ほっとけない
店を出て街の目抜き通りを歩きながら、男はリルに丁寧に説明した。
「キース商会?というのですか?」
「ええ。この街というか、この地方一帯では有名ですよ。何でも屋と言われてますが、実際はやり手の貿易商です」
「貿易商。では交易をされてるんですね」
「ええそうです。キース・ラングレイという人物が代表で、相当手広くやっています。彼は世界中につながりを持っていますよ」
ベルンの国でも、貴族の間で貿易商はとても頼りにされていた。大人たちは珍しいものを競って買い上げ、夜会や昼食会での自慢話に花を咲かせていた。父王が手に入れた虹孔雀も確か、どこかの商人から手に入れたはずだ。
「珍しいものも彼にかかればすぐ手に入る。それに最近では物だけでなく、困りごとも解決してくれるってことですよ」
自慢げに話す男を、リルは感心しながら頷く。なるほどそれなら、孔雀の羽だけでなく、今後もダーナ様のお使いに街中を走り回らなくてもいいかもしれない。
「それは、大変助かります!ぜひお会いしたいわ」
いそいそと男の後を歩きながら彼女は声を弾ませた。二人はいつのまにか通りを外れ、裏寂れた店をいくつか通り過ぎる。
「さて、ここです。彼はいくつか店を持っていますが、今日はこの路地の向こうを見回っているんですよ」
薄暗い横道を示され、彼女は首を傾げた。
「お忙しい方なんですね。けれど、なんだか寂しい場所。こんなところにお店があるのですか?」
言いながら通りを覗き込んだリルは、何者かに腕を掴まれた。
「え」
力の強さに眉をひそめ振り向く。だがさっきまでいた男の姿が見えない。彼女の手首を掴んでいたのは大柄な男だった。その目つきの鋭さに、彼女はひゅ、と息を飲む。鞄の中へ素早く手を突っ込んだが両腕を捻り上げられる。
叫ぶまもなく、壁に背中をどん、と打ち付けられた。
「声出すなよ。その細っこい首、いつでもへし折れるんだぜ?」
太い指が喉にびたりと回される。生暖かくぬらぬらとして気持ちが悪い。彼女は目を左右に走らせた。貧相な路地には誰もいない。絶望的な気分が襲ってくる。彼女の瞳が恐怖に濡れていくのを見て、男は下卑た笑いを浮かべた。
「素直ないーい娘さんだねぇ。どっかのご令嬢がお忍びかい?バカなこと思いつくねえ」
魔石、投げなきゃ。でも手が使えない。
何度も瞬きを繰り返す彼女を見てさらに嬉しそうに男は話し続ける。
「だーいじょうぶ。怖いことはしないよ、お嬢さん。大人しく金を出せばそれ以上悪いことは起こらない、な?最初に言ったろ?金を出せば教えてやるって」
-いい、人間はときにすごく、すごく嫌な生きものになるわ、気をつけなさい-
出会ったばかりの頃のダーナに言われた言葉がリルの頭を殴ってくる。
男はにきび跡が薄くあばたになっている顔を近づけてきた。心臓がどくどくと嫌な音をたてる。
「ま、有り金全部で教えてやるよ、あとその、大事そうに抱えてる鞄の中身な」
震える足を踏ん張りながら、彼女は必死に考えを巡らせた。
ダメ。目を瞑っちゃ!考えて、リル。リルシーユ。誰も助けてくれないわ。ダーナ様の腕輪だって魔獣や獣にしか効かないのよ。あ、そうだ。あれはあの狼のところに置いてきたんだ。
あの狼。帰ったら図書室で精獣の本を探そう。そうよ。あの心地の良い部屋でたくさん本を読みたいわ。こんなところで捕まっている場合じゃない……!
意識がいろいろなところへ飛んでいく。リルが震える様子を男は楽しそうに眺めていた。
「いいね、かわいい顔がくちゃくちゃになるのは見てて気分がいい」
「あ、の…っ、さっきの、方は……?」
掠れた声で小さく尋ねる。
「そう、あいつを待ってるんだよ、少しおせーよな。楽しんでもいいのかねえ?」
リルが抵抗しないのをいいことに、男は少しずつ距離を詰めてくる。彼は周りを確かめるようにぐるりと周囲を見渡した。
その瞬間を逃さずリルは狙いを定め、男の股間を思いっきり蹴り上げた。
嫌らしい笑いが苦悶の表情に変わる。ぐぅ、と声にならない声を上げ、男はリルを掴む力を緩めた。脚力は弱いとはいえ、森を歩き回るためのリルのブーツはとても分厚く丈夫な作りだったのだ。
「く、そ……。っこのアマ…」
顔を歪める男をよそに、リルは横へ飛び出す。昔読んだ冒険物語の挿絵が不意に頭に浮かんで、とっさにその通りにしてみたのだ。
それが、こんなにうまくいくとは。彼女はすぐに次の行動へ移る。思いっきり駆け出そうと地面を踏み抜いたとき、
「こら、無駄な抵抗すんなよ」
別の声が無情に響く。食堂の男がこちらにつかつかとやってくる。戻ってきたのだ。リルは再び石の壁へと追い詰められた。
「こんな娘になにやられてんだお前。油断しすぎだろ」
「い、…てえ、クッソ」
先ほどまでの明るい顔つきとは打って変わって底意地悪く唇を歪め、男は相棒を見やる。そして腰のベルトからナイフを引き抜いた。リルの口を肘でぐい、と塞ぐ。
「こっちは金さえ貰えばいい。どうせアンタはこの街の人間じゃないんだろ?誰も助けちゃくれないぜ?」
リルはブンブンと首を横に振る。男はさらに彼女の首を締めつけてきた。
「キース商会を知らないくせに強がんなよ。街の常識だぞ?」
愉快そうに続ける。ごつごつした壁に押し付けられて背中が痛い。
「アンタは高く売れそうだが、あいにくこっちはそういうことはしていない。だか、らかねを」
男は不意に白目を剥き、鈍い音とともにこちらに倒れ込んできた。どさりとした衝撃と重みでリルも壁へと沈んでゆく。どしんと尻餅をついてしまった。
「わ…」
どんな身分であろうが、異性に身体ごと覆い被されるなんてリルの人生で初めてだ。訳がわからないのと、恥ずかしいのとで彼女は足をばたばたと大きく動かす。すると、その足を今度は何者かに引っ張られた。
つ、次はなに?
「アンタ、馬鹿なのか?」
「きゃ…っ」
ずるりと男の身体の下から引き出され、やっと解放されたリルの目の前に立っていたのは、地味な色のマントで上半身を覆った鋭い目つきの青年。ただし、今日はフードが後ろへめくれ輝くような銀髪が露わになっている。
「し、シリウスおう」
「違うって言ってるだろ」