす。


「……ここは、危険です」


相手は見る。


返事はない。


「……来ますか」


視線が移動する。


扉。


廊下。


私。


再び扉。


呼吸は速い。


浅い。


聴いている。


私も聴く。


近い気配はない。


まだ。


視線が戻る。


先ほどより長く。


未解決の何かを

照合するように。


それから――


一度、

頷く。


「……行く」


私はわずかに応じる。


それで十分。


振り返る。


急がずに。


一歩。


後方に音はない。


遅れて――


足音。


軽い。


存在する。


私は進む。


相手も続く。


近接しない。


距離は維持される。


分岐。


速度を落とす。


左右を確認する。


琥珀灯。


死んだ表示。


固定された影。


深部の脈動は、

もうない。


だが――


完全停止ではない。


遠くで、

起動を試みる気配。


失敗。


停止。


相手が前へ出る。


止まる。


振り返る。


それから――


「こっち」


私は従う。


その動きは、

この場所が身体に入っているみたいだ。


自信ではない。


記憶だ。


左へ折れる。


短い通路。


いったん止まる。


全身で聴く。


それから、

また進む。


次の分岐で、

相手が急停止する。


私は接触寸前で止まり、

手が壁に触れる。


一瞬だけ。


相手の手が、

壁に触れる。


押すでもなく、

確かめるでもなく。


そこに残っているものへ、

触れるみたいに。


すぐに離れる。


何も言わない。


だが――


足の運びが、

半拍だけ遅れる。


呼吸が変わる。


「……ここ、戻りたくなかった」


そのあとで、


「……エレベーター、あかん」


右側は無反応。


光はない。


動きもない。


「使えません」


相手が一瞬こちらを見る。


すぐに前方へ戻る。


進む。


別の廊下。


重い扉。


隣に死んだ表示。


私は手を上げる。


ほんの少しだけ。


意図。


微調整で

足りるはずだった。


手首が捕捉される。


強い。


反射的。


「だめ」


即座に――


離れる。


身体が閉じる。


肩が入る。


顎が落ちる。


息が止まる。


前例がない。


誰かに止められたことは、

まだ一度もなかった。


意図だけが残る。


未完のまま。


それから――


理解が来る。


魔力は気配を運ぶ。


気配は検知になる。


検知は、

終わりになる。


私は手を下ろす。


廊下は静かなまま。


叱責もない。


訂正もない。


ただ、

下りた手だけが

結果として残る。


相手の視線が上がる。


慎重に。


私は無言。


一拍の後――


頷き。


移動再開。


扉は半ば閉じている。


押す。


足りない。


私が補う。


開く。


通過。


その瞬間――


呼吸が止まる。


意図ではない。


次に来るのは――


変化。


空気が違う。


身体が先に認識する。


近い。


何かが近い。


相手も止まる。


選択ではない。


ほかに行き場がない。


空間が開く。


広い。


上部は暗い。


下部に構造がある。


金属。


配線。


中央装置が、

上方へ伸びている。


内部に残留。


破損。


未完。


それでも、

機能は残る。


裂けた封の残りが反応する。


痛みの質が変わる。


減少ではない。


変質。


内側の一部が、

装置側へ引かれる。


呼吸が阻害される。


相手が認識する。


声が低くなる。


「……ここ、通りたくない」


視線は装置。


「でも……向こう、回られへん」


接近。


床には、

反復痕。


計測痕。


相手が発話する。


抑制より先に。


「これ、動くと……ちょっと楽になる」


私は観察する。


相手は装置を見続ける。


「うちの……合わせさせられてた」


呼吸が乱れる。


「動いてる間……まだ使える」


一拍。


「止まると……しんどい」


説明は、

それだけで足りる。


私の中で、

何かが止まる。


安定でもない。


恐怖でもない。


間違っている。


だが、

機能している。


私は止まる。


気づくと、

袖が保持されている。


攻撃ではない。


誘導。


「行かな」


私は動かない。


低い振動が、

構造の奥を走る。


相手が引く。


今度は強く。


「ここおったら、見つかる」


正しい。


また。


今度は――


従う。


空間を抜けたところで、

灯りがひきつるように戻る。


表示が、

一瞬だけ点灯する。


警報。


短い。


硬い。


局所的な音。


相手は振り返らない。


「走って!」


走る。


足音は、

廊下に残る。


消えない。


もう隠せない。


相手が最初の角を切る。


私は合わせる。


廊下は狭い。


非常灯は不安定で、

壊れた間隔で点く。


走るたび、

影が裂ける。


背後で、

何かが動く。


遠い。


だが、

近づいてくる。


相手は振り返らない。


迷わず進む。


右へ折れる。


長い通路。


扉はない。


隠れる場所もない。


次の交差部は、

広い。


明るすぎる。


開きすぎている。


一拍だけ、

相手の動きが鈍る。


判断。


それから、

前へ。


私は続く。


渡る。


何も起きない。


だが、

警報の質が変わる。


高さ。


間隔。


この区画へ寄ってくる。


別の廊下。


低い。


狭い。


空気が淀んでいる。


速度は落とさない。


そのとき――


警報の下に、

別の音が入る。


機械ではない。


私たちでもない。


動く気配。


人。


通路の先。


制服。


振り向く。


視線が合う。


認識は速い。


理解は遅い。


腕が上がる。


武器。


相手が動く。


横へ。


遅い。


向こうのほうが近い。


距離は足りている。


角度も問題ない。


相手の反応は、

こちらより遅い。


外す。


そう判断する。


遅い。


もう、

遅い。


知る。


間に合わない。


それでも――


動く。


裂け目だけを、

内側で押さえ続けている。


内側に力を回している。


そのぶん、

動作が遅れる。


一歩。


間に入る。


もう一歩。


二人の間から、

余白が消える。


背後で、

息が止まる音。


その瞬間――


金属の擦れる音。


安全装置が外れる。


指の収縮が見える。


引き金にかかる圧。


速い。


違う。


速いのではない。


こちらが、

遅れている。


線がずれる。


発火。


衝撃が先に来る。


一点。


熱。


封の裂け目へ直接触れる。


内側で押さえていた流れが、

一瞬だけ逆流する。


その一点だけが焼ける。


肋の奥で、

異物が燃える。


肺が拒む。


息が入らない。


圧が内側へ沈む。


視界が歪む。


それから――


音。


遅れて。


空気が裂ける。


全部が戻る。


遅い。


身体が遅れて理解する。


――その、あとで。

第17話「裂け目のあと」でした。


沈黙は、二つの言語で破られました。


そして、廊下の先で——


彼女は、間に入りました。


次回、第18話 喪失。

日曜日20:10頃、更新予定です。

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