十三 己でさへ、被驗體(ひけんたい)として
夜の物理化学教室にカリカリと奇妙な物音が響く。何者かが、廊下側から戸を引っ掻いている音だ。
「ひぇっ!?」
実験室という表札のかかった教室に身を潜めていた虎丸は、怯えて後ずさった。なにしろ、どざえもんの亡霊に追いかけられている真っ最中なのである。
しかし、よくよく耳を澄ませてみると、かすかに聞き覚えのある鳴き声が漏れている。
「ヴゥー」
「あれ、この声。もしかして……」
そっと戸を引くと、板張りの廊下にちょこんと座っていたのはタヌキのアンナ・カレヱニナであった。
堂々と校内に連れ込むわけにはいかず、汽車に乗ったときのように革の鞄に入ってもらっていたのだ。コートと一緒に講堂に置いてきたはずが、脱出して虎丸の後を追ってきたらしい。
「アンナ!! は~、地獄にタヌキや……」
怪談の類が大嫌いな虎丸は、夜の学校をひとりで逃げ回るのが心細くてしかたなかったのである。
話ができるわけではないが、獣のあたたかな毛を撫でているだけで少しほっとする。
「ヴゥ!」
「え? 放っとくなって? あとでちゃんと迎えに行くつもりやってん」
「ヴゥ?」
「ほんま、ほんま」
「ヴゥ~……」
「なぁ、アンナ。今めっちゃ会話しとる風やけど、じつはぜんぶ適当やねん。だってなんか喋らな静かすぎて怖いし~」
「ヴゥ!!」
「なんやぁ、怒らんといて。え、なに? ちゃう? うしろ……?」
つぶらな瞳が凝視している先を恐る恐る窺うと、お約束のようにずぶ濡れの花嫁が立っていた。
「うぎゃー!! 見つかった!!」
「ヴゥ!」
結構な大声で騒いでいたのだから、当然といえば当然だ。
アンナを抱きかかえ、虎丸はふたたび逃げ出した。
「は、はぁ、行き止まり……」
建物自体はかなり広いが、廊下を一直線に走っていてはすぐ突き当たってしまう。これ以上逃げ場所はない。
苦しまぎれに窓を開け、ふたたび外に出た。物理化学教室と本校舎の間にある中庭だ。
建物の中と外を行ったり来たりしても、結局堂々巡りだ。逃げ回っていてはいつか体力が尽きるだけである。
「くそ、どないしたら……」
亡霊はすぐそこまで迫っている。男子校らしく、美しくも清涼に整えられた庭でじわじわと追い詰められる。
残った片腕がふたたび虎丸の喉元に伸びてきた。
先ほど聞いた化鳥の台詞が、頭をめぐる。
『所詮は死人。自分の命とどちらか大事か考えろ』
仕組んだ張本人とはいえ、化鳥が言っていることはおそらく正しい。
成し遂げたいことはたくさんある。早く一人前の編集者になりたい。自分で見出した新人作家を世に送り出して有名にしたい。いつか出版社を立ち上げたい。虎丸だってこんなところで死にたくはないのだ。
しかし、憐れな亡霊を前にすると意志が固まらない。
「はぁ。モテんのも結構つらいな……」
気持ちを決められないまま、目を閉じた。
首に花嫁の手がかかる。しかたなく覚悟を決め、刀の柄を握った。
相手の動きは鈍かったが、決心が遅すぎた。間に合わないかもしれない非常に微妙なタイミングだ。どこかで化鳥が見ているとしたら、鼻で笑うことだろう。
それでもどうにか、刃を抜こうとした瞬間──。
アンナ・カレヱニナの鳴き声が双方の攻撃を阻んだ。
「ヴゥ!!」
「えっ……? アンナ!?」
獣の威嚇に、亡霊は意外なほど怯んだ。
この世のものならざる雄叫びをあげ、膝を折って崩れる。
同時に、彼女の記憶が垣間見えた。
「またや、感情が頭に流れ込んでくる。悲しい……、ごめんなさい、何が正しかったかわからない、間違えたかもしれない……」
さっきまでは、悲しさしかわからなかった。そこに含まれる本当の想いまでは知り得なかった。
──棄教すれば男ともども助かるというのに。
──なんて情の薄い女だ。
──これだから、基督信徒など。国を脅かす野蛮人どもめ。
『悲哀』の感情。
ただ、結婚式を挙げられなかったことが悲しいのだと思っていた。
どれほどの拷問を受けても信仰を棄てなかった。
たとえ目の前で恋人を殺されても。
だが、彼女も迷っていた。信心を遵守した結果、幸せに死ねたわけではなかった。
後悔と謝罪の入り混じった、自責の『悲哀』だ。
「ああ、そうか。ここも化鳥の嘘や。最初から、オレじゃあかんかったんや。オレを道連れにしても、満足なんかできるわけないよな。よけいなことして刺激しただけで……。しかも、結果は変えてやれんけど」
薄い絹を伝ってぽたぽたと落ちる水滴。
黒い空洞となった瞳が、こちらを見つめている。
悲しみとともに押し寄せてきた『恋慕』の感情は、虎丸のほうを向いていなかった。
こんな姿になっても、花嫁が求めているのは彼女の恋人だけだ。虎丸を殺したところで、悲しみは永久に癒えない。ずっと彷徨い続けるのだろう。
「他のやり方知らへんねん。ごめんな、斬るわ」
作家たちであれば、もっと違う方法を知っていたのかもしれない。
だが、今の虎丸が持っているのは刀と『有涯』の文字だけだった。
『有限』を与え、『無限』を終わらせる言葉。
──名は?
──マリア。
──洗礼名は棄てろ。名は?
──わたしはマリア。イエズス様に祈りを。
「今は大正。多少は自由な時代やで。マリア」
夕闇の学び舎に、銀色の閃光が走る。
刃が鞘に収まる音がキンと響いたとき、花嫁は消えていた。
濡れて丸い染みのできた地面には、古びた聖書がぽつんと落ちていた。
「アンナ、おまえ、たぶん助けてくれたんよな。オレがいつまでも迷っとったから」
柔らかい獣を抱きあげて、不自然に黒い夜空を見上げた。
***
「は~~、凹むぅ」
「貴様は色んなモノに好かれて、引き寄せて、何時でも楽しさうよな」
声の主は、二階建てである本校舎の屋根にいた。
きつい傾斜の途中に座って足を組み、仄赤い月を背に虎丸を見下ろしている。
結構距離が離れているというのに、作られた空間にいるからか声は奇妙に耳元で響いた。
「楽しないわ! 化鳥、ようそんな高いところに上れたな。もしかして八雲さんと違って、身体能力まで高いんか?」
「そんなわけが無いだらう。體は同じだぞ。運動は生れつき壊滅的に不得手だ。自力では降りられさうもない。ハハッ」
「なんとかと煙は高い所が好きってやつかな……」
「ハ、其れにしても、だ」
ため息をつきたいのは虎丸のほうなのだが、何故か先手でやれやれと息を吐かれてしまった。たった今まで高笑いしていたというのに、忙しい男だ。
「既の所で助かるとは。まつたく、狸は誤算だつた。早速と鍋にして食つておけば善かつた」
「アンナ、普通のタヌキとちゃうん?」
「只の狸だ。だが獣は言葉を持たぬ分、怪異との境目が薄い。狐狸貉の類ならば尚更だ。然もそいつは千年もの。人でさへ物の怪と近しかつた時代に生れた獣だからな。化かすくらゐ朝飯前だ」
花嫁の記憶を見せてくれたのは、やはりアンナだったのだ。
顎下をさすると、肩に乗ったタヌキは心地よさそうにつぶらな瞳を細めた。
「故に失敗した。感情の回収すら出來ないとは」
手のひらに光る白い『憎悪』の文字。
酷い責め苦を受けたはずの花嫁に、憎しみの感情は混じっていなかった。
ますます不機嫌に、化鳥はぼやく。
「そも、詰らんのは貴様の所為だぞ。あの亡霊のやうに自責の念を抱へてさぞ苦しむだらうと思つたのに。貴様ら心配性の世話燒きには、其れが一番つらいのだらう? だのに、道理に合つた動機を得て斬られても面白くはない。嗚呼、詰らない。詰らないぞ」
迷い、答えのない選択、自責──。
すべては彼女と同じ感情を追体験させようとした、化鳥の罠だ。
虎丸もこれには少々カチンとくる。向かいの屋根を見あげ、言い返した。
「化鳥、おまえは一体全体、何がしたいねん! くそぅ、偽善でもなんでも、こうなったら意地でも貫きたくなるわ。全部思い通りにさせてたまるかい!」
「ハッ、仲間から引き離して、襤褸を出させてやらうと金沢下りまで連れ回したが、徒労だつたやうだ」
化鳥はすっとその場に立ち上がった。
「気まぐれで連れてきたわけとちゃうんかい! 最初っからオレ狙い……?」
「叔父貴は何れだけ玩具にしても、最期まで俺を見棄てなくて詰らなかつた。貴様は如何だ?」
傾斜を上り、三角屋根の一番高いところに移動する。
「何する気──」
「體が粉々に壊れれば、魂が散つてもう二度と呼び戻せなくなる。誰かを守る事が貴様を立たせてゐる土台のやうだ。では、救へなかつた時は如何する? 大事なものが目の前で失はれたとして、其れでも強く居られるか?」
両手を広げ、激情の作家はそのまま後ろに倒れた。
「うそやろ……。化────八雲さん!!」




