みんな、ウンコしてるかーい!
ハッキリ言おう。私はウンコが好きだ。
正しくは、ウンコをするのが好きなのだ。それはとても気持ちの良いことだから。1日1回のハッピータイムである。
お腹の中のよどみを体外に排出する清涼感、爽快感。いらない荷物を捨て去った開放感。それらをひとつにまとめたのが「ウンコをする」という行為なのだ。
似たようなものとしては、ゴミ箱にたまった中身を一気に捨て、空になった、軽くなったゴミ箱に対する思い。流しいっぱいにたまった洗い物を洗剤とスポンジを手に、一気に洗う快感。大掃除でいらない物を全部捨て、数ヶ月ぶりに床を見た時の達成感。などだろうか。
ウンコをする過程も捨てがたい。そのものを排泄する時、それが肛門を通る時の摩擦感。ウンコが尻の穴を優しく撫でるように通っていく。一流のマッサージを受けているような心地よさがそこにある。
似たようなものは、他の排泄でも味わえる。小便でもおならでも。排泄に伴い、体の中にたまったものがすーっと減っていくあの快感。これはしみったれた出し方では味わえない。たっぷりたまったものを一気に出すのが一番である。特におなら。家の中で気兼ねなく出すのはもちろん、外で周囲に「誰もいない」ことを確かめた上ででかいのを一発する時も実に良い。パンパンに膨らんだ下腹部が、空気を抜く時の風船の如くしぼみ、軽くなっていくのが実感できる。
おいしいものを腹一杯食べるのも快感なら、腹の中のよどんだものを一気に放出するのも快感である。出すものが固体か液体か気体かの違いだけだ。
と、排泄の快感を書いてはみたものの、残念ながらそこまで爽快なウンコは滅多にない。
1日1回、健康的に排便できる状態ですら、会心のウンコと呼べるものは月に1、2度である。それ以外はなんか物足りない。なかなか出なかったり、逆に簡単に出過ぎたり。贅沢な話だ。ウンコにすら至極を求める。
最悪のウンコは、便秘でもなければ下痢でもない。6割ウンコだ。お腹の中にたまったウンコのうち6割程度出て、残りがどうしても出てこない。念のため言っておくが、6割というのは実感から来るもので、実際に量ったわけではない。
6割出たのだから、便意は充分収まっている。しかし、腹の中にウンコが残っている感覚は残ったまま。不完全排便だ。
硬さも問題だ。固すぎてひたすら力み、このまま力み続けたら脳の血管が切れて死んでしまうのではないかと恐怖し思わず力を抜いてしまう。もう一息だから頑張れと頭で解っていても、心のどこかで
「1人暮らしの中年男性、トイレで排便中死亡。肛門から5センチほど便が出た状態」
なんて記事が新聞やネットのニュースまとめサイトでトップを飾るのではと恐怖してしまう。私は日頃からちょっと変わった死に方、三流雑誌のおまけ記事にでも使われそうな死に方をしたいと思っているが、さすがにこれは嫌だ。
そのせいか、私は常日頃食物繊維を意識して取るようにしている。時には1日3食焼き芋だったりする。
全ては会心のウンコのためである。
どうしてここまでウンコにこだわるのだろうか?
鼻をかんだあと、かんだちり紙を広げて出たものを見る人がいる。それと同じように、私もウンコの後、流す前に出たものをまじまじと見る。
便器の中にたまったそれを見ては「よしよし、いっぱい出たな」「これは昨日食べたコーンだ」「この糸みたいのなものは……焼きそばに入れたもやしか?」と満足感に浸る。
これに関しては、洋式便器よりも和式便器の方がいい。出たものがこんもりと山になっているのがハッキリ解る。山ばかりではなく、ぶっとい太巻きじみたのが1本横たわっているのもなかなか。
人は自分のウンコを見つめずにはいられない。それは、そのウンコこそが自分そのものだからだ。
私立探偵がターゲットの私生活を調べる時、ストーカーが相手のプライバシーを知ろうとする時に何をするか? その人が出したゴミを持って帰り、中を調べる。その人が出したものには、その人の全てが詰まっているからだ。
ウンコも同じである。健康診断で必ず検便があるように、ウンコにこそ出した人の全てが詰まっている。ウンコは言わば自分の分身である。だからこそ愛おしい。と同時に自己嫌悪が湧き上がる。ウンコは臭い、汚い。ウンコは自分の醜い姿の塊でもある。だからこそ水に流して見えなくしてしまう。自分の醜いところなど見たくはないからだ。
幼児はウンコを好むという。自分に対する嫌悪感がそれほどないせいだろう。自分の醜さをあまり実感していないから、自分のウンコにそれほど嫌悪感を抱かない。
私もウンコに対する嫌悪感を少しずつ克服していかなければならない。ごはんもウンコも、死ぬその日までする。ウンコこそ、自分が生きている証なのだから。
いつの日か、自分のしたウンコを「美しい」と思えるようになりたい。