十一 化鳥の人體實驗(じんたいじつけん)・其の弐
夕闇に沈む夜の学び舎。
板張りの廊下は、走るたびに軋んだ音を立てる。
「だ、だまされた……。あんの、クソガキ天才作家ーー!!」
虎丸は悪態をつきながらも走っていた。
何故このような事態になったのか。
誰よりもそう聞きたいのは、虎丸自身である。
背後に迫る白いドレス。
執拗に追いかけてくる亡霊。
それはそれは美しい──花嫁だった。
***
伊志川化鳥の母校・第四高等学校。
虎丸と化鳥のふたりは、亡霊が現れるという件の講堂に忍び込んでいた。
天井から吊り下がった電球は消灯しており、縦長い西洋風の窓に薄暗い夕刻の空が映っている。
内部もやはり教会によく似た作りだ。座席が左右に分かれて何列も並ぶ。正面奥の講演台に続く通路は空と同じ朱色に染まり、さながらヴァージン・ロードのようだった。
亡霊が出ると事前に聞いていたせいか、実際に不穏な気配が漂っているのか。
どちらかはわからないが、空気の冷たさと重さに虎丸はぶるっと身震いをした。
「こわぁ……。放課後の学校ってただでさえ不気味やのに。何が出るっちゅうねん……」
「居たぞ、亡霊だ」
「へっ!? まだ心の準備できてへん!!」
亡霊は何の前置きもなく、あっさりと姿を現した。
床より一段高くなった講演台に白い影が揺れる。
虎丸にはぼんやりとした煙のようなものしか確認できないが、操觚者である化鳥はもっと鮮明にその姿が見えているはずだ。
「ハハッ、本当に出るのか。可笑しいな、嗤へる」
「そんな爆笑すること!?」
何故か化鳥は高く笑っている。
なんといっても顔が八雲なので、この感情過多にはなかなか慣れそうもない。
「どれ、形容化して遣るか。名は知らんが、装ひで概ね予想はついた。此の言葉で十分だらう」
十里と拓海が不審げに話していたように、化鳥はやたらと文字の力に詳しい。
性格が変わっただけで八雲そのものなのだとしたら理屈は通るが、本人が八雲を別人のように扱うのが不思議ではある。
と、考えている間に化鳥がペンで文字を書き出した。
吉利志丹
姿を与えられ、浮き上がる亡霊。
現れたのは化鳥と似ても似つかぬ洋装の女人。
実際に見るのは初めてだが、その衣装が西洋で何を意味するのか虎丸も知識として知っている。
レースをあしらった白いドレスに、頭から被ったヴェール。
──基督教の花嫁である。
「おお、すごい別嬪っぽい。異人さんかな?」
ヴェール越しではっきりと顔はわからないが、特別な衣装も相まって大層美しい亡霊だ。
「よく見ろ、日本人だ。禁教令廃止以前の信徒──いはゆる『隠れ吉利支丹』と云ふやつだな。明治初期、流刑地として金沢にも数千人の信徒が送られてきた。此の亡霊も当時の迫害で殺されたのだらう。戀人と婚姻の予定でもあつたのか、未練の感情が花嫁の姿をした残留思念と成つて彷徨つてゐるんだ」
「ほーん、お気の毒に……。洋風お歯黒べったりやな。で、この人は化鳥とどないな関係があんのん?」
化鳥の亡霊がいるという噂を確認するため、虎丸はここまで連れてこられたのである。
が、連行した張本人はしれっとした態度で言った。
「何の関係も無いぞ。其のへんの知らない亡霊だ。地元ではなんでもかんでも俺の祟りにされるだけだ」
「日頃の行い悪すぎん? って、無関係なこと最初からわかってたんかい!」
「当然だらう。何故なら俺は此処にゐる。 関係があるとすれば、俺にゆかりのある場所は挙つて祟られてゐると噂が流れ、人々の畏怖の感情に物の怪や亡霊が引き寄せられるやうに成つてしまつたことか」
「すごい、死んだあとも間接的に実害もたらしとる」
本当に、歩くトラブルメーカーみたいな男だ。
虎丸が若干呆れているのにも構わず、今度は殊勝なことを言い出した。
「残留思念がふよふよと彷徨つてゐては、生徒たちの學業に支障をきたすだらう。偶々見つけたのも何かの縁。成仏させてやるか。貴様、彼れと赤い絨毯を歩いて來い」
「オレ!?」
生徒たちの支障を気にする男とは思えないうえ、たまたまと言い切るには疑問が残る。
しかし、気の毒な亡霊を成仏させられるなら協力してやりたいとは思う。
悩んでいる虎丸そっちのけで、化鳥がふたたび虚空にペンを走らせた。
講堂の風景がぱっと明るくなる。講演台はキリスト像の十字架が立つ祭壇に。夕焼けの通路は真紅のヴァージン・ロードに。
化鳥による情景描写で、本物の聖堂へと変貌していく。
「風でいい。此の亡霊は式を挙げたかつたんだ。叶へてやれ」
十字架を背景にした、西洋風の花嫁をちらりと見やる。
「うーん……。オレには心に決めたマイエンゼルがおるし、フリでも結婚式はちょっと抵抗が……」
「粗野な赤髪の娘か? 貴様、女の趣味が悪いな。もつと従順なのがゐるだらう。まあ男女関係なぞ、蓼食ふ虫も好きずきだ。どうでも好いが」
「今の、八雲さんの顔で本人に言うたら怒るで? てか、美男子の化鳥のほうが女の人は嬉しいんとちゃう? チッ」
「舌打ちをするな。貴様のはうが適任だ」
「それってつまり、オレのほうが女子にモテそ──」
「洋装だからな」
「びっくりするくらい大雑把な理由やった」
抵抗はあったが、悲しそうな瞳の花嫁を見ていると憐れでしかたがない。
生きている虎丸と違って、この吉利支丹の亡霊はもう二度と想い人と結ばれることはないのだ。
「わかった、やってみるわ。基督教の結婚式って、どないしたらええの?」
「其れなりに雰囲気が整つてゐればいいだらう。入り口から祭壇まで、花嫁と腕を組んで歩くだけだ」
中折帽とインバネスコートを脱ぎ、やや緊張した面持ちで入り口に立つ。
少し折り曲げた肘を差し出すと、亡霊の花嫁は潤んだ瞳を虎丸に向けた。
──あ、やっぱり綺麗な人や。日本人も意外とドレス似合うんやな。
でもいつか自分が挙げるんやったら、祝言は白無垢で……。
ってこの人にとっては大事な儀式なんやし、集中せな失礼か。
花嫁が虎丸の腕を取り、並んでゆっくりと真紅の通路を歩む。
いつの間にかパイプオルガンの音色まで聴こえている。化鳥が楽譜を浮かべ、文字の力で音楽を奏でていた。妙に楽しそうで気になるが、そういう男なのでとりあえず置いておく。
神父がいないので挨拶や祈りは省略だ。
祭壇の前で白いヴェールをそっとあげると、美しい花嫁は心から嬉しそうに微笑んだ。
ここで、化鳥のストップが入る。
「よし、好いぞ。まあまあの絵図だつた」
「画報ちゃうねんで。これで終わり?」
「さうだ。花嫁もさぞかし満足したことだらう」
たしかに亡霊は満ち足りた表情をしているが、少々拍子抜けである。
「思ったより簡単やったな。武術で闘う必要もなかったし」
「そら、刀だ」
「え?」
続けて化鳥が虚空に書いたのは、虎丸にとって懐かしい文字列だった。
鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼鋼皮紐朴皮紐
インクで綴られた筆跡が、鋭利な刃を持つ打刀へと姿を変える。
「あ、初めて八雲さんを手伝ったときと同じ文字や。こっちのほうがめちゃくちゃ出来いいけど」
「そら、踏ん張れ。來るぞ」
「来るって、なにが……」
嫌な予感がひしひしと背筋を伝った。
恐る恐る、目の前の花嫁に視線を戻す。
「ぎゃ、ぎゃああああああああああ!!」
美しい女の面影はすでにない。
そこにいたのはドレスを着た──いわゆる、どざえもんであった。
「状態を見るに、此の女の死因は水責めだつたやうだ。顔に休みなく水をかけられ、最後は箱に詰めて溺死させられる。嗚呼、氣の毒なことよな。だが、願つてゐた婚礼は無事に終はつた。あとは新郎の貴様を道連れにすれば成仏出來る。めでたしめでたしだ。モテて良かつたな、色男め」
化鳥は素晴らしい笑顔である。
だまされた──。
虎丸が気づいたときにはすでに遅く、亡霊からの逃亡劇が幕を開けたのであった。




