第1節 出会い
今夜はそれほど酔っていなかった。
いや、酔えなかったというのが正確かもしれない。サラリーマンの下品な話には、うんざりだった。
早々に引き上げてきた。家に帰り、玄関でバッグの鍵を探す。もどかしい時間だった。誰かに見られていたら、と思うと、余計に焦る。どうしても世間の目を気にしてしまう。
ドアを開け、玄関に足を踏み入れる。
(わびしいな)
自らの境遇を恨む瞬間でもある。
室内灯を点けて、郵便受けに手を差し込む。ハガキが一枚、後はチラシだった。
(もう少し、飲もうかな)
Zは缶ビールの栓を開けた。
つまみを作る気にはならなかった。飲むと面倒くさくなる。
ハガキを見ると、保険会社の新商品の案内だった。このところ、私信らしきものは来ていない。
☆
眠っていた。気が付くと、一〇時を回っていた。
トイレを済ませ、ソファーに体を横たえる。
Zは悩んでいた。苦しんでいた。夜など一人になると、耐え切れなくなる。
Zはスマホを取り出した。
「もしもし、はじめてなんですけど、ちょっとだけ話を聴いてもらっていいですか」
電話に出たのは、実直そうな男性相談員だった。
「私ね、付き合ってる彼氏がいるんです」
相談員は「そうですか」と軽く受け答えしている。
「年下でね、私のこと、とても大事にしてくれるんですよ」
相談員はやはり
「そう、それは良かったですね」
と、どこまでも冷静だ。声の感じからして、Zと同年代に思われた。
☆
彼氏と初めて会ったのは、カラオケスナックだった。
仲間と来ていた。順に歌い、一人だけ飛び抜けて上手なのがいた。ほかの席からも拍手が沸いた。
その中でひと際、一生懸命に拍手していたのがZだった。大好きな歌手の曲だった。
Zは同じ歌手の別の曲をリクエストした。持ち歌ではなかったらしく、ノリが悪かった。Zを手招きし、デュエットすることになった。Zの独り舞台だった。
再会した夜、Zはかなり酔っていた。
知り合いのママに勘定してもらい、帰りかけた時に来店した。一人だった。
Zは迷った。
「一曲だけ、聴かせてね」
そのつもりではあったが、再び腰を据えて飲んだ。
ママの冷たい目線に耐えながら、歌った。
デュエットが終わり、彼氏がさり気なく耳元で囁いた。
「今夜はこのまま帰したくないなあ」
☆
「それで付き合い始めたのですか」
相談員の口調は一本調子だった。
「ホテルに行って。あんな体験、初めて」
相談員はさすがに引いた感じがあった。
「でも、私、夫がいるんです。単身赴任で四国に行っていて、家に帰るのは月に一回だけなんです」
相談員は重い口を開いた。
「それは、ちょっと…。ところで、あなたはおいくつ。ほかに家族は」
Zは四六歳、同い年の夫のほか、娘が一人いて、別居していることを話した。
相談員は考え込んでいるみたいだった。
沈黙の時間が過ぎて行った。
「今日はもう遅いので、また、電話します」
Zは気を利かせて電話を切った。
ふつう、相談員から先に切ってはいけないことになっている、と聞いたことがあったからだ。