第10話 アストラ・ルーナ
胸の奥が、ざわついた。
理由は、わからない。
音でも、匂いでもない。
ただ――
ここに、留まってはいけない。
心臓が一拍、跳ねた。
理由もなく。
封が、思考より先に反射で締まった。
見られている、という感覚とも違う。
視線を感じるには、まだ遠い。
でも、
触れられる前の、
ぎりぎりの境。
……逃げろ。
私は椅子を引いて、立ち上がった。
さっきより、部屋がうるさい。
音、だけじゃない。
声。動き。視線。
途切れない音楽。
それら全部が、
一枚の膜になって、内側を叩いてくる。
私は彼を見る。
「……ここ、うるさい」
声は低く。
封を維持したまま、音だけを押し出す。
喉の内側が、
細い刃でなぞられるように、熱を持つ。
彼は一度だけ瞬きをして、私の視線の先を追う。
それから、室内をゆっくり見回した。
出口。
通路。
人の流れ。
そして――
天井の角。
光を返さない、小さな点。
「……ああ」
「たしかに」
迷いなく立つ。
「移動しよう」
質問はない。
私たちはカウンターの前を通る。
彼は黒い板を取り出し、係の人に見せた。
短いやり取り。
業務的な頷き。
ガラスのような表面を、
光が、静かにすべる。
――そういう仕組み。
光が、支払い。
店を出る。
階段。
一つ下りて、
もう一つ。
一段ごとに、
内側にかかっていた圧が、剥がれていく。
人が減る。
流れがほどける。
壁際のベンチを見つけ、私は座った。
肩が、ようやく落ちる。
彼はすぐには座らない。
私ではなく、もう一度だけ周囲を確認する。
天井。
柱の影。
光の届かない隅。
それから、
黒い板に視線を落とした。
淡く光る表示。
意味は読めない。
けれど――
彼の瞳に、その光が反射した。
そこで、彼の表情が消えた。
「……親は?」
切り替わった。
胸の奥に、硬いものが落ちる。
肺から、空気が抜けた。
声を出そうとすると、
封が、抵抗する。
喉の内側が、
砕けたガラスで敷き詰められたみたいに、痛む。
それでも――
答えなければならない。
指が後頭部に触れる。
髪を留めている、小さな金の簪。
母が触れた、いつもの重さ。
母――
像が、勝手に立ち上がる。
あの背中。
押し出す声の、揺れない芯。
「……母は」
音を外へ押し出す。
封を崩さないまま。
内側が、切れる。
「私のために……残った」
言ってしまった。
黒い板が、鋭く瞬いた。
同時に――
照明が、
脈打つように明滅した。
音楽が、
一瞬だけ、途切れる。
空調の低い唸り。
機械の常音。
それらすべてが、
ほんの一拍、沈黙する。
――世界が、応じた。
私は、凍りついた。
だが、すぐに音は戻る。
光も、流れも。
何もなかったかのように。
彼は動かない。
今度は、黒い板を見ない。
彼は、私を見る。
目を逸らさない。
私という存在を、
環境から切り離して測る目。
「……君」
声は低い。
「さっきの……エレベーターのときも」
責める調子じゃない。
怯えでもない。
――確認。
私は視線を落とした。
私が言葉を選ぶたび、
意味を運ぼうとするたび、
彼は、
境目がどこにあるかを測っている。
もう――
隠せない。
私は、彼との距離を測った。
逃げるなら、今、どこへ。
彼は黒い板を伏せ、
小さく息を吐いた。
「……俺は、蓮見。」
感情を削いだ名乗り。
少し首を傾ける。
「蓮見 奏汰。君は……?」
私は、わずかに迷った。
名前には、重さがある。
立ち上がりかけて、
自分で止める。
儀礼は、いらない。
深く、頭を下げることも。
ただ、
体に染み付いた動作の名残だけが、
声に乗る。
「……アストラ・ルーナ」
「それが、私の名です」
黒い板が、
短く、強く反応した。
照明が、もう一度だけ脈打つ。
今度は、
電子音が、規則を失ったまま、かすかに共鳴する。
彼は、
それを見逃さなかった。
だが、何も言わない。
「近くに……住んでるのか?」
言葉を選ぶ、僅かな間。
その沈黙が、答えより重い。
私は言いかけて止まる。
距離。
場所。
「……」
黒い板は、淡く光ったまま。
……よし。
「わからない」
代わりに、そう答える。
「でも……たぶん、遠い」
嘘じゃない。
少なくとも、全部は。
彼は一度、頷いた。
「年は?」
胸の内側が、きゅっと締まる。
封が、反射で硬くなる。
「……」
喉を整える。
「わかりません」
彼は、それを受け取った。
訂正しない。
疑わない。
ただ、短く息を吐く。
「……そっか」
彼のほうが、先に視線を外した。
そして――
音楽が、跳ねた。
止まらない。
静かにもならない。
ほんの一欠片が、繰り返される。
一度。
二度。
理解する前に、身体が先に知る。
空気が締まる。
流れが、つまずく。
蓮見の姿勢が変わった。
速い。
けれど、騒がない。
「――移動する」
小さな声。
でも、断定。
彼は、すぐには動かない。
一瞬だけ――
私の位置を、視界の端で確かめる。
それから、
進行方向を選ぶように、体の向きを変えた。
私は、一瞬だけ迷って――
それでも、立った。
彼が、それを待っていたかのように、
歩き出す。
私は、その背中を追う。
彼が、
起きる場所を選んでいることを、
理解しながら。
そして、
それでも――
この手を取るしかないと、
知ってしまった。
私は、
もう戻れない側を、
自分で選んだ。
第10話までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、彼女の名が明かされました。
世界が彼女に応じ、理が揺らぎ始める。
その境界線に立っていたのは、一人の技術者でした。
彼女が何を選び、どこへ向かうのか。
その行き先を、引き続き見届けていただければ幸いです。




