決意と逃避
夜の帳が下りるインダスの工業都市。その心臓部にそびえるタイシン本社ビルは、無数のネオンが輝く都市の中で、一際異彩を放つ巨塔だった。最上階100階の社長室。その広々とした部屋の窓から見下ろす光景は、まるで巨大な蜘蛛が街全体を網で捕らえているかのようだった。
ベルガーはデスクの向こう側に立っていた。巨漢の大男であり、無骨な顔立ちは一見無表情に見えるが、その眼光は鋭く、何者をも恐れぬ決意が宿っていた。デスクの上には、最新鋭のデバイスが所狭しと並べられており、その中央には自らが創り出した超万能な自立型AI「ビグイン」のホログラムが揺らめいていた。
「レナ、来い。」ベルガーの声は低く、だが部屋の隅々まで響き渡る力強さがあった。
扉が静かに開き、長女レナが現れた。赤髪は燦然と輝き、その青い瞳は不安と期待が交錯する表情を浮かべていた。彼女の後ろに控えるのは、幼馴染であり世話役のジーケン。彼のポーカーフェイスはいつも通り無感情を装っていたが、その内側では静かに感情が波打っていた。
「父上、何かご用ですか?」レナは躊躇いがちに問うた。ベルガーの呼び出しには、常に重要な意味があったからだ。
「レナ、お前に見合い結婚をさせることに決めた。」ベルガーは一切の躊躇もなく告げた。その言葉はまるで鋭い刃となって、レナとジーケンの心を切り裂いた。
「そんな…」レナの声は震え、青ざめた顔がさらに白くなった。
「お前の将来を考えてのことだ。タイシンの未来のために、必要なことだ。」ベルガーは言葉を続けたが、その目は既に他所を向いていた。レナの感情に配慮するつもりは毛頭ないようだった。ジーケンは拳を固く握りしめていた。だが、その内心の嵐を表に出すことはなかった。ただ、レナの肩越しにベルガーを見つめる瞳に、わずかな怒りの色が宿っていた。
その夜、インダスの工業都市は重苦しい静けさに包まれていた。タイシン本社ビルの最上階から見下ろす光景は、無数の灯りが織りなす光の海が広がり、まるで生き物のように脈打っていた。レナの部屋もまた、ビルの喧騒からは隔絶された静寂の中にあった。
「ジーケン…」レナは窓辺に座り、夜の闇を見つめたまま囁いた。その声には抑えきれない感情が滲んでいた。
「私を連れ出して…」レナの言葉は途切れ途切れで、まるで深い井戸から水を汲み上げるような苦しさが伴っていた。
ジーケンは部屋の入り口に立ち、彼女の背中を見つめていた。彼の心には、幼い頃からの思い出が次々と浮かんでは消えていった。レナの笑顔、泣き顔、そして何よりも彼女の強さと優しさ。だが今、彼の前にいるレナは、無力な子供のように見えた。
「無理だ、レナ。」ジーケンは静かに言ったが、その声には既に揺らぎがあった。「君はタイシンの一部だ。ベルガー様が許すはずない。」
レナは振り返り、ジーケンの目をまっすぐに見つめた。その瞳には涙が溢れていたが、同時に決意の光が宿っていた。「私は…あなたと一緒にいたい。」
その瞬間、ジーケンの胸に鋭い痛みが走った。彼は一歩前に踏み出し、レナのそばに近づいた。彼女の肩に手を置くと、その細い肩がかすかに震えているのが伝わってきた。
「レナ…」ジーケンは低い声で囁いた。「本当に、それが君の望みなのか?」
レナは静かに頷いた。その表情は、覚悟を決めた者のものであり、ジーケンの心に深く響いた。
「将来への不安を手にすることになる…」ジーケンは言葉を選びながら続けた。「本当にそれでいいのか?」
「私はタイシンの未来を生きたくない。私はあなたと自由に生きたい。」レナの言葉には、揺るぎない決意と愛が込められていた。
ジーケンは一瞬、目を閉じた。彼の心の中で葛藤が渦巻いていたが、やがてその迷いは消え去り、決意が生まれた。彼はレナの手を取り、その手の温もりを確かめるように握りしめた。
「分かった。君を連れて行く。」ジーケンの声は静かだが、決意に満ちていた。
レナの目に喜びの涙が溢れ、彼女はジーケンの胸に顔を埋めた。ジーケンは彼女をしっかりと抱きしめ、その背中を優しく撫でた。
「一緒に逃げよう。どんな困難が待ち受けていようとも、君となら乗り越えられる。」ジーケンの言葉は、レナの心に深く刻まれた。
インダスの夜風が二人の顔を撫で、彼らの決意を祝福するかのように感じられた。工業都市インダスは、いつも通りの喧騒に包まれていたが、その中で二人の若者は、新しい未来へと一歩を踏み出していた。彼らの行く先に何が待ち受けているのか、それはまだ誰にも分からなかった。だが、彼らは共にいることで、どんな困難も乗り越えられると信じていた。
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