第1話 記憶喪失ってやつかな
気がつくと、俺は白く霞んだ世界の中にいた。
――どこだ、ここは………
身体全体の感覚がない。
夢でも見ているのだろうか。
いや、それすらも分からない。
何も分からない。
うっすらと孤独と恐怖を感じた。
――誰かいないのか………
すると、遠くから声が聞こえてきた。
女の人の声だ。女の人が何か言っているらしい。
目を凝らすと、白い靄の向こうに、青い髪をした女の人が立っていた。
顔はよく見えなかったが、背丈から大人であることが分かった。
俺は、その人の方へ耳を澄ました。
「…………す、…………………って…………に………」
その言葉は途切れ途切れでしか聞こえず、何を言っているのかよく分からなかった。
それでも、俺には、その言葉が、俺に対して向けられているように感じられた。
――君は誰なんだ、何を言ってるんだ………
そう呼びかけようとした。
しかし、その声が届く前に、周囲の霞が濃くなっていった。
霞が俺の視界を白く染めるのに時間はかからなかった。
――どういうことなんだ、頼む、教えてくれ、誰か………
周囲は真っ白な世界に代わり、
そして俺の意識が
途絶え
て
「……まー、勇者さまー、起きてくださーい、勇者さまー……」
子供のような甘ったるい声が聞こえる。
意識が次第にはっきりとし、頬に何やら硬いものが押しつけられていることが分かった。
「勇者さまー」
ぐりぐりと押される。痛い。
先が少し尖っているからだろうか、結構痛く感じる。
やめてくれ、と声に出そうとしたが、声が出てこない。
一方、頬に当たるものの威力は増してきている。数分後には貫通してしまいかねない勢いだ。
このままではまずい。そう思い、重たく感じる頭をゆっくりとあげて起き上がる。
俺の横には、銀色の髪をした少女が座っていた。右手には杖のようなものを持っている。
「あ、起きたみたいっすね、大丈夫っすか」
起きたにもかかわらず頬をぐりぐりされる。頬を押さえて、ここ以外は大丈夫だよ、と言おうとしたが、思わず咳き込んでしまった。
「あー、声出ないんっすね。のどカピカピなんっすよ。ちょっと待っててっす」
そう言うと彼女は後ろを向いて、やたら膨らんだ鞄に手を入れて何やら探しはじめた。
俺はそんな彼女の後ろ姿を見た。銀髪の長い髪は彼女の腰のあたりまでかかっており、暗い青色のワンピースとの対比で小さい体に似つかず綺麗に見えた。
探し物が見つかったのだろう。彼女は俺の方を振り向き、俺と目が合った。
ぱっちりとした目に対して小動物のように口は小さく、全体的に幼い顔つきをしていた。その一方で髪から突き出す少し尖った耳が目に付く。
「なにぼーっと見てるんすか。でもまあ、エルフ見るの初めてだろうっすからねー」
どうぞ、と彼女は言い、コップを手渡してくれた。俺は会釈し、中の水を飲む。うまい。
しかし、彼女は自分をエルフと言っていたが、エルフか……確かゲームか何かで聞いたことあるような気がするが……一体何者なんだろう。
水を飲み干し、コップを下に置いて、コホンと咳払いを一つ、
「とりあえず、君は一体……」と切り出す。
「あー。そういえば、自己紹介がまだだったっすねー」彼女は明るい声を更に明るくさせて、
「ニーナっす。エルフの魔術師っす。これから魔王を倒すために勇者さまを異世界から召喚したっていう訳っす。よろしくっす」
ふむ、と呟く。呟いたが脳の理解は追いついてなかった。魔術師? 魔王? 勇者? 俺が?
「異世界から召喚って……」
「そう、異世界転生とか言われているやつっす。勇者さまは前にいた世界で死んでしまったんすけど、運よくここの世界に勇者として転生されたってわけっす。よろしくっす」
「いや、あの、ええと……」
「あ、それより勇者さまの自己紹介まだだったっすね。勇者さま、どこから来たんすか」
「いや、そういう訳じゃないんだが……まあいいか、俺は……」
俺は……
俺は…………
冷や汗が頬を伝った。
俺は誰なんだ?
そうだ、俺は自分の名前も、故郷も、どういう身分かも、何も知らない。
啞然とした。頭の中にぽっかりと穴が空いたような感覚だ。
茫然と口を開いたままでいる俺の顔を見て、彼女は「どうしたんすかー」と聞く。
「いや、すまない、ただ……」
「ただ?」
「……記憶喪失ってやつかな。自分のことが……思い出せなくなったみたいだ……」
「え?」
きょとんとした顔をしてこう呟く。やがて、顔がみるみる青ざめていった。
「え、あ、え、えーっ!まじすか!やばくないっすか!ピンチっすよ、ピンチ!」
急に叫び出したので、俺は驚きつつも聞いた。
「ええと、ニーナさん、だっけ。確かに記憶が無いのは問題なんだが、なんで君までそんな慌てて……」
「大問題っすよ!慌てますっすよ!やばいですっすよ、これは、どーしよっすよぉ」
慌てるあまり喋り方も変な感じになっている。
「ええと、悪いけど、どういうことか説明してもらえる?」
そうっすね、と彼女は言って、
「いいっすか、落ち着いて聞いてくださいっす。ええと、勇者さまは『転生の儀』って魔術を使ってここにこうして召喚されたわけなんっすけど……」
俺はふと下に目を落とす。下に敷かれていた布切れには、なるほど魔法陣のようなものが書かれていた。
「それで、この召喚には色々とルールのようなものがありまして……そのうちの一つに『転生した者は前世の記憶を持っていなければならない』というものがありまして……」
「……そのルールを守っていないと、どうなるんだ?」
嫌な予感がした。背筋が冷たくなっていく。
「……そのルールを守っていない、つまり、前世の記憶を持っていない転生者は、魔術を司る女神によって転生者の魂として不十分ではないと判断されて、12日後に死ぬっす……」
「なっ……」
「ついでに儀式タイプの魔術はルール違反を起こすと行った魔術師は死ぬらしいので、このままだと私も死ぬっす。」ひえー、とニーナ。
息が詰まった。え、俺死ぬのか?せっかくさっき転生したとか言われたのに!
それに、この娘も、死ぬ? 俺のせいで……
俺は思わずニーナの肩を掴んで言った。
「お、おい、な、何か助かる方法は……」
「えーと、あるのはあるんすっけど……」
と彼女は少しあたふたしながら、
「とりあえず、死ぬまでに12日間はあるので、それまでの間に記憶を思い出していればいいってことっす。ちなみにどうっすか。何か思い出してきましたか」
「思い出してといわれても……」
思わず弱音を吐く。そりゃそうっすよねー、と彼女は言って、
「確実なのが一つあるっす。そして、これは結構大変なんっすけど……」
「大変でもいい!死ぬよりましだ!教えてくれ!」俺は勢いよくニーナに迫った。
「うお!急に前のめりにならないでっすよー、ちょっとびっくりしたじゃないっすかー。ええと、先程魔術を司る女神を話に出したじゃないっすか。」
「ああ、そういえば……」
「その女神さまと、実際に話をすることができるんっすよ。まあ直接じゃなくて祭司の方を通してなんっすけど」
「なるほど、それで、その女神に……」
「ところがっす、ところがその祭司の方が魔王に攫われてしまって……」
「なっ、まさか……」
「ええ、そうっす、私たち……」
彼女は息を吸って、こう言い放った。
「あと12日で魔王を倒して攫われた祭司を助けないといけないっす」