第16話 裂け目
廊下は、さらに冷たい。
劇的ではない。
息ひとつ分の差。
吸い込んだ空気が、
鼻の奥に触れる感触だけが、
わずかに変わる。
二人の案内役は、
何も言わずに進み続ける。
歩調は変わらない。
規則的。
急がない。
正確。
床も、壁も、天井も、
滑らかだった。
足音だけが、
ここでは少し遠くまで行く。
壁は近い。
天井は低い。
どの面も白い。
装飾はひとつもない。
機能のためだけに選ばれた材質。
前方の扉が、
私たちが辿り着くより先に開く。
遅れ。
ほかの扉より、
ほんの一拍だけ長い。
それから横へ滑る。
二人は気づいている。
何も言わない。
けれど、
注意はまた一段鋭くなった。
建物の構造を巡る脈は、
ここではさらに強い。
もう遠くはない。
骨を通る。
歯。
関節。
頭蓋の付け根。
規則的。
機械的。
無関心。
造られた仕組みの呼吸。
だが――
それだけではない。
もう一つの拍も、
前よりはっきりしている。
規則的ではない。
壊れているわけでもない。
型に収まることを
拒んでいる。
長く止めすぎた拍。
持ち直し。
また、止まる。
呼吸に似ている。
けれど、
整っていない。
二人が、
別の扉の前で止まる。
片方が開ける。
向こうは明るい。
白い光。
平たい。
温度のない光。
私は中へ入る。
扉が背後で閉じる。
数瞬、
何も起きない。
それから――
椅子が目に入る。
金属。
床に固定されている。
手首を留める拘束。
足首にも、もう一つ。
家具ではない。
設備だ。
その形だけで、
どんな姿勢を要求するのかが分かる。
真上の照明だけが
部屋のほかより強い。
中央。
意図された配置。
向こうの壁の奥で、
もう一つの拍が乱れる。
扉が開いたことを
向こうも感じたみたいに。
私は、この世界に来てまだ二日。
この部屋は、それより古い。
この手順は、
私より前から存在している。
……最初ではない。
二人が動く。
片方が、
私の背後へ回る。
もう片方が
椅子の側へ寄る。
距離が縮まる。
速くはない。
だが、
迷いはない。
背後から手が伸びる。
白い手袋。
私の手首に触れる。
布越しの冷たさ。
次の瞬間、
指が閉じる。
拘束。
この手順を、
何度も繰り返してきた手。
手首は動かない。
もう片方の手が、
髪へ上がる。
小さな重み。
金。
簪。
皮膚の上で
冷たい。
呼吸が、
たった一拍だけ整う。
それから――
封を裂く。
感覚は、
肋の奥から始まった。
縫い合わせた線を
一気に引き裂くような熱。
本来なら
通すために作られていない経路へ
力が流れ込む。
音が砕ける。
一つの音が三つになる。
三つが五つになる。
周波がばらける。
人の耳には高すぎるものまで混ざる。
視界が滑る。
像が順番を失う。
意図より先に
動きだけが届く。
身体の境が曖昧になる。
封が、
裂けた。
空気が押し広げられる。
床が低く唸る。
椅子の金属が軋む。
その音が、
遅れて届く。
ほんの一瞬。
世界は完全に静かになる。
その直後――
裂け目を、
何かが捕まえた。
建物の構造を走る流れ。
力が散らない。
掴まれる。
運ばれる。
息が止まる。
この形――
あり得ない。
思考より先に
身体が知っている。
流れ。
地の奥を走る回路。
……レイライン。
違う。
そんなはずはない。
最初の一人が動く。
速い。
襟元へ手が上がる。
「制――」
その瞬間。
光が落ちる。
闇が、
上から叩きつけられる。
空気が揺れる。
金属が鳴る。
誰かの体が
床に落ちる。
重い衝撃。
もう一つ。
近くで
荒い呼吸。
何かが倒れる音。
建物の奥で
連鎖的に止まっていく気配。
裂け目は
構造の流れに乗る。
放ったのではない。
構造に奪われた。
導かれた。
増幅された。
灯りは消えた。
空調が止まる。
機械が息の途中で沈黙する。
構造を走っていた脈が
ひとつ、つまずく。
それから崩れる。
沈黙が
圧のように満ちる。
膝が床に落ちる。
遠くで
仕組みが止まっていく。
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施設の奥。
計器の光で満ちていた部屋。
波形が
表示を駆け上がる。
「振幅、規定域突破」
「追従不能」
「スケール拡張」
「……まだ上がる?」
「あり得ない」
「分類――」
光が落ちる。
すべての画面が黒くなる。
駆動音が消える。
部屋が沈黙する。
施設が出来て以来、
一度も知らなかった沈黙に。
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壁際に
細い琥珀色の灯り。
非常灯。
低い位置。
弱い。
耳鳴りがする。
何千もの高さの音が
同時に鳴る。
それすら
やがて圧に潰れる。
音が遠い。
水の向こうみたいに。
視界はさらに悪い。
光が割れる。
輪郭が滲む。
封は破れている。
裂け目から
力が漏れていく。
残りを集める。
意識を内側へ折る。
破れた端を
無理やり結ぶ。
封ではない。
止血。
締めるたび
痛みが鋭くなる。
だが
流れは鈍る。
立つ。
まだ落ちない。
痛みは
それを望んでいるのに
身体のどこかが
崩れることを拒んでいる。
二人は床にいる。
荒い呼吸。
起き上がろうとする気配。
扉は開いている。
電子錠は死んでいる。
私は
二人を越えて廊下へ出る。
非常灯が
壁に細い線を引く。
それ以外は闇。
建物の雑音は消えた。
空調もない。
機械音もない。
残った信号は
ひとつだけ。
あの呼吸の拍。
ほかが消えたぶんだけ
はっきりしている。
目は信用できない。
灯りが滲む。
壁が傾く。
だから
見るのをやめる。
代わりに
内側で聴く。
耳ではなく。
あの拍を感じていた感覚で。
呼吸の拍は
まだそこにある。
かすか。
だが途切れない。
私はそれを追う。
廊下。
また廊下。
左。
右。
足の到着が遅れる。
階段を
見落としかける。
肋が痛む。
拍が揺れる。
近い。
遠い。
また近い。
広い。
暗い。
全部、止まっている。
やがて
拍は避けられなくなる。
琥珀色の滲みの中に
扉が現れる。
通電表示はない。
ただ金属。
押す。
蝶番が動く。
重い。
廊下の灯りが
小さな部屋へ流れ込む。
中に――
人影。
奥の壁へ押しつけられるように
身体を縮めている。
腕は
自分の側へ強く引き寄せられている。
目だけが
薄い琥珀色を返す。
制服ではない。
職員でもない。
相手は
入口の私を見て止まる。
違う輪郭。
違う姿勢。
道具もない。
同行者もいない。
ただ――
ここにいるはずのないもの。
呼吸の拍が
一度だけ乱れる。
それから止まる。
私たちの間には
沈黙だけが残った。
第16話「裂け目」でした。
守り抜いてきた封を、
彼女は自ら裂きました。
その先にあったのは、
沈黙と、琥珀色の瞳。
次回、第17話。
日曜日20:10頃、更新予定です。




