110・アトリア・エリスという男
アトリア・エリスは小さな頃から優秀な息子だった。いや、優秀な息子を演じていた。
アトリアの父や使用人たちはアトリアの母がおかしくなったのは妹のせいだと言っていた。
「なんで!!何で黒髪なの!??闇の加護なんて悍ましいっ…!!!」
子供は代々ぶどう色の髪を持ち、雷の加護を持って産まれるエリス公爵家に産まれた妹の髪の色は限りなく黒に近い紫色だった。
精霊の加護の影響が髪や瞳に出ることは常識で、それは間違いなく、闇の精霊に愛された証であった。
闇の精霊が忌避される上に珍しいこの国で闇の加護を持つ子供を産むことは不名誉でしかなく、産まれてきた妹の髪の色を見るたびに母は顔を顰めて罵声を浴びせたという。
アトリアが当時の乳母から聞くに、母自身も実家や父から責められて感情のやり場を無くしていたのもあるだろうとのことだった。どんどん精神を病んで、アトリアに執着していったらしい。
「アトリア、お母様は貴方が居ればいいの」
「あんな子私の子供じゃないわ、貴方だけが私の子よ」
「アトリアだけが私の希望よ」
縋るように母から投げかけられた言葉は愛情というよりは呪いだった。
母にとってはアトリアだけが公爵家と自分を繋ぐ楔だっことは言うまでもない。
でもひとつ下の妹が産まれてからおかしくなったという母はアトリアの物心がついたときにはおかしかったのでその頃のアトリアが気にすることはあまりなかったし、普通に愛されていると思っていた。
(でも、あそこまでおかあさまが嫌う、みんなが言う“イモウト”というのはどんなやつなんだ?)
興味があったが、妹は母の目に付かぬように離れに隔離されていて、アトリアは妹が産まれてから一度も見たこともなかった。
六歳になったとき、母も父もいない隙に使用人たちの目を盗んでこっそり離れにアトリアは冒険に行った。
母が嫌う“イモウト”という生き物はきっと恐ろしい姿をした怪物なのだとアトリアは勝手に思っていたのだ。
離れにはほとんど誰も居なかったし、離れ全体が埃っぽかった。妹以外誰も住んで居ないから使用人も少なかったのだ。
アトリアはあちこち歩き回って、ある部屋の前で立ち止まった。
「こほっ、こほ…」
誰かいる。咳き込む小さな声が聞こえた。
手をめいっぱい伸ばしてドアを開けると、その部屋だけ適度に掃除されていることに気づいた。
「…、だれ?…しゃるろって?」
アトリアの瞳には小さな小さな少女が映っていた。
少女はベッドの上で絵本を読んでいて、時折咳き込む。
アトリアは目の前の少女に驚いた。
怪物でもなんでもなく、普通の小さな女の子だったから。
(だれ?…いや、でもちょっと、いや、かなり可愛いかも…)
既に公爵子息として他家との交流もあって、同じ年頃の令嬢とも会うことはあったけど、こうも心が動かされたのはアトリアにとって初めてだった。
(…もしかして、この子は“イモウト”じゃなくて、別の子?なんでこんな場所にいるんだろう?)
少女を見ながら固まるアトリアを少女は夜空のような髪を揺らしながら、山吹色の綺麗な瞳で見つめていた。
「ねえ、きみがイモウト?」
「いもうと…?」
どうやらこの少女も“妹”を知らないらしい。
(離れには“イモウト”っていうカイブツが住んでるのに、こんなところに居てこの子は大丈夫なの?)
そんな不安がアトリアに過ぎった。少女にアトリアは近寄ると、少女の手を握った。
「ねえ、ここは危ないから居ない方がいいよ」
「危ない?」
少女が首を傾げると、アトリアはやっぱりこの子は知らないんだ!と驚愕する。
「一緒に出ようよ」
アトリアがそう言っても少女は頑なに部屋から出ようとはしなかった。
「お部屋から出る方が危ないって、しゃるろっては言ってたわ」
そう困ったように言いながら。
「ええと、きみ、名前はなんていうの?ぼくはアトリア」
「……、しゃうら」
シャウラは絵本が好きみたいだった。アトリアはシャウラが心配で、隙を見つけてはシャウラが怪物に食べられてないか確認するついでに絵本を持ってきてあげていた。
唯一シャウラを世話していたメイドのシャルロッテはアトリアが居るときに来たことは無かったけれど、後で思えば気を遣っていたのだろう。
通ううちに、歳を重ねるうちに、アトリアはシャウラが自分の“妹”である事に気付き、妹の意味を知った。
シャウラは優しくて可愛らしい子なのにまるで怪物のように語る母や使用人たちの異常性に気付いたし、幼い勘違いをしていた自分を恥じた。
(シャウラはずっと苦しんでたのにぼくは気付いてあげられなかった…)
いつしかそう思うようになって、可愛くて愛しい妹を自分だけは味方でいてなんとか助けなければという気持ちになっていた。
だから誰よりも優秀で有能な息子を演じた。
「シャウラを本館に戻してあげてくれませんか」
「シャウラに家庭教師をつけてあげて下さい」
「私は結構ですからシャウラに本を」
何かで結果を残して父に(どうせ建前だが)褒美をくれてやると言われるたびにシャウラのことを持ち出して少しでもシャウラを公爵家の娘と認められるように取り計らった。
褒美をやると言った手前、父は渋々了承したし、シャウラのことしか言わないからと聞いてこなくなったら直談判しに行った。
跡取りはアトリアしかいないから面倒がられてもぞんざいに扱われることはなかった。
シャウラが十歳のころ王子の婚約者候補になった事で少しは待遇は良くはなったが相変わらず母はシャウラを嫌い、父はシャウラを厄介者扱いしていた。
「あの子に関わるなと何度言えば分かるの!?お前まであの人に見放されたら私はどうするのよ!?」
シャウラの待遇を良くしようと動くたびにアトリアは母親に叩かれた。
母が自分を愛していると思っていたのはやはり虚空だったと十にならないうちにアトリアは悟った。
父はアトリアを家を残すための道具としか思ってないし、母も公爵夫人に縋り付くための道具としか思っていない。
きっと幼心に分かっていたから、あの日初めてシャウラに会った日にこの子を守らなきゃと感じたのだろう。
王太子は気に入らなかったけれど、候補でいるうちはシャウラはぞんざいに扱われたりしない。
そうやってうまく利用する手立てを考えながら、シャウラを幸せにしてくれる他の人を探していた。
そんな時、学園の入学式で学園長から呼び出された。
学園長は父の友人で二、三度くらいは会ったことはあるが呼び出されるような理由は思い当たらない。
話を聞くに、リギル・ユレイナスという生徒が異例の加護なしSクラスになったからフォローしてやって欲しいということだった。
リギルは公爵家の子息で筆記試験は首席、魔力もそこそこ平等に多く、全ての属性を扱える見込みがあったからという。
その一方、加護なしをSクラスにするのはかなり珍しいこともあり、学園長はトラブルが起きないようアトリアに頼んだようだった。
見せて貰った入学願書の姿絵を見て、すぐにアトリアが思い浮かべたのはシャウラだった。
「血筋も見目も良くて優秀なんて、シャウラの為に存在しているみたいじゃないか」
滑稽な話だが、アトリアはこれこそ運命だと思ったのだ。
あんなに優しくて可愛らしいのに周りから愛を与えられず蔑まれて、辛い思いばかりさせてきた可愛い妹のシャウラ。
シャウラが幸せになるためにはアトリアより優秀なこの男しか居ないに決まっている。
幸い、会話をして友人になればリギルはその性格すら穏やかで優しい人間だった。
結局思惑通りになったけど、当人たちが望んで一緒になって幸せそうなのは本当に良かったと思う。
よくよく考えてみればアトリアはシャウラの気持ちもリギルの気持ちも無視して二人をくっ付けようとしていたのだから。
「…、そんな私が恋愛か…」
ベッドに寝そべりながらアトリアはリオに勧められて買ったペンダントを見ていた。
鬱金色の宝石がひとつだけ付いたシンプルなペンダントは窓から射す月光の光を乱反射させてきらきらと輝いている。
ミラにプレゼントしろと言われたそれはアトリアの瞳の色でよくよく考えてみればプレゼントするには重すぎる。
「謝るだけなら花でも良かったな……」
とはいえやはりまだ帰り道だし花も邪魔だろうか。
それに仲直りしてどうすればいいのだろうか。
多分アトリアはミラが好きだ。でも、妹もまともに守れずに家から出すしか手が無かったのに、仮にミラと恋仲になってそれから婚約者になって、今度はあの家にミラを閉じ込めることになったらどうすればいいのだろう。
頭のおかしくなった母に血筋や権力ばかりこだわる傲慢な父…、ミラの義母や義父にするにはミラがあまりにも可哀想に思えた。
なら、もっと普通のまともな貴族に嫁いだ方がいい。
「だから、友人に戻れたらそれで……」
令嬢に自分が好かれやすいのは分かっていて、そういう好意にアトリアは敏感だった。
面倒だな、なんて思う事はあれど、怖いと思ったのは初めてだった。
(ミラが私を本当に好きだったらと思うと怖ろしい、でもそれは、嫌いだからとかじゃなくて、彼女が結果的に傷つく事になるんじゃないかという怖さだ…)
でも結局それを避けようとして傷つけて、アトリアは自分が何をやっているのか分からなくなっていた。
ミラがアトリアを好いているなら友人にも戻れないかもしれない。
でも、だからといって婚約者にするなんて。
色々な感情がアトリアの胸を渦巻いた。失敗するのが怖い。彼女に嫌われるのが怖い。近くに居られなくなるのが怖い。彼女が傷つくのが怖い。
(…臆病だ。臆病者だ……)
アトリアはポケットにペンダントを仕舞うと、布団を頭から被った。もう何も考えたくなんてない。
(明日になれば臆病な私は消えて、いつもの私に戻っているはず、そうしたら、ミラにきちんと謝って、それから………)




