十二 偽造する未来の物語
──『悲哀』の操觚者、永鷲見十里の名において命ずる。
涙は血に、悲しみは拘束に。いばらの園よ、美しき薔薇の棘をもって侵入者の身を切り裂き、蔓をもって身を絡め取れ。
──『畏怖』の操觚者、入舟辰忌の名において命ずる。
疼みは神経を貫く甘美なる夢、失う者は立ち止まるだろう。一歩とて、前に足を踏み出すことなく。
新世界派特有の前口上のあとで、十里が虚空に書いた文字は『成熟』。
拓海が書いた文字は『莫児比涅』。
「うおっ、合わせ技!? かっこええ! ふたりだけずるい! オレも混ざりたい!!」
「混ざってるよ~。虎丸くんが花を撒いてくれたから、気づかれずに相手を囲めたね」
十里の文字が発動すると、虎丸が刀を振るうたびにシャラーンと咲いて地面にポロポロ落ちていた白薔薇が一斉に枯れはじめた。幻灯機のスライドで早回ししているかのように、みるみるうちに種子が落ち、新芽が生え、蔓が伸びていく。
やがて敵の周囲、しのぶと藤の立っていたあたりは棘だらけの茨に囲まれた。少しでも動けば手足が傷つくほどに密集し、絡んでいる。ミルクのような純白の花弁が、ふたたび満開に咲き誇った。
「ジャンヌ・ダルクという品種はとても香りが強くて、棘が多いんだ。薔薇キャラを狙ってたのにぽっと出の敵に盛大に取られちゃったから、ちょっとした反抗心で被せてみたよ。ふふふ」
「狙っとったんや……。薔薇キャラがなんなのかようわからへんけど、入れ墨いれるくらいこだわりあるみたいやし、しのぶ様に譲っときましょ?」
「まあそれはいいとして。僕らは支援役だから直接的な戦闘は苦手なんだけれどね、闘わずに終わらせるのはわりと得意だよ。なんといっても、今日は観客が多すぎるから」
茨の園は敵の動きを封じるほか、周りにいる女生徒たちからの目隠し、それから危害が及ばないよう柵の役割も果たしていた。
しかし、いくら棘の多い薔薇といっても実物はここまで鋭利ではないだろう。十里の『形容化』によって変形し、大きく尖った先端が四方に飛びだしている。人の手の甲でさえ簡単に穿けそうだ。
本人も先ほど戦闘は苦手だと言っていたが、この攻撃性はいつも穏やかな青年らしくない。静かな怒りのような感情が隠れているみたいで、虎丸は少しひやりとする。
それから、濃厚な花の匂いにまぎれ、ほんの少し酸っぱいような異臭が混じっているのに気がついた。
「これは……モルヒネの臭い? 拓海、おまえは毎回危ない文字使うなぁ」
「体内に残るわけじゃない。文字が消えれば薬物も完全に消える。だが今は、何も痛みを感じないだろう? 『莫児比涅』──この文字はお前たちの痛覚を奪う」
拓海はしのぶと藤に向かって、冷たく言い放った。
「痛覚を失くす? なんでそんな、敵に塩を送るようなことすんねん?」
棘で動きを封じても痛みを感じないなら、簡単に脱出されて意味がないのではないか。
虎丸は一瞬そう考えたのだが、藤の様子を見て思い直した。
「偲様、ご無事ですか!? 今、そちらへ参り──」
無理やり茨を押しやってしのぶのいるほうへ向かおうとした藤が、ほとんど進まないうちに突然動きを止めた。
腕や膝に棘が刺さり血を流している。まだ大きな傷ではないが、額には脂汗が浮かんでいた。
低めでありつつもよく通る声で、拓海はさらに囁く。
「塩なものか。怖ろしくはないか? どれほど傷を負えば致命傷なのか、肉体が今どんな状態になっているのか、自分自身でまったくわからないのは。疼みは危険信号。もうお前はそこから一歩として動けない」
藤は足がすくんでいるようで、前進も後退もできず戸惑っている。
風景描写の再現が得意な十里と、毒や薬に通じている拓海。
これこそ、ふたりで考案していつか使おうと温めていた合体技である。
「たしかに、想像したら怖ぁ……。嫌な技やなー。元々性格悪い拓海はともかく、ジュリィさんまで結構容赦ないわぁ。敵の精神攻撃に耐えられそうな面子を連れて行こうって話やったのに、むしろこのふたりがそういうの得意そうやん……」
「お前が甘すぎるだけだ。金沢では亡霊に同情してやられかけたと聞いたが、次に同じことをしたら殴るぞ。バカ丸」
「うっ」
金沢だけではない。白鬼の銀雪を使い魔にしたときといい、いくつも身に覚えがある虎丸はぐっと言葉をつまらせた。
「終わった話はもうええねん! それより、これなら動かれへんし、敵も降参して退くしかないんとちゃう──」
だが、男装の麗人は涼しい表情を変えることなく立っている。
口元の端を薄く上げると、ごく冷静な口調で独白のような感想を述べた。
「たったひとつの文字でも、普段どんな言葉を好んでいるか想像できるものだ。やけにハンサムなあの青年は薬品系か。異国人風の彼が一番曲者だな。さりげなく私の趣向に被せて、自分の癖を見せないようにしている。探られていると気づいたか。──白いジャンヌ・ダルクの花詞は『私は貴女に相応しい』。もしや、模倣の皮肉を込めたのかな。情熱的なことだ」
しのぶの声色からは、焦りも恐怖も感じられない。
周囲に咲いた白薔薇を一輪抜き取ると、細長い針のような棘を自らの手に躊躇いもせず突き刺した。
「んなっ……!」
「偲様!? 何を!?」
虎丸と藤が同時に声をあげる。
棘は手の甲を貫通し、少し下に傾けた細い指先から鮮血が流れ落ちていく。
『莫児比涅』の文字が効いているので痛みはないはずだが、だからといって迷いすらなく平然とできることではない。拓海が言ったように、身の危険を避けるための重要な警告だからだ。何も感じない分、なおさら恐怖に直結するはずである。
「どんなに怖ろしくても、不安があっても、私は素顔を隠して舞台に立ってきた。本来の感覚、本能、感情、どれも関係ない。あってもなくても同じ。私は演じるだけさ。自分の、自分たちの居場所を守るためにね」
さっきまでと同じ笑い方。自傷が特別意味のある行動とは思えない。
だが、少しだけ彼女の本音のようなものが滲み出ていた。いわば覚悟を見せただけだ。
「おっと、決して軽妙洒脱を崩さない人かと思い込んでたよ~。ちょっと甘く見てたね」
「ご存知のとおり、下賤の生まれなのでね。泥をすすって育った。本物の優雅にはなれなくて申し訳ないな。ところできみ、匂わせないようにしているが先ほどから随分私に敵意を向けてるね。何か言いたいことがあるんじゃないか?」
十里の挑発めいた言葉を軽く躱し、しのぶが問い返す。
ハーフの青年は一瞬迷いを見せたが、まっすぐに敵を見据え、やがて口を開いた。
「吉原遊廓では仲間が怪我をしていて、機会は得られなかったけれど。彼を……獏を返してくれないか。日本で初めてできた、僕の大切な友達なんだ」
絞り出すようなその声を聞いた虎丸は、少なからず衝撃を受けた。
恐怖小説の名手・名刃里獏は元新世界派の仲間で、今では黒菊四天王の一員だ。十里の従兄弟だとは知っていた。しかし、襲撃を受けて刃を交えたこともあり、虎丸は彼を完全な敵と見做していたのだ。
獏を取り戻したいという十里の胸の内に、気づきもしなかった。
「返せだなんて、人聞きが悪いな。あの子は自分の意志できみたちから離れ、『黒菊』へやって来た。私の認識は間違っているかな?」
「だけど、彼は……本来、そちら側にいる人間じゃない」
「残念だが、あの子はもう帰れないよ。近頃政治家が神隠しにあう事件が頻発していたのは知ってるだろう。菊小路の邪魔者を消したのは、獏だから。もう二度と太陽の射す世界には帰れない。私たち他の四天王と同じだ」
十里が押し黙る。
しのぶは傷口から血が落ちるのも構わず、両腕を広げた。
「獏だって手を汚すのがどういうことか、理解しているさ。あの子は馬鹿だが、ときどき馬鹿じゃない。ちゃんと自らの考えを持っている。旧知のきみならわかるはずだ」
彼女がまた歌いはじめると、旋律とともに茨の上空に黒い塊が出現した。それは小型の舞台装置だった。
顔のない人形のような役者が三体、開いた幕の内側に立っている。衣装は虎丸、十里、拓海が着ているものとまるで同じだ。
「なんや、のっぺらぼうの役者……?」
「動きを封じられたのなら、きみたちに勝手に斬り合ってもらえばいいだけだ。舞台を創り上げるのが私の力。再現する過去の物語、見通す現在の物語、そして偽造する未来の物語」
しのぶが歌詞にストーリーをのせると、役者が動きはじめた。
同時に、刀を持った虎丸の腕が役者に合わせて勝手に振りあがった。
「えっ、うそ、虎丸くん!?」
「よせ、虎丸!!」
重く沈んだ瞳は、いつもの虎丸ではない。だが身体能力は変わらない。
常人には避けられない速さで、虎丸が十里に斬りかかる──が、拓海の声に反応してすんでのところで止まった。
その隙に拓海は文字でタライ一杯分ほどの水を出すと、虎丸の頭からぶっかけた。
「んぎぎぎぎ」
「バカ丸、単純なやつめ。簡単に敵の怪しい術にかかるんじゃない!」
「ぶはっ。拓海ィ、冬に水はやめろや!! なんやねん、今何が起こった!?」
ごく短時間だったが、意識が飛んだのだ。ただし、記憶は残っている。
まるで自分の意志のように、十里を斬ろうとした。
わけもわからずきょろきょろと周囲を見渡していると、しのぶが前で腕を組みながら残念そうに言った。
「なんだ、動かせたのはひとりだけか。きみ、さては単純なんじゃないか?」
「ぐ。ようわからへん力で操られたうえに、悪口言われた……」
遠くで鐘の音がする。午後の授業開始を知らせる予鈴だ。
寸劇と思って鑑賞していた少女たちが名残惜しそうな会話を交わし、続々と校舎に戻っていく気配がする。
波が引くように女生徒たちが去ったあと、地面には黒い影が伸びていた。
虎丸はまだ状況を把握できず、水浸しで座り込んで頭をぶるぶると振って水を飛ばしている。
その背中に、低く、重い声が落ちた。
「偲、此度は視察が目的だったはずだ。半端な情報を敵に与えるな」
「こんなところまでご足労を。申し訳ありません……本郷先生」
聞き覚えのある声に反応して、虎丸が振り返る。
立っていたのは、黒い和服を着込んだ五十がらみの男。
『文壇を統べる者』──大作家・本郷真虎であった。




