かきつばた
抜けるような青空に、風がやさしく光っている。そのはるか上を、ひきちぎったような雲がゆっくりと滑る。萌えはじめた草のかげから雲雀が飛びたち、ふいっふいっとさえずりながら、その空へ一直線に吸い込まれてゆく……。
見るものすべてが生命の息吹と彩りにあふれている、春とはそんな季節だ。
きみどり、みず色、もも色、よもぎ色、うすむらさき……。
春には、それにふさわしい色がある。
たとえば、アザミの花びらのすみれ色、カラマツの新芽のときわ色、スズカケの花のもえぎ色、送り雛の着物のあかね色、祇園の夜桜のなでしこ色……。
こんなに、たくさん似合う色があるというのに――。
「なんや、あんたまだそないな格好して。早う仕度せな、お葬式にまに合わへんで」
「……うん」
なんで今日は、黒い服なんか着いひんとあかんのやろ。こないな辛気くさい色、春にはぜったい似合わへんのに。そう思って、夏乃はため息をついた。
「お葬式行ったら……、ちゃんと大ちゃんにお別れ言うんやで」
「……」
大ちゃんと聞いて、夏乃はまた胸がずきんと痛むのを感じた。きのう美也ちゃんと二人であんなに泣いたのに、夜はベッドにもぐり込んで一人でずっと泣いていたのに、もう涙なんか涸れてしまったと思っていたのに……、大ちゃんのことを思い出すと、どうしてもまぶたの裏が熱くなるのを止められない。うつむいて涙をこぼしていると、ママがそっと背中を押した。
「ほらほら、女の涙は真珠て言うやないの、そない気安う流すもんちゃう」
ママの言うことはいまいちピントがずれている。でも夏乃はようやくのろのろと着替えをはじめた。畳の上にひろげられた黒のワンピースにそでを通すと、かすかにナフタレンのにおいがした。
「あ、そうそう、ママちょっと駅前に大切な用があるよってな、少し遅れていくさかい、あんた悪いけど一人で先行っといてんか」
大切な用というのが、えびす屋のタイムサービスにならんで特売の黒毛和牛フィレ肉をゲットすることだと夏乃は知っていた。今朝ちゃぶ台の上にひろげられたチラシに赤いマジックペンで印が付けられていた。どうせお葬式へは美也と二人で行くつもりだったので、夏乃は「へぇへぇ」と適当に相づちをうっていた。
「そや、ついでに花屋さん寄ってお弔いのお花注文せんならんのや。ああ、いそがしいそがし……」
「あっ」
花屋ときいて夏乃はとつぜんひらめいた。
――春に似合う色がもう一つある。
「なあママ、花屋さん行くんやったら、うちお願いがあるんやけど。どないしても聞いてほしいお願い……」
「なんやのん?」
「カキツバタ買うてきてほしいねん」
「杜若……、そないなもんどないするんや?」
「大ちゃんの棺にな、入れてあげんねん」
「入れてあげんねんて……、それはええけど、お葬式にはお葬式用のもっとふさわしい花があらはるんやで」
「カキツバタやのうたらあかんねん、なあママお願い」
夏乃が両手を合わせておがむまねをする。ママはしばらくうーんと首をかしげ唸っていたが、ふいに時計を見て「あれ、もうこんな時間やないの」と言ってバタバタ動きはじめた。
「一応あんたの願いは聞きとどけたわ。そやけど杜若なんか花屋さんに置いたはらへんかもしれへんで。あれは水物っちゅうて水棲植物やから」
「絶対あると思うねん、だってあないにきれいな花やもん」
あないにきれいな群青色した花やもん――。な、そやろ、大ちゃん。
大ちゃんが転校生として夏乃の通う小学校へやって来たのは去年の春のこと、始業式の全体朝礼も終わり、ざわついた雰囲気のなか、担任の先生に連れられ熊みたいにのっそりと教室へ入ってきた。まゆ毛の濃い、目がくりんとした大柄な男の子だ。ガキ大将のあっちゃんが思わず顔を引き締めた。
「ねえ、夏ちゃん……」
うしろの席にすわる子が、夏乃の耳に口を寄せてひそひそと囁く。
「なんや、恐そうな子ぉやね」
そやなあと、夏乃は目だけでうなずいた。教室の空気がぴんと張りつめている。四月だというのにとても寒い朝で、校舎の前庭にひろがる紅梅の枝に忘れ霜が降りていた。
「神戸の学校から転校してきました、浜口大助いいます」
みなが注目するなか、そうていねいに挨拶してから大ちゃんは背中を丸め、くしゅん、くしゅん、と立て続けにくしゃみをした。教室じゅうがどっとわいた。すると彼は恥ずかしそうに顔を赤らめ、先生から手渡されたティッシュでちーんと鼻をかんだ。体が大きいぶん、その仕草がなんとも可愛らしく見える。赤い鼻をぐずぐず鳴らして、彼はもう一度ぺこりと頭を下げた。
「ほな、よろしゅうお願いします」
やがて、コーヒーに落としたシュガーキューブがふんわりと溶けてゆくみたいに、彼はごく自然にクラスのなかへとけ込んでいった……。
「夏ちゃん知ってる? 浜口君てめちゃめちゃおもろいねんで、桂三枝のものまねとかしやはんねん。こんな感じでな、いらっしゃーい、やて……うふふ、ほんまよう似たはるわ」
先に大ちゃんと仲良しになったのは、親友の美也だった。席が近いということもあって、よく休み時間には楽しそうにお喋りをしていた。
「今度うちらに新ネタ披露してくれやはんねんて、楽しみやわぁ」
「そういうのうち興味ないねん。美也ちゃんひとりで見してもろたらええやん」
「えーっ、でも浜口君、夏ちゃんのことごっつぅ気になるみたいやで。あの子どこ住んでるん? とかお笑い芸人はだれが好きなんやろ? とか、しょっちゅううちに訊いてきやはんねん。あれ、ぜったい夏ちゃんに気ぃあるでー」
そう言って美也は華やいだ笑顔を見せた。夏乃はびっくりして顔を赤らめる。
「あ、あほらしー。うちあんな熊みたいな子ぉよう好かんわ」
「夏ちゃんはええなぁ、べっぴんさんやさかい、いっつも男子にモテて、うち羨ましいわ」
「美也ちゃんかて……」
その日から大ちゃんは夏乃にとって、熊みたいな転校生からちょっと気になる男の子へと変化した。そして三人でよく遊ぶようにもなった。
小学校の西を流れる桂川沿いの緑地が彼女たちの遊び場だ。大ちゃんはいつもそこで、朽ちかけたベンチをステージがわりにお得意のものまねを披露した。芸人や映画俳優、人気タレント、はては陰険なことで知られる教頭先生のものまねまでして、二人を笑わせた。
「ひー、おかし。浜口君ってほんまおもろいわぁ、将来はぜったい吉本興業入ったらええ思うよ」
「うちもそう思うしぃ。デビューしたら美也ちゃんと二人で応援行くわぁ。あ、そうや、なんやったら三人でお笑いトリオでも結成しよか」
二人でそうはやし立てると大ちゃんは照れたように頭をぽりぽり掻いて、そしてぼそっとつぶやいた。
「いや、実はぼくなあ……、植物学者になりたいねん」
「植物学者ぁ?」
夏乃と美也は、思わず顔を見合わせた。
大ちゃんはたしかに頭が良い。転校してきてすぐに算数のテストで満点をとった。かなり難しいテストで、いつもは算数の得意な学級委員の深沢くんでさえ八十二点だったのに、大ちゃんはややこしい分数の割り算まで全て正解していた。以来、神戸の子ぉて頭ええんやなあ、とみなから尊敬のまなざしを浴びるようになったのだ。
そやけどなあ……、と夏乃は思う。いきなり植物学者だなんて……。
「あんたまた、えらい難儀なもんになりたがんなあ」
「そうやで、学者なんか頭でっかちのインテリがなるもんや。浜口君みたいにごっつイカれた子ぉにはよう似合わへんわ」
すると大ちゃんは、ふっと笑みを消し、足下に生えるクローバーを一本引き抜いてそれを太陽にかざした。まぶしそうに目を細める。しばらくして彼はこんな話をはじめた。
「……むかしお母ちゃんがな、ようきれいな花摘んできてはそれを押し花にしとったんや。すみれ、なずな、おみなえし、一輪草に、夕化粧……。ばりきれいやったで。葉っぱなんか、こう薄ら透けとってなあ、まるで透かし彫りの工芸品みたいに見えるんや」
そう言って夢見るような目つきで微笑んだ。指先でつまんだクローバーが風にゆらゆらと葉を揺する。
「ぼく、植物ってええなあて、しみじみ思うねん。花はきれいやし、嗅いだらええ匂いもするし、葉っぱかて、いろんな色とか形とかあっておもろいんやで、ハーブやったら薬にもなるしな。ぼく、植物図鑑三冊持っとうけど、そこに載ってる花の名前、ぜーんぶ覚えてもうたわ」
「すごい……」
大ちゃんは得意そうに、へへへと笑ってしゃがみ込み、そこに生える草花の説明をはじめた。
「……これはヨメナや、若い葉っぱはおひたしにして食べれんねん。こっちはイタドリ、戦争中にはタバコの代用にしたんやで。おっ、珍しいな、これムラサキソウやん。根っ子が薬にもなるし、むかしはこれ煮詰めて紫色の染料にしたんや」
「ほんま、大ちゃん詳しいわぁ」
「植物のことやったらまかしときぃ、誰にも負けへんで。――あ、夏乃ちゃんこの花なんっちゅうか知っとう?」
「いやぁ、かいらし花やわぁ、うすーい瑠璃色で……、なんちゅう名前なん?」
「イヌフグリや」
「いぬ……ふぐりぃ?」
「そうや、犬のきんたまや」
「いややー、もう大ちゃんの、えっち」
夏乃が肩を押すと、大ちゃんは尻もちをついて笑った。
「なあ、自分ら今から僕んち来ぉへん? お母ちゃんが造った押し花見したるで」
大ちゃんの家は、近くにできた総合運動施設のすぐそばにあった。お洒落なタイル貼りの十二階建てマンションだ。エントランスホールの床がぴかぴかの黒大理石でできていて、夏乃はスニーカーの底に付いた泥が足下を汚さないかと、そればかりを気にしながら歩いた。
「……大ちゃん、ええとこ住んでんねんなあ。ここアクアリーナがすぐ目の前やんか」
「ほんまや。来月はいよいよプール開きやし、こっからやったら毎日通てもええもんな」
「……そんなええとこちゃうって、ぼくかなづちやし」
「あれま、そりゃ残念やったなぁ」
やがて三人を乗せたエレベータがゆっくりと動き出した。
大ちゃんの家族が暮らす部屋は、十階の、南西の角にあった。リビングにある大きな窓からは、桂離宮の御苑がまるで手の込んだジオラマみたいに見える。そして部屋の中には鉢植えの観葉植物がところ狭しと並べられ、芳香剤とはちがうやさしい香りが満ちていた。
「いやぁ、きれいやわぁ。押し花って、こないにきれいなもんなんや」
部屋の壁にびっしりと飾られた押し花を見て、夏乃がほうと感嘆の息をもらす。大ちゃんが、ふふんと得意げに鼻をうごめかせた。
「どや、すごいやろ? これみんな、お母ちゃんの手作りやで」
「大ちゃんのお母はんて器用なひとなんやねえ。これやったら市役所前でやってるフリーマーケットに出品しても絶対売れるわ」
「ははは、これ売りもんちゃうで。お母ちゃんとの大事な思い出や」
「――え?」
大ちゃんのくりんとした目を見つめて、夏乃が首をかしげた。
「思い出て……大ちゃん、お母はんと一緒に暮らしてへんの?」
「うん、ぼくがちっちゃいころ死んでもうてん」
夏乃は、はっと息を飲んだ。大ちゃんには母親がいなかったのだ。そう思ってあらためて眺めると、壁に飾られた押し花の数々が、まるで母親との思い出を詰めこんだ写真集みたいに見えてくる。
「まあ、ぼくにとったらこれがお母ちゃんの形見みたいなもんやな」
静かに目を伏せて夏乃がつぶやいた。
「かんにんな……うち、いらんこと言うて」
「べ、別に謝らんかてええねんで。見に来い言うたのぼくの方やし……」
そのとき突然、美也が弾んだ声を出した。
「あ、そうや、なあなあ二人とも日曜日ってひまぁ?」
びっくりして夏乃と大ちゃんが顔を見合わせる。
「うん、ひまやけど……」
二人がそう答えると、美也は、ふふんと笑って人さし指を振ってみせた。
「ほんなら、お花見行けへん? うちとこの町会の恒例行事なんやけど毎年そろって円山公園行くねん」
「え、うちらも一緒に行ってええの?」
「うん、友だちも連れてきなさいて町会長さん言うたはったし」
「やったー、花見できる」
「うち、なに着てこ」
二人はもう一度顔を見合わせ、そしてガッツポーズを決めた。
日曜日は、あいにくの花曇りだった――。
大文字山の向こうに、どんよりと黒ずんだ雲の塊が見える。あの雲がこっちへ来たなら雨が降り出すかもしれないと夏乃は思った。
四条通りから八坂神社を抜けると、そこがもう円山公園だ。こんな天気にもかかわらず、大勢の人で賑わっていた。公園の入り口付近にはたくさんの露店が並び、咲き誇る桜の木の下、びっしりと敷きつめられたレジャーシートに、ほろ酔い加減の花見客たちがひしめいている。
夏乃たち三人は、早々に食事を済ませると酔って騒ぐ大人たちの喧噪から逃れるように公園内を散策しはじめた。園内には小川が流れており、さらさらと心地良いせせらぎを聞かせてくれる。その川に沿って石畳の回遊路を歩きながら、三人はため息をついた。
「あーあ、大人ってなんでああなんやろ」
「ほんまやなあ。あっ夏ちゃん、そこ足下にゲロあんで、踏まんよう気ぃつけや」
「ぼくとこのお父ちゃんなんか、酔うたら泣き上戸んなんねん、もう最悪やで」
そんな愚痴をこぼしながら川の流れをどんどん遡っていくうち、三人は枝垂れ柳の覆う涼しげな池の前へ出た。さっきまでの喧噪が嘘のように静かな場所だ。ときおり水鳥の羽がぱしゃりと水面をはじく音が聞こえてくる。
「ねえ夏ちゃん、あれ見て」
その池に何かをみつけて美也が指さした。見ると灰色の空を映し出す池のほとりに、鮮やかな群青色をした花が群をなして咲いていた。三人は喚声を上げながら駆け寄る。花はどれもしんなりと水に濡れ、散りゆく桜とは対照的にあふれんばかりの命の輝きを放っていた。
「いやぁ、綺麗やわぁ……大ちゃん、これなんっちゅう花?」
「これは……杜若やな」
その青い花弁を注意深く観察して、大ちゃんが言った。
「カキツバタ?」
「そや。文目とか花菖蒲ともよう似とうけど、ちょっとちゃうねん」
「ふーん……」
夏乃はしゃがみこんで花をしげしげと眺める。そんな彼女と美也を見比べながら大ちゃんが言った。
「ほら、いずれアヤメかカキツバタ、っち言うやろ。あれ夏乃ちゃんと美也ちゃんのこっちゃで」
とたんに二人がぷうっと頬を膨らませる。
「あー、大ちゃんゆうたら、うちらのことバカにしてえ」
「ちゃうちゃう、どっちも甲乙つけがたいほど美しいっちゅう意味や」
「ほら、やっぱりバカにしてるう、なあ、美也ちゃん」
「ほんまや、浜口君、イエローカード」
大ちゃんは、困ったように頭をぽりぽりと掻いた。
「二人にはかなんなあ。ほんなら、こんなんどうや? ……から衣、きつつなれにし、つましあれば、はるばる来ぬる、たびをしぞ思う」
「なんのこっちゃ分からへんわ」
「こ、これはやなあ、伊勢物語んなかで在原業平が詠んだっちゅう歌で、言葉の頭をくっつけたらカ・キ・ツ・バ・タになるっちゅう……」
夏乃が立ち上がって、つまらなさそうにぽんと小石を蹴った。
「大ちゃんてなんや頭良すぎて、うち、ときどきよう付いていかれへんわ」
「ほんまやわぁ、うちらまだ小学生やのに、ありわらのなんちゃらっち言われても……」
「大ちゃん、勉強しすぎちゃう?」
すると大ちゃんは、急に寂しそうな顔をして俯いたままこう言った。
「じつはなあ……ぼく二人に秘密にしとったことがあんねん」
「え……?」
夏乃と美也が顔を見合わせる。
「なんやのん、秘密って?」
「ぼく……、来年なったら東山中学受験すんねん」
夏乃は驚いて、思わず訊き返した。
「え、よう聞こえへんかったわ。もう一回言うて」
「せやからぼく、東山中学受験せなあかんねん。ほんま残念なんやけどなあ、せっかくこないして夏乃ちゃんや美也ちゃんたちとも仲良うなれたのに……」
驚いて声もない夏乃のとなりで、美也が嬌声をあげた。
「いやぁ、東山中学っちゅうたら、めっちゃ偏差値の高い名門校やないのー。浜口君すごいわあ」
「……ぼく、ほんまは行きとうないんやけどな、お父ちゃんが」
「あほちゃうか! ほんま、ようゆわんわ!」
急に夏乃が二人に背を向けて言った。
「別々の中学行ったかて家近所なんやもん、いつかて会えるやないの! そないな永遠にお別れするみたいなこと言わんといて!」
大ちゃんが、慌てて言った。
「ごめんな、ほんま夏乃ちゃんの言う通りなんやけど……、そやけど、やっぱほら、人間て会わんようなると、なんちゅうか……」
「新しい友だちぎょうさん出来て、うちらのことなんか忘れてまうっち言うん?」
「そやないけど……」
「そうやないの!」
大ちゃんは、ふうーっと大きく息を吐いて、そして夏乃の顔をまっすぐに見た。
「……むかしお母ちゃんが死んだときな、お父ちゃん、ぼくに向こて言うたんや。ええか大助、今のうちにお母ちゃんの顔よう見とけ、火葬場で焼かれて灰になってもうても忘れへんよう、ちゃんと目ぇに焼きつけとけって……。そやからぼく、泣きたいの我慢してお母ちゃんの死に顔しっかり見たんや、棺のふたに釘打たれて見えへんようなるまで、ずっとずっと……、そやのに」
大ちゃんが涙をこぼした。
「ぼく……今じゃもうお母ちゃんの顔忘れてもうてん。目ぇつぶって必死に思い出そう思ても、なんや眩しい光みたいになってもうて顔の輪郭しか浮かんでこぉへんねん。なあ、夏乃ちゃん。人間ってどないに大好きな人がおっても、ほんでその人の顔ぜったい忘れへんて誓こても、長いこと会わへんかったらけっきょく……」
大ちゃんが袖で涙を拭った。美也も俯いてもらい泣きしている。でも夏乃は込み上げてくる涙を必死にこらえた。
「うちは……、うちは絶対忘れたりせえへんよ。たとえ別々の中学通うことんなっても、大ちゃんのことも、美也ちゃんのことも、ぜったい忘れたりせえへんよ。高校生んなっても、大学生んなっても、結婚してママになったかて、ぜったいぜったい……」
「……夏乃ちゃん」
「ぜったい忘れたりせえへんからっ!」
そう叫んで、夏乃は駆けだした。同時に冷たい雨がぽつぽつと降りだし、池の表面に無数の水の花を咲かせてゆく。それはやがて石畳を叩き、夏乃の後ろ姿を茫然と見送る大ちゃんの顔にも、そして美也の顔にも等しく降りそそいだ……。そんな雨のなか、鮮やかな色彩を放つカキツバタの群は、しっとりと濡れながら生き生きと咲き誇っていた……。
――それからちょうど一年後の、つまり昨日の朝早く、大ちゃんは登校する途中、車にひかれて死んでしまった……。
「――あ、ママ」
大ちゃんの葬儀が終わったころ、ぞろぞろと引き揚げてゆく弔問客をかき分け夏乃のママが現れた。右手にスーパーのレジ袋、左手には水色のポリバケツを提げている。
「ほれ、あんたの欲しがっとった杜若や」
「……おおきに」
夏乃はママが差し出すポリバケツから、きれいな花の束をそっと抜き取った。水に濡れ艶やかに光る群青色の花弁が散ってしまわないよう細心の注意をはらう。
「その花、手に入れんのほんま苦労したんやで」
ママがふんと鼻息をはいた。
「思てたとおり花屋さん、置いたはらへんかったさかいな、そやからほれ、西小路のご隠居はん、あのひと池坊のお師匠はんやったはるやろ。あっこ行って、お花分けてくださいっち言うて丁重に頭下げてなあ……」
「おおきにな、ママ。そのうちしっかり親孝行させてもらいます」
「そうそう、分かっとったらええねん。さあ、早うそのお花、大ちゃんにたむけたりぃ」
「うん」
夏乃は花束を抱えたまま、担任の木下先生のところへ行った。彼は葬儀に参列した生徒たちが全員ぶじ家に帰るのを見とどけるため、まだ斎場に残っていた。夏乃が近づいてゆくと、先生は眼鏡のふちを持ち上げおやっという顔をした。
「あの先生、このお花……、大ちゃ、いえ浜口君の棺に入れてあげたい思うんですけど」
そう言って手のなかの花を見せると、先生は柔和な顔にくしゃっとしわを寄せて微笑んだ。
「やあ、きれいな花だねえ。これはハナショウブというんだよ。むかし先生の家の近くにも花菖蒲園があってね、夏の初めころにはきれいな花を咲かせたものさ」
「え――」
「ちょっと待っていなさい、いまお父さんにお願いしてあげるから」
そう言って木下先生は、弔問客に挨拶をしている大ちゃんのお父さんのところへ行った。入れ替わるように美也が泣きはらした顔でやってくる。
「夏ちゃん……その花、もしかして」
「うん…………、一応」
「うちも浜口君のこと考えたら、この青い花思い出すねん」
「ああ、やっぱり美也ちゃんも……」
先生が夏乃の名前を呼んで手招きをした。大ちゃんの棺のところだ。その横には、彼のお父さんが立っている。さっきあいさつしたときは気づかなかったけど、夏乃が想像していたよりもずっと若い人だった。
「やあ、大助のお友達やね。今日はうっとこの息子んためにわざわざありがとう」
そう言って棺の蓋にある小窓をあけ、なかにいる大ちゃんに語りかけた。
「ほら大助、お友達が来てくれとってや」
夏乃と美也も、そっと棺のなかをのぞき込む。大ちゃんは、色とりどりの花に埋もれていた。
きみどり、みず色、もも色、よもぎ色、うすむらさき……。
その甘い香りを放つ花の合間には、副葬品としてお母さんが造った押し花が収められていた。そんな大好きな草花にかこまれて、彼はまるで楽しい夢でも見ているようにかすかに微笑んでいた。
「浜口君――」
美也は、早くも両手で顔を覆い泣きはじめた。でも夏乃は泣かない。込み上げてくる涙をぐっとこらえ、嗚咽をのみこみ、大ちゃんの顔をじっと見つめた。そして手にした花を、顔の横にそっと置いた……。
この花は、べつに大ちゃんのために手向けるんとちゃうで。うちのためや。うちが大ちゃんの顔忘れへんためや。楽しかった思い出をいつまでも忘れへんよう、この群青色の花といっしょにうちの心に焼きつけとくんや。そやからうち泣かへん。泣いたら大ちゃんの顔見られへんもん。そしたら大ちゃんの顔、大ちゃんの声、うちが好きやった大ちゃんのなぁんもかんも忘れてまいそうな気がするもん。だからうちは……うちは…………。
大ちゃんの白いほっぺたを夏乃の温い涙が打った。先生がそっと肩に手を置く。お別れは、そのまますぐに終わってしまった……。
葬儀場の玄関にはママが待ってくれていた。夏乃のことを見つけ小さく手を振っている。その姿を目にしたとたん、夏乃のなかから今までこらえていたものが一気にあふれ出した。
「わあーん」
「あれあれ、どないしたんや、急に泣き出したりして」
ママの黒いカーディガンに顔を押し付け、夏乃はしばらく泣きじゃくった。鼻をすすりあげると、ほのかな香水と石鹸と、そして母親の匂いがした。ママは、黒毛和牛を持っていない方の手でずっと夏乃の頭を撫でてくれた。そんな二人の姿を、帰り支度を終えた弔問客が見るともなしに見ては次々通りすぎていった。
「ママ、あんな、あんな……」
しばらくして夏乃が、えっえっとしゃくり上げながら顔を上げた。ママは、ひざを折ってしゃがみ込み、夏乃と視線を合わせる。
「――どないしたんや? 聞いたげるさかい、言うてごらん」
そう優しく微笑むママに向かって、夏乃は鼻水をずずーっとすすり上げながら言った。
「あのお花な……、カキツバタやのうて、ハナショウブやった」
あれから十と二年……。
夏乃は明日、大ちゃんの知らない誰かのお嫁さんになる。カーテンが外され、だだっ広くなった部屋の窓から暗い夜空を見上げ、彼女はそっと目を閉じた。
大ちゃん、うちな……明日、結婚すんねん。
まぶたの内に、懐かしい彼の姿を思い描く。転校してきてすぐの熊みたいだなと思ったときの顔……、面白いものまねで自分や美也ちゃんのことを笑わせてくれたときの顔……、野に咲いた草花のことを誇らしげに説明してくれたときの顔……、そしてカキツバタの群生する池の前で寂しそうに微笑んだときの顔……。記憶の底をていねいにさらってひとつずつ大切に拾い上げた大ちゃんの面影は、しかしどの顔も、どの顔も、まるで朧月みたいに淡くかすんで見えた。着ていた服や、髪型や、顔の輪郭は、はっきり思い出せる。でも肝心の顔の部分だけがなんだか優しい光のかたまりみたいになって、ぜんぜん浮かび上がってこないのだ。夏乃は、あああと深くため息をついた。
うち……、知らんまに大ちゃんの顔忘れてしもてん、くやしいわあ。お葬式んとき絶対忘れへんて誓こたのに。そやのに、けっきょく忘れてまうやなんて。かんにんなあ、大ちゃん……。
もう一度目を閉じてみる。やはり大ちゃんの顔は、光の彼方にかすんで見えた。
でも……。
それとは対照的に、鮮やかな感覚をもって脳裏に甦ってくる色があった。
――カキツバタの花が見せる群青色だ。
その匂い立つような鮮烈の青は、遠ざかる大ちゃんのイメージを優しく包みこんだまま、いつまでも、いつまでも夏乃の胸の内にうずまいて、楽しかった子供のころの思い出や、かつてひとりの少年が思い描いた夢のことを、色鮮やかに訴えつづけるのだった……。
(※ 関西弁監修……かじゅぶ先生)
お読みくださり、ありがとうございました。
また、今回この作品を投稿するにあたって関西弁の手直しをして下さった、かじゅぶ先生、本当にありがとうございました。