5.「最後の一線」part 4.
「失礼いたします。ただいま戻りました。婚約者殿を敷地外まで無事に送ってきましたよ、ウィノナ様。本当にこれでよろしかったので?」
部屋で待っていると、王子殿下を離宮の外に出してくれたウラルが涼しい顔をして戻ってきた。
相変わらず食えない悪魔ね……まあ、今はその態度が、ある意味で救いになっているけれど。
「ええ、ご苦労様。これで、わたくしと王子殿下の婚約は最悪の状況になりましたわね。ウラル、逃げますわよ」
「おや、ずいぶん思い切りがいいですね」
「だってもう、わたくしの力ではどうしようもないもの。王子殿下は、なりふり構わずの様相を呈していらっしゃるわ」
「では、今晩さっそく逃げるといたしましょうか」
ウラルが楽しそうに人差し指を立てるので、わたくしは思わず聞き返してしまった。
「今晩ですって? 随分と用意がいいじゃないの? あなた、予知能力まで持っているのかしら?」
「状況判断が的確だ……とは言っていただけないのでしょうか? 私は洞察力が優れているほうなのですよ」
「あなたねぇ……まあいいですわ、そういうことにしておきましょう。それで? 今晩、わたくしはどうすればいいんですの?」
「おや、何となく私の計画への不信感が滲み出ておりますが、まあ良いでしょう。夕食後、空間転移で厨房へまいりまして、空の酒樽に入っていただきます」
「街へ出るなら相応の服がないと目立ってしまうのではない?」
「そう言われると思いまして、お着替えをこちらに」
「まあ、あなた! んんっ……あなた、本当に用意がいいのね……」
思わず大きな声で驚いてしまったわたくしは、控え室から侍女がやってこないか慎重に声を落としながら話す。
ウラルは満面の笑みで、もっと褒めてくださいと言いたげな顔をしていた。
こういう余計なメッセージを醸し出さなければ、よい従僕ですのにね……
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「こんな方法でうまく行くのかしら?」
わたくしは、町娘の服を着て、食糧搬入口に停められた馬車に積み込まれた酒樽の中に蹲る。
上から蓋をかぶせながら、従僕のウラルがせっせと藁屑をそれっぽく振りまいた。
「お静かに、酒樽はしゃべらないものですよ」
「あなたはどうするの?」
「そうですね……ではウィノナ様のアクセサリーに潜みます」
「え?」
悪魔の言葉を理解できずに聞き返すと、ウラルは黒い靄となってわたくしのペンダントに吸い込まれていった。
この悪魔は何でもありなのかしら……?
いちいち驚くのも何だか疲れてしまったので、窮屈な体勢のままわたくしは目を閉じる。
王子殿下を止めるには……もしそんな事がわたくしにできるとすればだけれど……
もう言葉ではどうにもならない段階にきているのかもしれない。
王子殿下はわたくしを好きだというけれど、それは愛ではなく、わたくしを手に入れて自由にしたいというだけのことなのだわ。
そして、わたくしがこの身を犠牲にしたからといって、ニルヴァーナ王国は守られることはない。
はぁ……何ということかしら……
無力感で体が重く怠いような感じがする。
幸い、今は樽の中でじっとしているだけでいい。
やがて、荷造りが終わったのか、馬車がゆっくり動きはじめた。
カポカポという馬の足音が、ガラガラという車輪の音と相まって心地いい。
離宮の門番と御者が何かを話す声がして、そのまま馬車が通り過ぎる。
脱出は成功した……!?
声を出したらすべてが水泡に帰すような気がして、わたくしは顔を上げられないまま、樽の中で息を殺して蹲るのみ。
永遠とも言えそうな時間が過ぎて、心臓の音が耳元や首の後ろから響いてくる。
わたくしは何をしているのかしら?
王子を止めるだなんて……無理ですわ。
でもみんなのために、サーラのために、何とかしなければ!
でも何とかって……何を?
答えの出ないことばかりぐるぐると考えながら暗闇の中で縮こまっていると、急に馬車が止まった。
まさか……見つかってしまったの!?
「その樽だけ置いていけ」
「へい」
御者が従順に返答する声を聞いて、わたくしは肝が冷えた。
聞いたことのない声の主は、地面に置かれた樽の周りをぐるぐると歩いているらしい。
馬車が行ってしまう音がして、いよいよ絶体絶命の予感ですわ……
でもわたくしには、必死で息を止め、物音を立てないことしかできなかった。
樽の外では、人員が増えたようで、別の人物の声がする。
「本当にこんなところに?」
「いいから開けろ」
ゴン!
……と、大きな音と衝撃が樽の中に響く。
樽ごと燃やされなくてまだマシだったわ。
そう、落ち着くのよウィノナ。これは最悪の状況ではない。
わたくしは必死に耳と目を閉じ、およそ考えられ得る、今現在より悪いパターンを頭に思い浮かべた。
樽ごと谷底に落とされたりするよりは、中身をきちんと確認しようとする者たちで良かった。
幸い、町娘の格好をしているから、うまく行けば見逃してもらえるかもしれないわ。
ガコッ!
急に松明の光が、真っ暗だった樽の中に差し込んで、目を閉じていても明るくなったのがわかる。
顔を見せたらさすがにバレるかしら……?
額に当てた手をどけないように気をつけながら、わたくしは町娘らしい台詞を言わなければと考えていた。
「……もう大丈夫ですよ、姫様」
「え……?」
思わず顔を上げると、懐かしい顔が覗いていた。
「アトマ!!」
「離宮の警備が厚く、大変お待たせしてしまい申し訳ございま……」
「アトマアトマアトマ!! ああ会いたかった!」
「わ、私も……会いたかったよ、ウィノナ姉……!」
わたくしが思わず抱きついてしまったせいか、アトマは昔の口調に戻って抱き返してくれた。
もうひとりの殿方は、アトマの部下なのかしら? 耳があるので獣人? ブラディオン様の家の者なのかもしれない。
二人で抱き合いながら、わたくしは王女としてマナー違反だけれど、わんわんと大泣きしてしまう。でも、アトマだって泣いていたもの。許してほしいわ。
「ごめんなさいね、急に移されたものだから、連絡もできなくて……」
「いえ……あの後、姫様の痕跡は追跡できたのですが、離宮の警備が厚く……内部の人間の協力がなければ、姫様をお救いすることは叶わなかったでしょう……」
アトマは悔しそうに目を伏せる。
離宮の結界魔法は、かなり強固なものらしいから、アトマが悪いわけじゃない。
でもわたくしが何か言ったとしても、この子はすべて自分のせいだと思ってしまうから、話題を変えることにした。
「ところで、わたくし従僕を連れてきたの。いいかしら?」
「はい? 従僕なんて見かけませんでしたけど……」
アトマが周囲を見渡しながら不可解な顔をした。
まあ、そうよね……わたくしもいまだに慣れませんもの。
説明は後回しにして、わたくしは従者の名を呼ぶ。
「ウラル、出てきてもらえるかしら?」
すると、わたくしの胸元のペンダントが青白く光を発し、何やらきちんとした格好の悪魔が現れた。
いつの間にか小洒落たモノクルを装着し、慇懃無礼な態度に磨きがかかったような……
「お呼びでしょうか? ウィノナ様」
「「!?」」
アトマと部下らしき殿方が一気に警戒感を高めて戦闘態勢に切り替わった。
やはり、戦い慣れている方々は、悪魔の危険性に反応してしまうようだわ。
わたくしもウラルに初めて会ったとき、確かに怖くはあったけれど……戦う能力がないので逆にそこまで危機感は持たなかった。
「アトマ、わたくしの従僕になった悪魔のウラルですわ。ウラル、わたくしを助けてくれたのはニルヴァーナ王国の忠実な影、アトマよ」
「よろしく皆様、お見知りおきを」
丁寧に礼をする悪魔に、剣を握りしめた二人は恐る恐る警戒を解いた。
「姫様……なぜ悪魔などと契約を……」
アトマは眉を顰めながら、わたくしの体に異常がないか確かめはじめた。
契約……は、したのかしら……?
ウラルの話では、わたくしの魂はまだ無事なようだけれど……
「ウラルは就職先を探していたの。だからまだ契約はしていないわよ。そうよね、ウラル?」
「左様でございます、ウィノナ様」
「ところでウラル、あなたその格好……執事ではない? いつ従僕から昇格したのかしら?」
「これは失礼いたしました。離宮から出ましたもので、ウィノナ様の随身として執事扱いにしていただきたく」
「そういうことですの……でもあなた、離宮の結界から無事に出られたのだから、もうわたくしに付き纏う必要などございませんわよね?」
「え!? 酷いですよ、ウィノナ様! 私はもう用済みですか!?」
急にしゅんとなった悪魔を見て、わたくしは就職活動の手助けをしてあげなくてはいけないことを思い出した。
「仕方ありませんわね……保証はできないけれど、サーラに相談してみましょう。うまく行けばきちんと契約して雇ってもらえるかもしれないわ」
「ありがたきお言葉」
話が自分に都合のいいようになると、ウラルは急に怪しい笑みを浮かべて慇懃無礼な態度に戻る。
何かうまく乗せられてしまったような気がするけれど……まあいいわ。