鏡よ、鏡
とある富豪の娘が鏡を覗き込んで、いつものように尋ねる。
「鏡よ、鏡。この世界で一番美しいのは、誰?」
まるで御伽噺のワンシーン。
しかしながら、家具に過ぎない鏡が、その問いに答えることはなかった。
いくら高級品といっても、所詮はただの鏡だ。
持ち主のご機嫌までは取ってくれない。
が、それでも娘はわかっていた。
自分が世界で一番美しいということを。
なぜなら実際に鏡に映っている自分の姿は、今まで会った誰よりも美しい。
顔立ちやスタイルはもちろんのこと、身に纏ったドレスやアクセサリーも一級品。
そして何より、みんなが娘のことを「美しい」と褒めてくれる。
故に、娘は信じて疑わない。
――私は誰よりも美しい。
現にほら、みんなが娘の姿を振り返り、見惚れ、口々に囁き合っているではないか。
社交界に出向けば、いつだって人々は彼女の話題で持ち切りだ。
誰もが彼女を意識し、気後れして、おいそれと声を掛けることさえ憚られる。
まるで宝石箱に入れられた宝物のよう。
だからだろう。
その男の態度を娘が許すことができなかったのは――。
それは社交界が終盤に差し掛かった頃のこと。
どこからともなく田舎の下級貴族を思わせる若い男が歩いてきたかと思うと、娘をぞんざいに突き飛ばし、あろうことか斜向かいのテーブルで給餌をしていた下女を口説き始めたのである。
その光景に娘は怒り、打ち震えた。
突き飛ばされたことは勿論だが、それ以上に自分を差し置いて下働きの下女を口説く男の行動が許せなかった。
「ちょっと貴方、どういうつもり。失礼じゃないの」
娘の怒声に一同は一斉に振り返り、社交界は一瞬のうちに静まり返った。
が、男はそんなことなど、どこ吹く風。
娘を一瞥することなく、夢中で下女を口説いているではないか。
――あんなみずぼらしい下女の、何がそんなにいいというのかしら。
「こんなに美しい私を突き飛ばしておいて、よりにもよって下働きの下女を口説くなんて、貴方どうかしているわ」
ヒールの踵をツカツカと踏み鳴らし、娘は憤然と男に詰め寄った。
それでようやく娘の存在に気づいたらしく、男はゆるゆると振り返り、まるで品定めでもするかのように彼女の頭の先から足の先までを視線でひと舐めすると、
「うーん、確かにスタイルもいいし、品もある。ドレスも、アクセサリーも高級品ばかりだ。けれど、なんていうか、その……。こう言っちゃなんだが、顔がイマイチ、僕のタイプじゃないんだよね」
娘は一瞬、男が何を言っているのかわからなかった。
――顔がタイプじゃない?
そんなことがあるわけないじゃないか。
怒りに拳を震わし、娘の顔は見る間に赤く染まっていく。
「ふざけないで。鏡に映った私の顔は世界で一番美しいわ。それにみんな、私のことを美しいって褒めてくれる。この世に私の顔がタイプじゃない人間なんているはずないじゃない」
すると、男は困ったように肩を竦め、薄ら笑いを浮かべて、こう言ったのである。
「君は、どうして鏡が真実を映し出していると信じることができるんだい? どうしてみんなが本当のことを言っていると信じることができるんだい? みんな、言葉巧みに富豪の娘に取り入ろうとしているだけかもしれないじゃないか。君が自分の顔を知らないのをいいことにさ。だってそうだろ。誰も自分の顔だけは、自分の目で直接確かめることはできないんだから」