She wants to break free from……(三十と一夜の短篇第51回)
ジェラルディンはその日、夫のローレンス卿と共に競馬場に赴いた。競馬場で貴族が見物する区画は厳に定められ、決して労働者が入ってこないようになっていて、社交の場として機能しているが、人の多さと喧騒で、ジェラルディンは競馬場を敬遠気味だ。
――夫の持ち馬が出走するのでもないのに、熱心になれない。
それよりも好きな刺繍をしている方が余程いい。しかし、夫は妻を同伴することにこだわり、ジェラルディンは逆らえなかった。夫の友人知人たちも妻や家族を連れてくるのだから、馬に興味がなくても退屈しないだろうと夫は言う。妻も夫同様に来場者と友人として打ち解けられるだろうと信じ切っている。同じ階級社会の、似たような境遇の人たちでも、仲良しになれるかどうかなんて判らないものだし、ジェラルディンはどちらかというと消極的な性格をしている。挨拶と天気以外にどう話し掛けたらいいか、思い付かない。エプソムで、周囲に合わせて相槌を打ちながら、同じく刺繍が趣味の友人や刺繍を習いに来ている若い女性となら会話が弾むのにと、鉛のように消化しきれない気持ちを隠していた。
「国王陛下の馬が走る」
誰かの声に場は一斉に盛り上がり、柵の向こうの一般向けの見物席から大歓声が響いてくる。ここのボックスとは違い、柵だけで馬の走るトラックと仕切られた、立見席だ。隙間なく人が押し込まれている。
興奮で包まれた競馬場にあって、ジェラルディンは夢中になれない自分がおかしいのかと、不安になる。
出走が合図され、馬は疾駆する。
「ほら、あれが陛下の馬だよ」
夫は指差し、ジェラルディンは肯く。夫も周りの人たちの幾人かは腕を振り、声援を送る。
「なんだ? 何が起こった?」
ジョージ5世の持ち馬が突然止まった。止まる前に、何かが跳ね飛んだのが視界に入った。
オペラグラスや双眼鏡を持ち直して、目にした光景を口々に報告する。トラックには柵を超え、席を離れて、人々が入ってくる。
「馬はなんとか立っている」
「騎手は落馬だ」
「女性がトラックに倒れている!」
「後ろから押されて飛び出したのか?」
「自分で柵をくぐって、馬の前に出てきたんだ」
「なんてことだ。そんなことをしたら自分も馬も無事で済まないと判っているだろう」
「馬が足をやられたら、どうなるか知らないのか。それに騎手だってどんなに危険か」
「ああ、馬が動いた。大分動揺しているが無傷のようだ」
「あの女性、自分で飛び出してきただけでなく、諸手を上げて馬に立ち塞がろうとしていたぞ」
「一体何を考えているんだ」
ボックス席で言い合っていても状況は掴めないし、馬も騎手も、そして横たわる女性も助けられない。しかし、確かにここにいる者たちが何かできる訳でもない。ジェラルディンにはトラックに倒れている女性が心配でならなかった。立見席にいる者たちやトラックに乗り込んだ人たちが馬や騎手の無事を知って、安堵したようだが、今度は勝負はどうなった、勝ち馬は、と声を上げているのがこちらに聞こえてきた。
――賭けの結果が大事なのね。
冷ややかな気分は変わらなかった。
屋敷に戻って、後日新聞を読む夫からエプソムの競馬場で起こった事件の詳細を聞かされた。
「国王陛下の馬の前に飛び出して、撥ねられた女性が亡くなった。あの女性は女性参政権を求めて活動していたとある。
目立とうとして、陛下御自慢の馬や優秀な騎手を害して、自分が死んでしまったのだ。今までだって女性に選挙権を、と言いながら、郵便ポストに火を付けたり、首相や議員に石を投げつけたりと、野蛮な行為ばかりしてきた。考え方がおかしいと思われて当然だ」
夫はジェラルディンを見て、目を細めた。
「その点、ジェラルディン、君は出しゃばらず、貞潔で、素晴らしい貴婦人だ。女性のあるべき姿を体現している」
ジェラルディンは苦笑せざるを得なかった。
「褒め過ぎです」
「褒め過ぎなものか。かつての女王陛下だって、女性君主でありながら、女性に選挙権を与え、議員になるようになんて決めなかったのだから、そのように心得るべきじゃないか」
ジェラルディンは表情を固定したまま、黙っていた。
朝食が終わり、ジェラルディンは夫が置いていった新聞を手にして、馬に撥ねられて亡くなった女性の記事を読んだ。デイヴィソンというその女性に覚えがあった。以前、デイヴィソンはジェラルディンを訪ねてきていた。女性参政権運動に参加、協力してくれないかと熱心に口説いてきた。ジェラルディンが刺繍の手ほどきをしているのを、社会参加に興味があると思って勧誘に来たのだ。表に出ることに積極的になれない、そして参政権を得るのが重要であるのか理解できないジェラルディンは断った。
「権利がなければ義務もないはずです。それなのに我々女性は、慎ましやかであれ、家庭の天使であれ、と義務ばかりを言われ、自身の意見を公にするのも大学の学位を得るのもできないのです。おかしいじゃないですか」
「貴女の仰言りたいことは判ります。でも本当にわたしたちは殿方と違って非力です。殿方にお任せした方が良い事柄もございます」
「女らしいのと、権利を主張するのは別です」
彼の女はジェラルディンに脈がないと判断して、去った。
――彼の女は追い詰められていたのかしら?
デイヴィソンは大学に進み、優秀な成績を修めたが、女性に学位を認めない規則に泣いたと訴えていた。その後教職に就きながら、女性参政権を要求する運動に加わったと。世間の耳目を引いて、自分たちの意見を拡げようと、次々と騒ぎを起こし、逮捕され、刑務所にも入れられた。
女性に参政権は必要であると意見があるのをとにかく知ってもらおうと、過激なことばかりをしでかして、逆に保守的な人たちから、こんな無節操を繰り返す女性たちを政治に参加させられないと言われ、仲間内からもわたしたちは無政府主義のテロリストではないと非難された。デイヴィソンは刑務所内でハンガーストライキをしては寝台や椅子に縛り付けられて強制的な食事を摂らされ、扉に寝台を押し付けて刑務官の侵入を拒めば扉の覗き窓から水を浴びせられた。確かに世の中を騒がせる話題にはなったけれど、あまりの向こう見ずに呆れられもした。
――わたしなどからすれば性急に行動しても、報われないと感じるのだけれど、ミス・デイヴィソンは立ち止まろうとはしなかったのね。
ジェラルディンが娘時分、自分名義の財産があった。だが結婚して財産の管理は夫の権利となり、買い物をするのにいちいち夫に伺いを立てなければならなかった。親から受け継いだもので、自分の力で得ていない、元々自分のものではないから、慣習で定まっていることだし、仕方がない、と思って過していた。
――それは間違っている、と疑問を抱く女性がいるのね。
ジェラルディンは途端、自分の足に大きな重りが鎖でくくり付けられているように感じた。この身を引き絞るコルセットが拘束着でなくて何であろう。ボタンや紐で何重にも重ねられた下着からドレス、手袋、花車な作りの靴。
温室の花のように不自然なこの女という存在。恨めしいが、温室の外を知らぬゆえに、外気の風の強さは恐ろしい。
――広い空、遠い地平線に憧れても、人に育てられた小動物が野に帰れないように、わたしは自由に発言し、行動する勇気を持てない。
小鳥は猛禽の嘴と爪を警戒しつつ、飛ぶ。係累の男性という庇護無くして、自由に振る舞えるのか、心許ない。狭い籠に慣れきって、実は世界は無限だと目を向けてこなかった。
幾たびも傷付けられ踏みにじられながら、自らが欲するまま生き、亡くなったデイヴィソンに、ジェラルディンは初めて羨望を抱いた。
民衆というものは、善政に浴している限り、とくに自由などを、望みもしなければ、求めもしないのである。
マキアヴェッリ 『政略論』
引用は『マキアヴェッリ語録』(塩野七生 新潮社)より
参考 『女たちのテロル』 ブレイディみかこ 岩波書店
『映像の世紀』 NHK