五 失われていた、とてもきれいな五つの結晶
東京市・浅草区のはずれにぽつんと空いた広い敷地。
一見すると武道場のような構えの門には、『本郷書院』と書かれた大仰な木看板がかかっている。敷地内の平屋は、義務教育として尋常小学校が置かれる以前に盛んだった私塾に似た雰囲気である。
畳の上に机が何列も置かれ、門下生たちが並んで書写に励んでいる。年齢はおおよそ八~十六歳と、小学生から中学生くらいまで開きがあった。
廊下の窓から、大物然とした三人が子供たちの様子を眺めている。
まず、この書院の指導者、本郷真虎。漆黒の紋付羽織に素鼠色の袴を合わせた、文人というより武の達人のような容貌をした寡黙そうな男だ。
若い頃は小説家として高い評価を得ていたが、わずか数冊の著作を発表したのみで実質引退、作家の育成所として『本郷書院』を立ち上げた。
以後は幾人も弟子を取り、幼いうちから一般的な教養を含めた教育を施している。
一歩後ろに立つ、やけに妖艶な女が胡蝶太夫。
半ば伝説と化している元吉原の高級遊女だ。色街では望まれることもなく次々と子供が産まれてくるが、その私生児たちを引き取って孤児院で育てている。
様々な施設を揃えたこの広大な敷地で、門下生たちの教育を本郷が、生活を胡蝶太夫が分担して面倒を見ていた。
そして、書院と孤児院に出資をしているのが、吉原遊廓での闘いで新世界派の前に姿を現した隻眼の老人──大蔵大臣・菊小路鷹山である。
木製の車椅子に乗った小柄な人物で、白髪混じりの口髭をたくわえ、いかにも閣僚らしい風格をまとっている。少し異様に見えるのは片目を覆う、黒い菊をかたどった眼帯くらいだ。繕えば好好爺に見えなくもないが、年齢で下がった皮膚の奥に隠れる瞳は猛禽類のように鋭い。
車椅子が進むたび、車輪の音が廊下に軋む。
蔵相・菊小路は、その小さな体躯から発せられたとは思えないほどよく通る声で言った。
「本郷、君は計画が開始してからの二十五年間で何人の孤児を育てた?」
「志願者も数人混じっておりますが、おおよそ五百ほど。先の洋館襲撃で百人まとめて失いました。操觚者として物になったのは、現役では『黒菊』で執筆させている四天王とその弟子、合わせて八人だけでございます」
老人は「ふっ」と、嘲るでもなく不機嫌でもない、思惑の見えない息を漏らす。
「其れだけの金と時間をかけても、君の門下生は誰もあの封印を解けなかった。作家や学者ですらなかった子供に負けたのか」
「幾ら教育を施しても、ここに集められてるのは所詮下賤の生まれですから。それに、童といえどあれは人間国宝・三代目志木井涸涸の跡継ぎでした。からくり人形師の才能が適合したか、元より天才児だったのでしょう」
「言い訳はいい」
冷酷さすら感じない機械的な物言いが、切れ者で名の通った菊小路の気質をよく表している。合理性のために人の心を棄てた、とはこの老人についてよく語られる言葉だ。
「文字を書き、虚構を作りだすのは大日本帝国に眠っていた最凶最悪の物の怪の力──『幻想写本』。本来は天皇家の外に出してはならないものだった。すでに欧州大戦は始まり、我が国が本格的に戦へと巻き込まれる日もそう遠くない。原本を握っている集団は、その力を自死した作家の蘇生などという無駄なことに使っているようだが」
「……まさに、愚行かと」
「虚構の力といえど、現実を変えうる力だ。作家風情が一人蘇ったところで、一体なんだと云うのだ?」
老人が節だった指を一本立てると、胡蝶太夫が妖しい笑みで頷いて車椅子を押しはじめた。
「体に印を刻み、適性のある者に操觚者の力を与えられるのは『幻想写本』の持ち主のみ。だが、戦力を拡大するつもりはなさそうだ。九社花家の嫡男が文学への執着以外に欲も野望もなさそう小物であったのが救いだな」
ささやきめいた菊小路の言葉とともに、ゆっくりと回転する車輪が木が擦れ合う引き裂くような音を鳴らし、出口のほうへと長い廊下を進んでいく。
菊小路は最後に、本郷へ命令を言い残した。
「黒菊四天王の下に、実験体から産まれた新型の操觚者がいるだろう」
「はい。『藤』『海石榴』『鬱金香』『茉莉花』の四人でございますね」
「四天王が役に立たないならば造兵に回す。そのときは主力を新型に入れ替えろ。今回で最後だ」
「……御意」
静まった教室から、墨を磨る音だけが響いていた。
一人残された本郷は、短く返事をして目を閉じた。
***
タカオ邸、地下室。
散らかった部屋の真ん中で虎丸は椅子に座り、眼鏡の少年と向かい合っている。
結局のところ、『文字の力』とはいったいどのようなものなのか?
そう聞いた虎丸に、白玉が身振りを混じえて一生懸命説明をしているところだった。
「簡単に頼むで、簡単に!」
「はい! ええっとですねー、文字の力の正式名称は『幻想写本』っていいます。もう何百年も前から日本に隠されてた力で、複雑に言葉が絡み合った封印がされてたんです。明治政府が解ける人を育てるための専門機関まで作ったんですよー」
「ふむふむ。数学でもあるよな。懸賞金かかった、未解決問題みたいなん」
「まさにそんな感じです! でもぼくは父さまが帝室技芸員だから知ってただけで、一般国民には公表されてない情報だったんです」
「帝室技芸員!? 芸術家の最高栄誉やん。三代目、そんなすごい人やったんや……」
ずっと隣にいる白骨に向かって、虎丸はふたたび頭を下げた。
「でも、ただの子供にツテがあるわけないので、大蔵省のえらい人と繋がりがあった九社花財閥の力を借りて潜りこみました。ぼく、パズルとか得意なんです! 伊達に絡繰りいじってないですよ~。すぱぱぱぱーんって解いたんです。それでも一ヶ月くらいはかかりましたかねぇ」
「明治の頃から専門機関があって解かれへんかったものを、一ヶ月ですぱぱぱぱーん……。白玉はお利口やな~」
「えへへへ」
ぱちぱちと拍手をされ、白玉は頭を掻きながらへらっと照れている。
「封印を解いたあとは、名誉賞をもらって終わりのはずだったんですけどね。ぼくの目的は力そのものだったので盗んできちゃいました」
「おおっと、大胆! てかそれだけ聞いたらやっぱりこっちが悪者……?」
「というわけで、新世界派は狙われ続けてるんです。数年はこのタカオ邸に隠れてたんですけど、仲違いした獏さんのせいで見つかっちゃいました。拓海さんが部員になってすぐだったから、一昨年くらいですね。ぼくらも最近知ったんですが、さっき話した専門機関はまだ動いてたみたいで……今はより強い操觚者を作るための育成所らしいです」
「それがタカオ邸を襲撃してきた組織ってことか……」
「です! 蔵相が率いる、通称『黒菊』ですね!」
頷いていた白玉が突然、「あ!」と叫ぶ。よく話の飛ぶ少年である。
賢いことに間違いはないのだろうが、頭の中には常人が理解できないものがたくさん詰まっていそうだ。虎丸は無邪気なその瞳を見ると、いつも底の知れない何かを感じる。
「いいもの見ますか? きれいなもの!」
なんだろうと首をかしげながらも、立ち上がった白玉のあとについていく。
向かった先は向かい側の扉、伊志川化鳥の肉体が眠る安置部屋だった。
「見てください。これこれ」
白玉はためらいもせず棺の覆いをはずし、美しい死体を指さした。
「化鳥……」
思わず、虎丸から漏れる声。
見るのは初めてではないが、今なら八雲との違いがはっきりとわかる。ここに眠っているのは、ついこないだ一緒に旅をした化鳥だ。
長い髪と、端正な顔立ちの下に潜む般若のような凄み。
「こっからです。えーと見ててくださいね」
癖のある焦げ茶色の前髪を、白玉が手で掻きわける。額には『歓喜』の白い文字が刻まれていた。紅は太腿だったのでじっくり観察していないが、新世界派の体に書かれた白い文字はすべて八雲の筆跡である。
文字が光ると、呼応するように化鳥の胸のあたりから五つの結晶が浮かびあがった。どれも透明な乳白色だが、角度を変えるとかすかに色合いが違っている。
大阪に行く前、八雲が見せてくれたのと同じものだ。
すぐ混ざってしまうのでひとりにつき一種類しか集められないと言っていた、感情の結晶である。
「虎丸さん、目に見えないものはよくわかんないって言ってたから、特別です! ヒトの感情って、きれいでしょ?」
「うん、宝石みたいやな」
「新世界派の部員はそれぞれ担当する感情を、この体に集めてるんです。ぼくに反応して強く光ってるのが『歓喜』、いちばん透明度が高いやつですね。あと足りてないのは『悲哀』と『恋慕』かな。この翡翠色が『悲哀』。淡紅色がかったのが『恋慕』。感情が戻ったら、八雲さんでも恋とかするんですかねぇ?」
「さあ~? あんまり、化鳥もまともにそういうのしそうな印象なかったしなぁ……」
と、そのとき。
虎丸は棺の後ろに隠れたおみつの骨壷と、傍に置かれてあった写真立てに気がついた。
「これは……家族写真?」
「ああ。父さまが帝室から技芸員の栄誉を賜ったとき、写真館で記念に撮ったやつです。遺影がわりですね」
手に収まる大きさのスチル写真に、和服の四人家族が写っている。
記念ならば手前に父親がいそうなものだが、前に置かれた椅子には母親が座っていた。
そして、母の隣にで並んで手を繋いでいるのがおみつと白玉。父親は一番後ろで娘と息子の肩に手を置いている。
白骨だけではわからなかったが、三代目・志木井涸涸は、幼い姉弟の父にしては年老いていた。遅くできた子供だからより一層なのか、写真の立ち位置からも家族を溺愛していたのであろう空気が伝わってくる。
写真立ての裏側には、すでに亡き三人の名前と享年が書いてあった。
──志木井蜜、おみつちゃんの本名か。
履き慣れていなさそうな女袴の結び目あたりに指先を重ね、緊張した顔をカメラに向けている。十六の今よりも幼く袴も真新しいので、おそらく小学校を卒業して女学校に入ったばかりの頃に撮影されたのだろう。
と、写真を眺めていると──ある考えが、虎丸の頭に浮かんだ。
「白玉。これ、ちょっと借りてええ?」
「いいですけど……。そんなもの、なにに使うんです?」
写真立てを握りしめ、意気揚々と立ち上がった青年を見上げ、白玉は不思議そうに尋ねる。
「女装する!!」
「……えー??」
意味不明な言葉を残し、虎丸は部屋から走り去っていったのだった。




