5.「最後の一線」part 10.
「ご心配いただき恐縮です」
わたくしが契約した悪魔マーヤークは、服のホコリをはたいてから、破れた箇所を入念に直している。
あの服は、どうやら自由自在に修復できるらしいわね……
王子殿下は、突然現れた悪魔に警戒して、大人しく様子を見ている。
今は大きな銀狼の姿になっているから、短慮な王子殿下も、さすがに動物的な勘が働いているのかしら?
もしかしたら、話ができるかもしれない。
タキオン様のクーデターを成功させるためには、この強大な力を持つ王子殿下は邪魔な存在だ。
けれど、わたくしは自分勝手な思惑で、王子殿下のお考えを聞きたかった。
関係が良好だった頃のジャマナ王子は、話がわかる相手という印象を受けたわ。
わたくしに対してかなり歪んだお心をお持ちのようだけれど、仕事面で苦情が出ている噂は聞かなかった。
視線を送ってくるマーヤークに少し待つよう合図し、わたくしは王子殿下に向き合う。
「ジャマナ、お聞きくださる? わたくし、あなたのお考えが聞きたいんですの。だってそうでしょう? あなたと来たら、何をお考えか皆目わからないんですもの。わたくしたち、何故こんなにも拗れてしまったのかしら? あなたのお気持ちを、わたくしにお話しくださいませんこと?」
王子殿下の側近であるサグダラ様やデイビス様から、これまでに何度か王子殿下の行動や性質についてお聞きしたけれど、それは周囲の憶測に過ぎないわ。
わたくしは権力を行使する者として、重大な決断をくだす前に可能な限り正しい情報を手に入れる義務がある。
判断基準とする情報が間違っていたら、結果も間違ってしまうのは当然の帰結ですもの。
グルルルル……と唸る銀狼は、わたくしの言葉に耳を動かして何か考えているようだった。
それでも戦闘体勢は解かない。
今にも襲いかかってきそうな構えで、大きな銀狼は低い声で話し出した。
「私は魔国の王子として誰よりも強くあらねばならない……力こそ正義と教えられ、繊細さは必要ないとして修正されてきた……だがルクソンと交流を持つようになって……何か違う世界があると気づいたのだ……細部にこそ何か大切なものがあると……だがそれはこの魔国では認められない……私は……王子として秩序を乱してはならない……どんなに疑問を感じても……伝統を守ることこそが、私の使命なのだ……!」
ん……? わたくしへの恨み言をおっしゃるかと思っていたら、意外にも王子殿下としての根本的なお考えをお話しになられている……?
変に生真面目なところがあるジャマナ王子は、魔国のあり方を守る立場にいらっしゃるのね……だから変革を否定せざるを得ない。
でも、本当のお心は、それではいけないとわかっていらっしゃるのだわ……
だから、王党派と改革派の対立が明確になってからも、ルクソン様にあれほど信頼を寄せつつ近衛隊長を続けさせていらっしゃったのかしら?
王子殿下は新しい秩序の必要性を感じながらも、ご自分のお立場では身動きが取れなかったのでしょう。
その苛立ちを、ルクソン様やわたくしに向けていたのかもしれないわ。
そういえば、王子殿下はよく「眠れない」とおっしゃっていた。
やはり、この魔国はタキオン様にお任せすべきね……
常識や価値観などというものは、時代によってくるくると変わる。
王子殿下が守らざるを得ない魔国の秩序は、タキオン様が改革してくださるはずですわ。
細部に気を配る繊細さは、今の魔国では否定されても、改革後の魔国では正義となるでしょう。
本当は、その偉業をジャマナ王子殿下に成し遂げていただきたかったけれど……
「そうでしたの……ジャマナ様も悩んでいらしたのね」
わたくしは、もう怖くないわ。可哀想な銀狼……
あなたができないなら、わたくしが命令してあげる。
わたくしなら、あなたの悩みを終わらせてあげられるもの。
ニルヴァーナ王国の生贄として、国を守り、サーラを守り、そして王子殿下……あなたに安らかな眠りを捧げましょう。
わたくしは、すぐ後ろに控えていたマーヤークに合図する。
「今ですわ!」
さようなら、王子殿下。わたくしたち、どこか似たもの同士でしたわね……
「ウィノナ、私は貴女を……」
そう言うと、大きな銀狼は、悪魔に額をツンと小突かれ一瞬で崩れ落ちた。
「あッ……!!」
わたくしは、自らが下した決断に思いのほかショックを受け、力無く倒れる銀狼の長い舌を凝視する。
あの銀色の毛が月光に映えて、思う存分撫で回したこと。
銀狼の硬くて柔らかい耳が、わたくしの頬をかすめて風を感じたこと。
濡れた鼻先も、美しい瞳も、少し生臭い口の中も……わたくしを呼ぶ声も。
もう全部、過去になってしまった。ほんの一瞬前のことだったのに。
しばらく呆然と見つめていると、山のように大きかった銀狼は、徐々に小さくなって人型のジャマナ王子殿下に戻った。
これで……終わりですのね……
あっけないものだ。死という幕引きは。
もっと何か大変な儀式になるかと思っていたけれど……
「ウィノナ様……」
目の前にふわりと重量感もなく降りてきた悪魔が、わたくしの涙を拭ってくれた。
「まあ、わたくしったら……泣いていたのね」
「結果にご満足いただけましたでしょうか?」
「ええ、ありがとう」
わたくしがそこまで言うと、確かに死んだと思われたジャマナ殿下が、前触れもなく起き上がった。
「え? あれ? 俺はさっき死んだはずじゃ……?」
「ああ……よかっ……!!」
泣きながらウィノナ姫が息を呑んだのと、悪魔の契約が姫の命を奪うのは同時だった。
人形のように倒れる姫の亡骸を受け止め、悪魔マーヤークは眉を顰める。
「この私が失敗した……だと?」
しかし、契約は果たされ、ウィノナ姫は確かに死んだ。
そして、姫は最期に何と言った?
「良かった……のですか? これで……」
悪魔の腕の中で微笑みながら目を閉じるウィノナ姫は、満足そうにも見える。
姫の亡骸は、タキオン・イム・ジェヴォーダンにでも預けておこう。
いきなりサーラ嬢にこの死体を見せては、話がどう拗れるかわからない。
幸い、一部始終を見ていた陰の者がいる。
あのアトマとか言う女に状況を説明させればいいだろう。
マーヤークは、そこまで考えて、一番面倒な存在に目を留めた。
アレは……ジャマナ王子なのか……?
間抜け面で辺りをキョロキョロを見回す姿は、とても先ほどの銀狼と同じ存在とは思えない。
それに……何となく顔色が悪く、血が足りないようだ。
出血性のダメージは与えていないはずだが……
「やはり、しばらくは隠れているしかないな……」
ここに来る以前に、何度となく繰り返された妖精王との戦いは、悪魔マーヤークの力を想像以上に削り取ったらしい。
すっかり自信を失った悪魔は、黒髪がいつの間にか真っ白になっていた。
これにて、空間をあらわすものシリーズ・スピンオフその1 「人質姫と魔国の王子は何処までもすれ違う」は終了となります。
ここまでお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。
この後は、本編「空間をあらわすもの4」が引き続きスタートいたしますので、気が向いた方は是非ご覧ください。
→「空間をあらわすもの4」
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