第55話(スザンヌ視点)最初で最後の恋
「スザンヌ、聞いた!?」
葡萄畑の水やりをしていると、アグネスが息を切らしてやってきた。
きっと、全力で走ってきたのだろう。
「聞いたって、なにを?」
「それはもちろん……ちょっと待って」
両ひざに手を置き、アグネスが深呼吸を繰り返す。
あまり運動をしないから、走ったことでかなり疲れてしまったに違いない。
アグネスがこんなに慌てるなんて珍しい。
なにかあったのかな。まあ、十中八九、女学校設立関連のことだよね。
領主様から女学校設立の話を聞いて、アグネスはすごく喜んでいた。
そして、できることはなんでもしたい、と必死になっていた。
あんまりにも領主様のことをすごいとか尊敬してるなんて言うから、それはちょっと嫉妬しちゃったけど。
でも私だって、領主様にはとても感謝している。
「落ち着いた?」
「ええ。先程、領主様から知らせがあったの。女学校設立日が決まったって!」
白い頬を赤くし、アグネスが叫ぶように言う。
大人っぽい見た目とは裏腹に、子供みたいな表情だ。
「本当に?」
「本当よ。工事の終了日が確定したそうなの」
女学校として、領内の空き地に一軒家を建設することになった。
特別授業時はデュボア伯爵家の部屋を使ったが、さすがに常時そうするわけにはいかないからだ。
いきなり大きな建物を作ることは難しく、一般的な民家を建て、その中で授業を行うことになっている。
そしてその建物の二階部分は、学長であるベル様の家になるらしい。
もっともこの情報は、まだ限られたごく一部の人間しか知らない。
ベル様と領主様の離婚話は、まだ正式に発表されていないのだから。
「今日からちょうど、一ヶ月後よ。今から楽しみで仕方ないわ!」
うっとりとした顔で、アグネスが笑う。
彼女は女学校で教師として働くことが決まっていて、現在は授業のカリキュラムを作成中だ。
女学校に通う生徒の年齢はばらばらだ。そんな中で、なにをいつ教えるのかを考えることはかなり大変だろう。
それでもアグネスにとってはやり甲斐がある仕事らしく、毎日楽しそうにしている。
アグネスは昔から、勉強が好きだもんね。
私は勉強なんて、ちっとも好きじゃないけど。
でも、アグネスに勉強を教えてもらうのは大好き。
好きなものについて語るアグネスは、すごくきらきらしていて、可愛いんだもん。
小さい頃、私はアグネスに勉強を教わっていた。
アグネスの顔ばかり見ていて覚えが悪かった私にも、アグネスは根気強く教えてくれた。
アグネスは、私の初恋の人だ。
そして私は今も変わらず、アグネスのことが大好き。
だからずっと、アグネスが誰かと結婚してしまわないようにと祈って生きてきた。いつまでも行き遅れてほしいと、ずっと願ってきた。
しかし最近はもう、その必要がなくなった。
それも領主様のおかげだ。
アグネスは女でありながら、教師として職を得ることができた。だから、望まぬ結婚をする必要がなくなったのだ。
「スザンヌも楽しみでしょう?」
「うん。だって、学校なんて行ったことないもん」
「スザンヌ用のカリキュラムも、ちゃんと考えておくから。サボらず学校へくるのよ?」
「サボらないって! こんなに頑張って、せっかくできた学校なんだから」
っていうか、私がアグネスに会えるチャンスを棒に振るわけないじゃん。
アグネスは私の気持ちに気づいてないのかな。
「仕事中、邪魔してごめんね。あまりにも嬉しくて、貴女に話したくなったの」
アグネスはさらっと私が喜ぶことを言って立ち去ろうとした。
慌てて、その手をぎゅっと掴む。
「そろそろお昼だし、休憩しようと思ってたの!」
時間なんて確認していないけれど、きっとそろそろ昼食の時間だ。
だって、太陽が空の真ん中あたりにあるし。
「せっかくだから、うちで昼ご飯一緒に食べない?」
「嬉しい誘いだけど、急に迷惑じゃないかしら?」
「迷惑なわけないって! うちの両親、いつも多めにご飯作るし。ね? ほら、決まり! 一緒に食べよ!」
手を掴んだまま、家に向けて歩き出す。
「もう、相変わらずスザンヌは子供ね」
目を細めて、アグネスがくすっと笑った。色っぽい笑顔に、心臓が飛び跳ねる。
アグネスは私のことを子供だと思ってるのかもしれないけど、私、もうそんなに子供じゃないから。
だから、まだ告白しないの。
「子供だから、アグネスが面倒見てくれないと生きていけないかも」
「そんなこと言って……本当、手がかかる子ね」
ぽんぽん、とアグネスが私の頭を撫でる。アグネスの手が私は大好きだ。
指が長めで、右手人差し指にはかなり大きなペンだこがある。
小さい頃から、何度もこの手のひらに撫でられてきた。
「そうだよ。だから、これからもよろしく。先生になるからって、他の子にばっかり構ったら泣いちゃうから!」
「本当にもう……。貴女ほど幼い子なんて、いないんじゃないかしら」
そう言いながらも、アグネスは楽しそうだ。
だから私も、こうやって幼いふりをしてしまう。
実際、アグネスがみんなの先生になるのは、ちょっと嫉妬しちゃうし。
初恋は叶わない、なんて聞いたことがあるけれど、私はこの恋を終わらせるつもりなんてない。
私はこの恋を、最初で最後の恋にするんだから。