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第9話 痕(あと)

気づいたときには、

もう何も残っていなかった。


指先に、

あたたかさが残っている。

胸の、低いところにも。


満腹、という言葉では足りない。


何かが――

内側で、落ち着いた。


私は、椅子にもたれ、

そっと目を閉じる。


意識の縁を削り続けていた圧が、

わずかに、引いた。


……消えた?


そう思いかけて、

すぐにわかる。


消えてはいない。

場所を変えただけだ。


喉ではなく。

背中でもなく。


もっと奥――

心臓の裏側みたいな場所に、

重さが沈んでいる。


疲れている。


痛みの鋭さではなく、

張り詰め続けたものが

ようやく下ろされたあとの重さ。


息を吸う。

ゆっくり。

慎重に。


内側に張られた境は、

まだ崩れていない。


しばらく、そのままでいた。


手のひらに。

胸の奥に。

熱が残る。


――そのとき。


指に、違和感を覚えた。


油。


わずかに粘つく感触が、

皮膚の上に、薄く残っている。


私は反射的に、

指先を擦り合わせて――止まった。


……消えない。


乾く気配もない。

薄まる気配もない。


魔力を使っていない。

使う理由も、ない。


それでも、

そこに残っている。


舌打ち、と呼べるほどの音は出ない。

けれど、

気持ちのどこかで、そういう音が鳴った。


……ああ。


これは、汚れじゃない。


この世界が、

私に触れた痕だ。


私は、静かに手を下ろした。


少しずつ、

他の感覚が戻ってくる。


硬い机の感触。

金属が触れ合う音。

椅子が軋む気配。


重なり合う声。

ばらばらの抑揚。


天井のどこかから、

薄く流れる音楽。


さっきまでは、

受け取る余裕がなかったもの。


部屋は、変わっていない。


――変わったのは、私だ。


目を開けると、

彼がこちらを見ていた。


凝視ではない。

疑いでもない。


ひびの入ったものが

きちんと固まったかを

確かめるような視線。


……優しい?


そう判断しかけて、

すぐに撤回する。


優しさ、とは違う。


もっと平たい。

もっと現実的。


崩れるか、持つか。

その境目を、測る目だ。


「お腹いっぱい?」


今度は、意味が

そのまま届いた。


意識を締め上げる必要も、

言葉を押し出す必要もない。


もう、そこにある。


「はい」


音は、きれいに出た。


裂けない。

跳ね返らない。

喉に熱も残らない。


この世界に来てから初めて、

話すことが

継続の延長に感じられた。


彼の肩が、

ほんの少しだけ緩む。


彼は装置に手を伸ばさない。


私が話したあとも。

内側の境が、わずかに動いたあとも。


そのことが、

妙に心に残った。


――いや。


「残った」じゃない。


安心しそうになった。


それが、怖かった。


彼は自分の皿を脇へ寄せ、

白い平たいものを重ねていく。


慣れた動き。

無駄のない所作。


儀式性は、ない。


ただ、

空間を片づけるための行為。


それを見ながら、

私は思う。


私の世界では、

食事は「区切り」だった。


場を定め、

関係を確かめ、

その瞬間が誰のものかを示す。


ここでは違う。


食べることは、機能だ。

終われば、次へ進む。


私は、体勢を整え直す。


封は、安定している。

けれど、圧の質が変わった。


弱くなったわけじゃない。


――性質が、違う。


問いが浮かびかける。


喉元まで、

何かがせり上がる。


名を。

地を。

正体を。

理由を。


……違う。


形だけが先に並び、

中身が追いつかない。


私は、

そのまま口にしかけて――やめた。


違う。


「知りたい」じゃない。


「確かめたい」でもない。


いまの私は、

刃物を握っている手で、

別の刃物を探そうとしている。


危ない。


彼は、待っている。


急かさない。

期待もしない。


次の言葉が、

方向を決めると

知っているかのように。


部屋は、動き続けている。


誰かの笑い声。

椅子の擦れる音。

音楽は途切れない。


私は、その流れに

意識を合わせた。


測る。

数える。

リズムを追う。


――その瞬間。


音が、揺れた。


ほんの、わずか。


息がずれたような、

取りこぼし。


私は一瞬、

「自分が聞き間違えた」と思った。


疲れのせいだと。

内側が緩んだせいだと。


でも、違う。


誰も気づかない。

流れは崩れない。


それでも、

揺れは“外側”にある。


境界に、圧がかかる。


同時に、

腕の皮膚が粟立つ。


痛みじゃない。

恐怖でもない。


……認識だ。


封が、

自律的に締まる。


私は、視線を落とした。


この場所は、

私を歓迎していない。


排除もしない。

拒絶もしない。


ただ――

居場所を、用意しない。


理解した。


休息では、消えない。

食事でも、解決しない。


ただ、

代償を正確に

感じ取れるようになっただけ。


話しすぎれば。

考えすぎれば。

踏み込みすぎれば――


世界が、応じる。


怒りではなく。

抵抗として。


ふと、視界の端に

「流れに属さないもの」が引っかかった。


天井の隅。


光を返さない、小さな点。


飾りではない。

照明でもない。


ただ、そこにある視線。


私は、

そこから目を逸らした。


見返したら、

何かが決まってしまいそうだった。


もし、この世界が

私に合わせないのなら――


私は、決めなければならない。


どこまでの自分を、

使えるのかを。


……


……数百メートル下。


無機質な白光に満たされた区画で、

複数の数値が、

沈黙の中で変動していた。


「――再検出」


低い声が、確認を促す。


画面にあるのは、

既存分類の外側にある波形。


人為とも、

自然現象とも

照合できない歪み。


「照合率、誤差範囲外」


短い報告。


一拍。


「まさか……」


検知信号シグナル――アウトオブレンジ」


端末が、少し強く叩かれる。


「断続的だった波形が、

連続信号に移行しています」


別の声が、重ねる。


「変調パターン、未定義。

高次処理域に接近」


室内の空気が、

わずかに張り詰めた。


「理論予測値からも乖離しています」


「過去ログと照合開始。

想定ケース――制限なし」


端末の隅で、

小さな表示が点灯する。


それは、まだ

“警報”ではなかった。

第9話「あと」をお読みいただき、ありがとうございます。


ようやく温かい食事を口にできたルーナ。

ですが、彼女が「あたたかい」と感じたその瞬間こそ、

皮肉にもこの世界のシステムが、彼女という異物を明確に「捕捉」した瞬間でもありました。


昨日、思わず「ルーナちゃん、ごめんね」と独り言を呟いてしまったのは、

この第9話の構成を練っている間、彼女のささやかな平穏を

作者である自分自身の手で壊さなければならなかったからです。

物語を前に進めるための残酷な選択でしたが、指先に残る「油の重み」を書いている間、

ずっと胸のどこかが痛んでいました。


第1話から積み上げてきた「静かな違和感」が、ここから牙を剥き始めます。


次回、第10話「アストラ・ルーナ」。

ついに、彼女の秘めていた名が暴かれます。


また来週、日曜日の20:10にお会いしましょう。

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