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狂人ダイアリー ~大正浪漫幻想活劇~  作者: アザミユメコ@書籍発売中
第十幕【感情仕掛けの生き人形】
75/143

六 甘くなく、美しくもない、黒く濁った願望

 早熟の怪物。苛烈なる天才。

 数多の称賛を浴びながらも、すでに過去となったはずの亡霊。


 激情の作家はゆっくりと虚空に弧を描き、文字を綴った。



 Nitroglyzerin



 浮かび上がったそれは、意外なことに外国語だった。

 文字列は変形し、生卵の白身のような透明の液体がとろりと空中に流れ落ちる。

 中学だか高校の授業で習ったような気もするが、はてなんだったかと虎丸が首をかしげていると──。



「ニトログリセリン。爆薬だ……!」



 隣で拓海が声をあげた。そして、



 爆轟(ばくごう)



 八雲が続いてしたため始めたのは、どう読んでも不穏すぎる文字である。



「うおーい!! ちょいと待ったー!!」



 急いで駆け寄り、綴り終わる前になんとかその左手を掴む。

 途中で止められた文字は、冬の冷たい空気に溶け込むようにしてすっと消えた。


「ちょ、八雲さん、何回死んだら気ィ済むんですか! 入水の次は自爆とか、シャレならんわ! 自殺大好きか!」


 男にしては細い手首を握りしめたまま必死の形相で訴えても、八雲はうつむいたまま黙っている。虎丸の言葉を理解しているのかさえ不明だった。


「笑ってる……? うーん、遊んでるのか、本気なのかいまいちわかんないなぁ。遊びで爆発されても困るけれどねぇ」


 顔を覗き込みながら、十里(じゅうり)が困惑の声を漏らす。

 拓海だけは想定内といった態度で落ち着いており、袂から青く透けたガラスペンを取り出した。


伊志川(いしかわ)化鳥(かちょう)なら、俺たちを試している可能性もあります。そういう人ですから。どんな行動をとるか確認できましたし、危険なのでそろそろ眠らせましょうか?」

「ぜひそうしよう!」


 『ヂエチルエヰテル』と呪文のような麻酔薬の名を付与され、八雲は足から崩れた。

 手首を掴んでいた虎丸が慌てて体全体を支える。


「拓海、便利な字ィ使えるやん! 暴れだした最初っからやらんかい!」

「麻酔は最終手段だ。体に負担がかかる。拒否反応時の挙動はずっと気になっていたんだ。今回は長かったから様子を見たかった。それより、八雲先輩を連れてすぐ離れろ」


 操觚者(そうこしゃ)が倒れたあとも、テニスコートの真ん中にはふよふよと浮いた液体がまだ残っていた。


「絶対に触れるなよ、ニトログリセリンは衝撃ですぐに爆発する。この気温なら冷えるとさらに危ない」

「こわ!! 消されへんの?」

「他人の形容化した文字を無条件で消せるのは、うちじゃ(コウ)さんだけだ」

「そういや、真っ先に走っていった紅ちゃんはどこへ行ったんや……」

「とにかく原液を放置するのは危険すぎるから俺が処理する。硝酸繊維素と合成してゲル化したあと密閉すれば問題ない」


 拓海は文字の力で、爆薬を黙々と処理し始めた。


「なんのこっちゃまっっったくわからへんけど、拓様はほんまにお利口やのう……」


 普段であれば嫉妬していた幼馴染の優秀さも、いざという場面では頼りになるというものだ。

 虎丸は意識を失っている八雲を背負って、さあどうしようと十里に尋ねた。


「いつもやったら地下なんでしょうけど、白玉はおらへんって茜が言うてましたよ」

「彼が留守だなんて、(あるじ)の用事かなぁ。じゃあ離れに連れて行こっか。でも部長の部屋って布団ないんだよね。奥に(あい)ちゃんの部屋もあるけど一組しか置いてないだろうし。僕、本館から取ってくるよ」


 テニスコートで後始末をしている拓海、本館に行った十里と別れ、虎丸は離れの和室に向かった。



 ***



 八雲は座って寝るのが習慣のため、自室に布団はない。とりあえず頭の下に座布団を敷き、畳に降ろした。

 相当な人騒がせだったというのに当人は何事もなかったように眠っている。


「はー、まったく。なんやったんやろ。ひと目見て伊志川化鳥やって思ってんけどなあ。よう考えたら、それってつまり八雲さんなんよなー」


 おみつが倒れたときにも、錯乱して生前の記憶が混じったうわ言を呟いていた。

 あれと同じだろうかとぼんやり考えていると──。

 

 障子の向こうで、小さく物音が鳴った。


 人の気配だ。

 離れの小さな庭は生け垣で囲われている。外側ではなく、内側に誰かがいる。一定の感覚で響く鹿威(ししおど)しの軽やか音色に、異質の音が混ざっている。

 誰かのひそやかな話し声、つまり最低でも二人。


 そうっと障子に近づき、隙間を覗いた。



 立っていたのは、闇に溶ける鮮やかな赤髪の後ろ姿。



「くそ……やっぱり嫌いだよ、オマエらなんて」

 

「紅ちゃん? こんなとこおったん?」



 声をかけると、華奢な肩がびくっと震えた。

 さっき廊下でおみつとじゃれていたときと変わらず、浴衣に長い髪をおろした姿だ。湯上がりの恰好はいつ見ても胸が高まるが、どきどきしている場合ではない。


 会話が聞こえたので複数いるかと思えば、他に人影は見当たらなかった。

 

「虎丸……。いつから離れにいた?」


 振り返った紅から漏れたのは、驚愕を隠すような乾いた声だった。


「今入ってきたとこやで。八雲さん寝とるし物音立てへんようにしとったから、驚かせてごめん。てか、ほかに誰かおった?」

「いなかった」

「そかー。紅ちゃん場所も聞かずに真っ先に走っていって、さては何も考えてへんかったんやろ~。おっちょこちょいやなぁ」

「まーな……」

「でも、紅ちゃんが見てたら卒倒しそうやし、来んでよかったわ。めっちゃ大変やってん」

「知ってる。もう聞いた」


 乾かすのに手間がかかりそうな長さの髪は、まだ毛先が濡れている。冬の夜に出歩くにしてはあまりに薄着だ。

 ちょうどよくショールを巻いていたので、背後から紅の肩にかけた。


「紳士やなー、オレ。これぜったい好感度上がるやつやん。間違いなくとてたまなはず。あ、声に出とった」


 思わず漏れた自画自賛に鋭いつっこみが飛んでくるかと思ったが、紅は黙って池の水面を見下ろしている。

 

「部屋に入らな、風邪ひくで?」

「……なあ。何が一番部長のためになるんだ?」

「へ?」


 紅は障子の奥で眠っている八雲にちらりと目をやって、また池に視線を戻した。

 

「あの人が死にたいっていったら希望どおり死なせることか? 止めたら自分の願望を押しつけてるんじゃないかって、守りたいのにぶれそうになる」


 ついさっき目の前で自爆されそうになった身としては、紅の気持ちが痛いほどわかる。

 虎丸は『止める』の一択しかないが、大阪から東京に戻ってきてからずっと八雲本人に聞きたかったことも、その問いかけに近いものだった。


 紅があまりに思いつめているように見えたので、場をなごませようと口にした言葉は──。


 見事に、間違えてしまった。



「余計なお世話かもしれへんけど、好きになるならもうちょい報われるような、幸せにしてくれそうな相手を選べばええのに。そう、例えばオレ──」


「オマエは一度あの人を見捨てて帰っちまったくせに、勝手なこというな!!」



 鋭い叫びが突き刺さる。

 振り向いて虎丸を睨みつけた瞳は、涙など零しはしないがどう見たって泣いていた。



「報われなくてもいい。幸せになんかなれなくてもいいから! 他の仲間が全員いなくなったとしても、自分だけは見捨てたくない。ひとりにしたくない。一方的な願いだとしても、生きたいと思ってほしい。あの人と、あの人の望みを必ず守るって約束したから!」



 この娘に、こんなに余裕がなくて、これほど必死な表情をさせられるのは八雲だけだ。


 あきらかに場違いな感情なのだろう。

 だが──『あの人』が、うらやましいと思ってしまった。


 おみつに話したように、虎丸は身を焦がすほどの恋心をまだ経験していなかった。

 今まで紅に対して感じていたものは、おそらく同情に近かったのだ。八雲とのことだって、むしろ報われてほしいとさえ思っていたのに。

 今は自分の感情を抑えるなんて、物分かりのいい綺麗事を言ったものだ。



──うーん、これは、黒い。黒い感情や。

 黒く濁った独りよがりの願望。焦げそうな独占欲。嫉妬。


 これが、恋かぁ。



 皮肉なことに、自分の恋を把握したことで初めて──。

 紅の抱える八雲への気持ちがどれほど重いか、理解できたのだった。


 今日は多くのことがありすぎた。

 女主人との遠乗り、裏切り者と予言の話、伊志川化鳥の出現。


 そして、さらっと流したものの紅の挙動はどう考えてもおかしい。思いつめすぎて変な方向へ流れなければいいが、と心配になる。



「あー、アタマ爆発しそう。いや、爆轟(ばくごう)しそう……」



 己の欲する(まま)に、目の前の崩れ落ちそうな娘を抱きしめたくなるのを抑えて。

 満天の星を見上げ、青年はふうっと白い息を吐いた。

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