第25話 疲労回復
「なんか、疲れたな」
息を吐いて、ソファーに倒れるように座り込む。
今日はスザンヌの家を訪れた後、部屋でのんびりしようとしていたが、そうはいかなかった。
大量の書類仕事が俺を待っていたのである。
情けないことに、俺は領主だが、仕事の大半は母さんがやっている。
俺が幼い時に父親が死んだから、まあ、仕方ない部分はあるだろう。
しかし、あくまで領主は俺だ。俺が目を通しておかなければならない書類も山ほどある。
「アグネスの父親が出してきたやつもあったな……」
アグネスの父親・イーサン。
彼は商家を営んでいて、扱っている商品はこのあたりでとれる農作物やその加工品全般だ。
スザンヌの家が作っている葡萄やワインも、もちろんその中に含まれる。
「イーサンは女学校の件、どう思ってるんだろうな」
娘のアグネスが賛成しているからといって、父親もそうだとは限らない。
もしイーサンに反対されれば、かなり厄介なことになるだろう。
「夕飯まで昼寝でもするか」
外はもう暗くなり始めている。あまり時間はないが、それでも眠らないよりはましだろう。
夕食後は今度の講座に向けて、ベルたちと打ち合わせをする予定も入っているのだ。
俺が目を閉じようとした時、部屋の扉が控えめにノックされた。
正直、無視して眠ってしまいたい。
「あの、コルベット様……」
ルイの声が聞こえてきた瞬間、俺は勢いよく飛び起きた。
「どうかしたか?」
「お疲れだろうと思って、ケーキを用意したのですが」
よく見るとルイはトレイを持っていて、その上には紅茶とケーキがのってある。
ケーキといっても、苺のショートケーキやチョコレートケーキのようなものではない。
見た目はパンに近い。たぶん、パウンドケーキみたいな感じだろう。
「今すぐ食べる。ほら、ルイも一緒に食べよう」
「……いいんですか?」
「そのつもりで、二人分持ってきたんじゃないのか?」
トレイには二人分のケーキと紅茶がある。指摘すると、ルイは照れくさそうに目線を逸らした。
そしてトレイをテーブルの上におき、部屋に二人しかいないのに、わざわざ俺の隣に腰を下ろす。
「いい匂いだな」
たぶん、ケーキには大量のバターが使われているのだろう。
身体には悪いかもしれないが、美味しいものは美味しい。
「作ったんです、これ」
「ルイが?」
「はい。簡単な物でしたら、一通りできますから」
「ありがとう。めちゃくちゃ嬉しい」
「ケーキ、お好きなんですか?」
「ルイが作ってくれたのが嬉しいんだよ」
いただきます、と手を合わせ、フォークでケーキを食べる。
もったいなくて、一口がやたらと小さくなってしまった。
「あの、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「なんだ? なんでも聞いてくれ」
俺の言葉に、ルイは覚悟を決めたように頷いた。
何を聞かれるのかと少し身構えてしまう。
「コルベット様は、今日お会いした方に好意がおありなのですか?」
「えっ?」
「奥方がいらっしゃるにしては、少々デレデレしすぎていた気がします。まあ、伯爵様ですから、悪いことではないのでしょうけれど……」
「いや、違う! あ、えーっと、なんかもう、いろいろ違う!」
思わず叫んでしまった。ルイを驚かせてしまったのは申し訳ないが、なんとかして勘違いをときたい。
確かに俺は、スザンヌにデレデレしていた。というかたぶん、アグネスにもデレデレしていた。
でもそれは、妻がいながら、他の女の子に夢中になる節操なしの男だからじゃない。
「ええっとな、ルイ……今から言う話、秘密にできるか?」
「できます」
ルイは即答した。翡翠色の瞳が力強く俺を見つめている。
たぶんルイって、気が弱いわけじゃないんだよな。
主人を殴って逃げてきたわけだし。
今はまだ、恐怖を引きずっているのだろう。時間が経てば、もっと本来の姿を見られるような気がする。
「実は俺とベルは、本物の夫婦じゃないんだ」
「本物の夫婦じゃない?」
「いや、もちろん結婚はしているし、法律上は夫婦だ。でも、それだけだ」
このことは、人に知られちゃいけない。
でも、ルイには本当のことを伝えたいと思ってしまった。
「……そう、ですか、へえ、そうなんですか、へえ」
何度も同じ言葉を繰り返し呟いているルイの顔が、だんだんとにやけていく。
俺が戸惑っていると、ルイは俺を見てにっこりと笑った。
「じゃあ、チャンスはまだあるっていう、そういうことでいいんですよね?」
初めて見る顔だった。
控えめな笑みでも、頼りなげな表情でもない。
ちょっといたずらっぽくて、自信ありげに見えて、でも不安そうでもあって。
要約すると、最高に可愛い。
「覚悟しててください、コルベット様」
そう言うと、ルイは俺に向かってあーん、とケーキを差し出してきた。
「食べてください。ね? 早く」
これってその、つまり、そういうことだよな?
ルイは、俺が好きっていう……。
心臓がうるさくなって、全身の血液が沸騰する。
疲れなんて、いつの間にか吹っ飛んでしまっていた。