十五 或る作家の死が、すべてのはじまりだった
「廃病院……?」
八雲に連れてこられたのは、薄鼠色に塗られた木造の廃屋だった。
一見西洋式だが、壁のペンキや瓦屋根、突き出した塔屋が和洋折衷で、いかにも明治初期に建てられた擬様式建築といった風だ。
「はい、私が死んだ病院です」
「入水した場所は伏せられてましたけど、故郷の金沢やったんですね。あのとき、オレは中学生でした。毎朝新聞が届いたら必死にチェックしてましたよ。何日も意識不明で、記事が少しずつ小さくなって……。最期の報道があった日は、茫然としたのを憶えてます」
「上京して最初の冬に帰郷したのです。こちらは東京より水が綺麗なので、湖面を眺めていたらつい」
「つい……」
壊れた入り口から中にはいると、廊下の窓が割れているせいで室内は雨風に晒されていた。
黒鉄の錆びたベッドが並び、かつては真っ白だったのであろう汚れたシーツは床にずり下がっている。
荒れている分、高等学校よりはるかに不気味だというのに嫌な感じはしない。
アンナ・カレヱニナも八雲に抱かれ、安らかに眠っている。何かあればアンナが反応するはずなので、厄介な物の怪や亡霊などはいなさそうである。
「いや、でも、油断したらあかん。また騙されて怪異と闘うパタァンかも」
「おやおや、すっかり人間不信ですね。私の中の問題児がすみません。代わりに謝っておきます」
「変な謝り方やな……」
「あなたを連れてきたのは、闘わせる目的ではないので安心してください。ともに、見届けてほしいのです。この場所に残された感情を。あまりひとりで見たいものではなくて、生き返ってから一度も故郷には帰っていませんでした」
飼い主に頭を撫でられ、アンナが目を覚ます。
「私は十里君のような映像喚起の能力は持ち合わせていませんので、アンナに手伝ってもらって記憶の断片を描写します」
寝起きのタヌキはつぶらな目を半分閉じてしばらくぼうっとしていたが、八雲が書き始めた文字に反応し、床にひょいと飛び降りた。
──狸さん狸さん、火をひとつ貸せんせ、この山越えてあの谷越えて。火はここに、こっちこっち。
可愛らしいわらべ唄が虚空に綴られる。唄に呼応したアンナ・カレヱニナは、暗い廃病院の廊下で鳴き声をあげた。
花嫁の記憶が流れ込んできたときのように、かつてこの病院で起こった感情の渦のようなものが目に、耳に、頭に入り込んでくる。
「五年前、私が──伊志川化鳥が死んだのは、明治時代が終わりを迎える少し前。後に語り継がれるほど寒さの厳しかった冬のことでした」
***
老朽化した病院の廊下を、男が走っていた。
「……姉上!!」
軋む扉を乱暴に開ける。建物内で一番広い病室の中央に置かれた椅子には、髪の長い女性がぽつんと腰かけている。
「藍? わざわざ戦地から帰ってきたのですか」
顔をあげたのは九社花家女当主、阿比だ。まっすぐに伸びた背筋と隙のない洋装、そして現在と違った長い髪。薄化粧だと、目鼻立ちが息子と少し似ているのがわかる。
「構やしませんよ。亜細亜人の傭兵がひとり消えたところで、誰も気に留めません」
「日露戦争では、あれほどの勲章を得ていたのに」
「俺はもう帝国の軍人じゃないんでね。欧州と露西亜がざわついてるんで、大戦に発展する前に帰国して出家でもしてやろうかと思っていたところですよ。そんなことより、あいつは?」
細い指が静かに、空いたベッドを指す。
「何日も昏睡状態でしたが──。今朝、息を引き取りました」
藍は片手で自身の顔を覆い、深く息を吐くと声を荒げた。
「はあ、まったく、あんなに化鳥を跡継ぎにしろだの騒いでた親族は誰も来てねえし。あいつの日頃の行いもそりゃ悪かったけどな、すげー悪かったけど!」
「遺体は安置室に移動していますわ。顔を見る? 原死因は低体温での凍死だから、傷ひとつなくてとても綺麗なのよ」
そう言って立ち上がった姉を、藍は後ろから支えた。長い間座っていたらしく、服装は整っているが足元がふらついている。
阿比の肩を抱く恰好で病室を出ると、喪服を着た見知らぬ子供が待ち構えるようにして廊下の真ん中に立っていた。
まだ、尋常小学校も卒業していないくらいの年頃だ。
「なんだ、ガキ。二階はうちの貸し切りだ。関係者以外立ち入り禁止だぞ」
「この男の子……。最期の数日間、ずっとあの子についていてくれたの。知り合いではなかったようだけど、何故かしら。わたくしにはわからなかったあの子のことを、理解していたふうにも見えたわ」
「繃帯まみれですけど、入院中の患者ですかね?」
「例の事故の生存者ですわ。今日は葬儀だったのね。この幼い子は家族を失い、ただひとり遺された。わたくしの息子は自ら命を絶ったというのに」
「例の事故……。ああ、親族が後始末でばたばたしている件ですか」
若き人気作家の自殺という話題性の陰にすっかり隠れていたが──伊志川化鳥の入水とちょうど同じ時期に、或る鉄道事故が起こった。
機関車が線路から脱線し、旅行中の家族を乗せた馬車と衝突した。無人の貨物車だったため犠牲者は馬車に乗った三名のみと少なかったのも、すぐに忘れ去られた原因だ。
事故を起こした鉄道会社に出資していたのが九社花財閥だった。責任の一端を担い、治療費と葬儀を受け持ったのた。
「両親と十六歳の姉、十二歳の弟。遠方から高名な医師を呼び寄せて……下の子だけが一命を取りとめたの。ねえ、わたくしはよけいなことをしたかしら。もし貴方が、わたくしの息子のように、いつか苦しさで死を望んだとしたら……どうすればいいのかしら。ねえ、生き残って、本当に幸せだった?」
姉の危うい言葉を、藍は苦々しい気分で聞いていた。
──だが、信じられないことに、その子供は笑っていた。
「はい、ありがとうございます。ぼくは本当に幸福です。だって、ぼくが残ったことで、家族を蘇らせることができるんですから」
無垢な笑みに薄ら寒さを感じて、藍は阿比の腕を少し乱暴に掴み、この場から去ろうとした。
「錯乱してるな。後遺症か? 姉上、もう行きましょう」
すると、少年は床に両手をつけ、藍たちの背中に向かって號んだ。
「お願いします。なんでもします」
悲痛な叫びが、廊下中に響き渡る。
「あなたのためになんでもしますから、お願いです。家族を生き返らせるための援助をしてください。両親と姉に、もう一度会いたいんです。ぼくにはなにもないけれど、もう一度家族に会えるなら、ぼくの人生の残りすべてをあなたに差し出してもかまわない」
阿比は立ち止まり、少年のほうに数歩戻った。自らも膝を折って、その顔を上げさせた。
「──貴方の話に乗れば、わたくしの息子も生き返るのかしら。生きている間は、一度も愛さなかった子だけれど」
後ろから肩をつかみ、藍は慌てて姉を止める。
「姉上! 子供相手とはいえ、おかしな話に首をつっこまないでください。化鳥は死んだんですよ。もう、あいつのことはそっとしといてやれませんか」
「あらまあ、自己満足の罪滅ぼしとでも言いたいの、藍。わたくしは何日も、あの子が死にゆくのを眺めていたの。即死より、ずっとつらかったわ。ねえ、話を聞かせてちょうだいな」
少年は涙に濡れた瞳を輝かせて、藍には理解できない話を続けた。
「あなたは、すごいお家のひとなんでしょう。ぼくに支援していただけませんか。図々しいのはわかっています。でも、ぼくは、家族を生き返らせたいんです。あの力……『幻想写本』さえ、手に入れることができるなら……」
或る死、或る禁忌、或る願い──。
憎しみによって引き起こされた或る作家の自死から、すべては始まった。




