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俺は子育てをするために勇者になったわけではない

作者: 道兵衛

荒れ果てた大地を越え、黒き城の影が夕日に浮かび上がる。

勇者アルディスは剣を握りしめ、深呼吸を一つ。

ここまで長い旅だった。幾多の魔物を倒し、仲間と共に血を流し、ようやくたどり着いた魔王城。

その最奥に、世界を脅かす魔王がいる――はずだった。


「……いよいよだな」


戦士ランベルトがごつごつした拳を鳴らす。


「長かった旅も、ここで終わりだ。気合い入れろよ、勇者!」

「ええ、私たちの使命はここで果たされます」


僧侶ミレイナが祈りの杖を掲げる。

魔法使いシェルナも緊張を隠さず、「準備は整っているわ」と短く言い放った。


仲間の顔を一人ひとり見渡し、アルディスはうなずいた。


「みんな……行こう。俺たちの旅の結末を迎えに」


魔王城の重苦しい気配に包まれながら、一行は奥へと進んだ。

闇のように黒光りする石壁。長い廊下。無数の魔族の骸。ここまでの激戦が想像できた。


そして、玉座の間。

そこに座すはずの魔王は――いなかった。


「……おかしい」


シェルナが目を細める。


「魔力の気配はある。でも、強大すぎて逆に輪郭が掴めない」

「隠れてるってことか?」


ランベルトが剣を抜き、あたりを見回す。


その時だった。

玉座の奥で、怪しく光る魔法陣が回転を始めた。

紫色の光柱が天井に突き抜け、地鳴りのような音が轟く。


「来るぞ!」


アルディスが剣を構えた瞬間、光の中から呻き声が響いた。


『……我は……我は千年の……』


それは確かに、魔王の声だった。


『千年に一度の……再誕の儀……ここに……我は新たな……』


光が一際強くなり、一行は目を覆った。

そして、静寂。


光柱が消えた後に玉座に残っていたのは――小さな、赤子だった。


「…………え?」


四人が声を失った。

玉座の上に置かれたクッションの上、ころんと寝転がって泣いている。

角は小さく、皮膚は人間とほとんど変わらない。

ただ、額には魔族特有の紋様が淡く光っていた。


「これが魔王……か?」


ミレイナが信じられないものを見る目で杖を握る。


「でも、紛れもなく魔王の魔力が宿ってます。これは……転生?」

「千年に一度の再誕……」


シェルナが低く呟く。


「つまり今、魔王は生まれ変わったばかり……?」


勇者アルディスは剣を構えたまま動けなかった。

魔王を倒すために来たはずだ。だが、目の前にいるのは泣き叫ぶ赤ん坊。

剣を振り下ろすことなど……できるはずがない。


その時――玉座の横に、黒い影が立ち現れた。

全身を黒衣で包んだ長身の男。

鋭い眼差しに、理知的な雰囲気を纏っている。


「……貴様らが勇者か」


重々しい声。魔族の言葉を操りながらも、人間語に訳されているように響いた。


「誰だ!」


アルディスが剣を構える。


「我が名はヴァルガ。魔王様の右腕にして、千年の忠臣」


仲間たちが一斉に警戒を強めるが、ヴァルガは攻撃する気配を見せなかった。

ただ、玉座の上の赤ん坊を見下ろし、静かに息をつく。


「……再誕の儀は成功した。しかし、今の魔王様は赤子。力は無きに等しい」

「じゃあ……今なら倒せるってことか?」


だがヴァルガは首を振った。


「倒せるものなら倒してみろ。ただし、その瞬間、世界は再び終焉を迎える」

「……どういうことだ?」


「魔王の魂は千年ごとに再誕し、宿命に従い力を育む。ここで命を奪えば、魂は行き場を失い、千年後に世界を呪いごと飲み込むだろう」

「千年後……?」

「そうならぬためには、勇者よ。お前がその赤子を育てろ」


「「「「はぁ!?」」」」


一行の声が揃った。


冗談かと思ったが、ヴァルガの目は真剣だった。


「勇者がこの子を見張り、導き、育て上げる。そうすれば、魂の呪縛は薄れ、やがてただの一人の人間として生きられる。魔王として目覚めることはない」

「な、何を言ってる! 俺に子育てをしろと!?」


 アルディスは思わず声を荒げた。


「俺は勇者だぞ!魔王を倒すためにここまで来たんだ!赤ん坊の世話なんて……!」


だが赤ん坊は、そのタイミングで泣き声を上げた。

アルディスは思わず抱き上げる。

剣を握る手よりも、ずっとぎこちなく。

温かく、小さく、壊れそうな命。

勇者の胸の奥に、妙な感覚が走った。


――本当に、この子を斬れるのか?


仲間たちも言葉を失っていた。

その沈黙の中、ヴァルガが低く告げる。


「勇者よ。選べ。剣を振るい、この子と共に未来を滅ぼすか。あるいは……育て、未来を変えるか」


勇者アルディスは、赤ん坊を見つめた。

泣き声は止み、黒曜石のような瞳がじっと彼を見返していた。


「……ちくしょう」


アルディスは剣を鞘に戻した。


「俺は……子育てをするために勇者になったわけじゃないぞ」




魔王城を後にした勇者一行は、ふらふらと街道を進んでいた。

誰も口を開かない。というより、開ける言葉がなかった。


勇者アルディスの腕には、魔王のはずの赤ん坊がすやすやと眠っていた。

黒曜石のような瞳を閉じて寝息を立てるその姿は、どう見ても普通の赤ん坊にしか見えなかった。


「……なあ、アルディス」


ついに耐えきれず、戦士ランベルトが口を開いた。


「本気で連れて帰るのか?」

「仕方ないだろ……」


アルディスは額に手を当てる。


「あの男の話が本当なら、この子を斬ったら千年後に世界が滅ぶ。俺は勇者だ、そんな賭けはできない」

「けどよぉ!」


ランベルトが吠える。


「勇者が魔王を抱いて帰るとか、聞いたことねぇぞ!国王にどう説明する気だ!」


アルディスは返せなかった。

確かに、正論だ。

だが、腕の中で小さな手を握り返された瞬間、言い訳も理屈も吹き飛んでしまう。


僧侶ミレイナは溜息をついた。


「赤ん坊を斬れないのは分かります。でも、子育てなんて……私たちの役目じゃないでしょう?」

「むしろ魔王軍の右腕とやらがやるべきじゃない?」


魔法使いシェルナの冷たい指摘に、アルディスは首を横に振る。


「ヴァルガは魔王軍を立て直すために城に残るって言ってた。俺たちにしかできないんだ」


「いやいやいや!」


ランベルトがまた叫ぶ。


「俺たちは勇者パーティだぞ!?剣に魔法に祈りに斧!誰一人、ミルクの作り方もオムツの替え方も知らねぇ!」


全員の視線がアルディスに集まる。


「勇者、どうするんです?」


仲間からの冷たい視線に、アルディスは思わず泣きそうになった。


最初の試練は、その夜に訪れた。


野営の火を囲み、交代で見張りをしようとしていた矢先。


「ふぎゃあああああ!」


突如として赤ん坊の大絶叫が夜空に響き渡った。


「ひっ……!?」


ミレイナが飛び上がる。


「な、何事だ!?」


ランベルトは剣を構えたが、敵の気配はない。


ただ、赤ん坊魔王が泣いているだけだった。


「お、おい……どうすりゃいいんだこれ!」

「知らないわよ! 勇者、あんた抱いてるんだからどうにかしなさいよ!」


アルディスはおろおろしながら赤ん坊をあやす。

だがどうしていいか分からず、剣を抜いて振り回した。


「ほら!カッコいい剣だぞー!泣き止めー!」

「やめなさいバカ勇者!!余計に泣いてるわ!」

「ちょっと貸してください!」


ミレイナが取り上げ、抱っこしてゆらゆらと揺らす。


「よしよし……大丈夫、大丈夫ですよ……」


だが、泣き声はさらに大きくなるばかりだった。

ランベルトは頭をかきむしる。


「腹が減ってんじゃねえのか!?」

「じゃあ何を食べさせればいいんだ!」


そこから試行錯誤の嵐だった。

羊の乳を搾って与えようとするも、温度が熱すぎて赤ん坊がまた泣く。

冷やしすぎても泣く。

飲ませ方も分からず口の端から全部こぼれる。


夜はどんどん更けていくのに、泣き声は止まらなかった。


翌朝、パーティの全員が死人のような顔をしていた。


アルディスは剣を逆さに持ったまま歩き、ミレイナは祈りながら寝ていた。


「……勇者。俺はもう赤ん坊の世話なんて懲り懲りだ……」

「旅より育児のほうが辛いなんて、誰が想像したでしょうね……」


だが赤ん坊はけろっとして、ぐっすり眠っている。

アルディスは虚ろな目で空を見上げた。


「……これからどうなるんだ、俺……」


街に戻ってからも試練は続いた。


勇者が赤ん坊を抱いて宿屋に入ると、周囲の視線が集中する。


「見ろよ、勇者様だ……」

「しかも赤ん坊を抱いてるぞ?」

「まさか……もう父親に?」


ざわざわとした空気が広がり、なぜか「勇者は人間の孤児を拾って育てているらしい」という噂が瞬く間に広がった。


「ち、違う! これはそういうんじゃ……!」


必死に否定するアルディスだったが、泣き止んだ赤ん坊が彼の胸で「にぱぁ」と笑った瞬間、宿の女将が目を潤ませて言った。


「……勇者様、なんて立派な……。世界を救うだけでなく、子を育てるなんて……!」

「だから違うってばぁあああ!」


だが噂は止まらない。

街の人々は勝手に「勇者=立派なパパ」というイメージを固めてしまった。


その夜。

また泣き出した赤ん坊をあやしながら、アルディスは頭を抱えた。


「俺は……子育てをするために勇者になったわけじゃない……。なのに、なんで今剣じゃなくて哺乳瓶を持っているんだ……」


小さな指が彼の指をぎゅっと握る。

温かさが胸に広がり、アルディスは無意識に笑ってしまった。


「……くそっ、かわいいじゃねぇか」




育児地獄が始まって数日。

剣を振るい、魔物を斬り伏せてきた勇者の肩は、今や赤ん坊の揺籠代わりになっており、聖剣とまで言われた勇者の剣は赤ん坊をあやすためのおもちゃに成り下がった。


「……ようやく眠ってくれた」


胸に抱いた小さな体は、ようやく静かに寝息を立てていた。


仲間のランベルトが呆れた声を出す。


「勇者よ……剣よりも揺すり方が板についてきてねぇか?」

「お前が言うな。オムツ替えを真っ先に覚えたのは誰だったと思ってる」

「ぐっ……!」


ミレイナは笑いを堪えきれず、「お二人とも、声が大きいです」とたしなめた。

シェルナはというと、杖を片手にじっと赤ん坊を観察していた。


「……魔力の揺らぎがある」

「え?」

「この子、ただの赤ん坊じゃない。やっぱり魔王の魂を宿しているのよ」

「それは分かってるけど……」


その直後だった。

寝息を立てていた赤ん坊が、くしゅん、と小さなくしゃみをすると、部屋の空気が微かに震えた。


次の瞬間、宿屋の窓ガラスがすべて粉々に砕け散った。


「うおおおおおお!?」


ランベルトが叫び声を上げる。

部屋の外から「何事だ!?」と宿の客たちが騒ぎ出す。


赤ん坊は泣き出し、泣き声に合わせて部屋中の家具がふわりと宙に浮いた。


「な、なんだこれ!」

「泣き声に魔力が反応してる!?」


シェルナが悲鳴を上げる。


椅子が飛び、机が回転し、宿の天井がきしむ。

アルディスは必死に赤ん坊を抱きしめ、「よしよし!大丈夫、大丈夫だから!」と声を張った。


やがて泣き止み、家具もゆっくりと床に落ちる。

宿屋の主人が青ざめながら駆け込んできた。


「ゆ、勇者様……いまのは……?」

「……ただのくしゃみです」

「流石勇者様!!くしゃみでこの威力とは尊敬します!!それはそれとして弁償代は請求しておきますね」


それからというもの、魔王ベビーの魔力暴走は日常茶飯事になった。


おむつ替え中に泣き出して、宿の屋根が吹っ飛ぶ。

笑った拍子に炎がポンッと生まれてカーテンが燃える。

夜泣きで雷雲を呼び寄せ、街に豪雨を降らせる。


「お前……育児というより災害対応してる感じだな」

「まさか魔王討伐よりハードだとはな……」


ランベルトのぼやきにアルディスは頭を抱えた。


そんなある日。

静かな夜を裂いて、不意に窓辺から影が差した。


「……随分と賑やかに暮らしているな、勇者」


振り返ると、そこに立っていたのは黒衣の男、魔王の右腕ヴァルガだった。


「なっ……!」

「落ち着け」


ランベルトが剣に手をかけるのをアルディスが止めた。


「ヴァルガ……何の用だ」

「魔王様の様子を見に来ただけだ」


ヴァルガは近づき、赤ん坊を覗き込む。

眠っていた赤ん坊は、彼の顔をじっと見上げて「あーうー」と声を上げた。


ヴァルガの硬い表情が、わずかに緩んだ。


「……順調に育っているようだな」

「順調……?どこがだ!」


アルディスが怒鳴る。


「くしゃみで建物壊すし、泣き声で天気変わるし、毎日が修羅場なんだぞ!」

「それは正常な成長だ」

「正常なわけあるかぁ!」


ヴァルガは平然と懐から小瓶を取り出した。


「ミルクを与える時は、この瓶に入れて人肌に温めろ。温度は手首の内側で確かめると良い」

「……へ?」

「寝かしつけは一定のリズムで揺らすこと。剣を振るうように力を入れてはならん」

「……お前、やけに詳しくないか?」


ランベルトが目を剥く。

ヴァルガは咳払いして答えた。


「魔王様の再誕は定められた循環。過去にも同じように赤子を育てたことがある」

「歴代の魔王も赤ん坊から育ててきたってことか……」


ミレイナが驚く。


「そうだ。……だが勇者が育てるのは今回が初めてだ」


ヴァルガの鋭い眼差しがアルディスを射抜いた。


「決して失敗するな。お前にこの子の未来が懸かっている」

「……分かってる」


アルディスはぎゅっと赤ん坊を抱き締める。


その瞬間、赤ん坊がぱちりと目を開けた。

小さな口から、初めての言葉が漏れる。


「……ゆ……しゃ」


全員が固まった。

アルディスも目を瞬かせる。


「い、今……『勇者』って言ったか……?」


赤ん坊はにこにこと笑いながら「ゆーしゃ!」と叫んだ。


ヴァルガは深く息を吐いた。


「……どうやら、この子はすでにお前に懐いているようだな」


その言葉に、アルディスの胸が不思議に温かくなった。


「……俺は、子育てをするために勇者になったわけじゃないのに……」


ぼやきながらも、口元は緩んでいた。




赤ん坊の小さな声が夜の静けさに響く。


「ゆーしゃ!」


その言葉を聞くたびに、勇者アルディスは頭を抱えた。


「……ったく。俺はな、世界を救うために剣を取ったんだぞ。お前のオムツを替えるためじゃないんだ」


そうぼやきながらも、手は慣れた様子で赤ん坊の世話をしている。

剣を振るう時よりも繊細に、戦場で傷ついた仲間を癒す時よりも慎重に。

小さな命を抱き上げるその姿は、どう見ても「父親」そのものだった。


ランベルトは大きな溜息をついた。


「……もう認めるしかねぇな。お前、勇者っていうより保護者だ」

「うるせぇ」

「でもまあ……悪くねぇ光景だな」


ミレイナも微笑む。


「この子がどんな未来を歩むかは分かりません。でも……少なくとも、勇者様と一緒なら」

「魔王になるにしても、人を滅ぼすような存在にはならなさそうね」


シェルナが肩をすくめる。


赤ん坊はあくびをし、小さな手で勇者の指をぎゅっと握った。

アルディスは思わず笑みをこぼす。


「……まったく。俺は子育てをするために勇者になったわけじゃないのに……」


そう呟いた声は、どこか誇らしげでもあった。


――勇者アルディスの新しい戦いは、魔王討伐ではなく、オムツ替えとミルク作りという日常の中にあった。

それでも、剣よりも難しく、戦場よりも尊い「戦い」に挑む勇者の姿を、誰が笑えるだろうか。


多分世界を救った英雄は、今、小さな命を抱いて歩き出している。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!

連載で書いている小説もあるので、そちらもぜひご覧ください!

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