五 星降る夜、激情の作家は現れた
「大変なの、八雲さんが倒れちゃって」
茜は膝に手を置いてかがみ、息を切らしていた。虎丸たちに伝えるため二階まで走ってきたらしい。
「……!!」
ピリッとした殺気のような緊張が洋館の長い廊下を走る。
次の瞬間、紅が駆け出していた。
「あっ、紅ちゃん、場所──行っちゃった」
「すごい剣幕やったな……」
まるで猫か猛禽類みたいな瞬発力だ。
しかし、怯えた表情だった。
「八雲さんのことになると周りが見えなくなるから。最近、とくに神経質なのね。敵が動き出してからよ」
遠くなっていく乱暴な足音に耳を澄ませながら、心配そうな面持ちで茜は言った。
「倒れたって、もしかしてこないだと同じ?」
「ええ、拒否反応だと思う。先に地下へ行ったんだけど、白玉が留守で……。でも、いつもより時間が長いし、ときどきなにか喋ってるみたい」
「喋っとる……?」
仲間たちが拒否反応と呼ぶ症状。
虎丸が見たのは銀座へ出かけた帰りの一度きりだ。
あのときの八雲は正気を失っていて、目の前にいた紅の首を両手で絞め上げた。明確に危害を加えようとしていたのか、ただ錯乱して本人も意識していない行動だったのかはわからない。
翌日、八雲自身は何も憶えていなかった。
「場所は? そこに誰かおる?」
「庭よ。芝生の、ウッドデッキがある辺り。十里さんと拓海さんがいるはず」
「ほな、オレも様子見てくるわ」
ふたりたちはどうする、と虎丸が尋ねる。
「あたしは待ってるわ。見世物じゃないんだし、大人数でぞろぞろ行ったって邪魔になるもの」
おみつは八雲と同じ人形で作られた仮初めの体だ。なんとなくだが、見たくないのだろうと察した。
それなら茜も一緒に残ると言うので、虎丸は単独で庭へ向かうことにした。
「もし、また前みたいに、八雲さんが誰かを傷つけそうになったら……。虎丸さんが止めてくれる?」
「うん、わかっとる」
不安げな茜の肩をぽんと叩いて、その場をあとにした。
***
「あれっ? アンナ?」
芝生のウッドデッキといえば、昼間に娘たちが庭球をしていたコート脇だ。
遊戯を鑑賞したり休憩のできるスペースとしてしつらえられ、天然木のテーブルセットが置かれている。
タヌキのアンナ・カレヱニナは昼間もコートで遊んでいたが、今は様子がおかしい。
夜闇に向かって唸り声をあげている。
「おーい、どないしてん」
「ヴゥ……」
アンナの威嚇は以前にも見た。最初は八雲が『狂人ダイアリイ』を形容化しようとしたとき。二度目は敵によって偽の『あかねさす』が形容化されたとき。
どちらも形容化された文字に対してだった。
タヌキの鋭い視線の先には三人の青年の姿があった。
街灯に似た明かりの下、ぼんやりとシルエットが浮かんでいる。
「あ、八雲さん発見! ジュリィさんと拓海も」
静まった夜のテニスコートに響き渡っているのは、聞き慣れた十里の声。
「よーしよしよしよし、八雲部長、落ち着いて〜。いいこだから! 乾牛酪あげるからさ〜。それとも塩漬肉がいい?」
「なんか、野良猫を手懐けるみたいなことになっとるな……」
うつむいて地面に膝をついた八雲と、後ろから羽交い締めにしている十里。拓海は文字の光で真っ暗な庭を照らしている。
心配していたほど深刻な状態ではなく、落ち着かせている最中のようだ。
虎丸が来たのに気づき、十里が顔をあげた。
「虎丸くん! 来てくれて助かったよ〜。抑えるの代わってくれる? いくら部長が貧弱でも、人って我を忘れると結構力強いんだよねぇ」
「ほいほい。八雲さーん、大丈夫ですか? オレらのことわかります?」
十里がやっていたのと同じように背後から両腕を差し入れて固定する。身構えていたほど八雲の体に力はこもっていない。先ほどまではたしかに暴れていたようだが、今は少し脱力していた。
疲れたのだろうか、そう思って様子を窺う。
するといきなり虎丸のほうを振り返って、耳元でなにかを囁いた。その顔は笑っているようにも見えたが、乱れた前髪が影となって表情は半分隠れている。
「……さま…………」
「ん? なんです?」
「貴様……何…………」
「いやぁ、聞き取れへん。あ、せや」
虎丸は深く考えて言ったわけではない。
ふとした思いつきだった。
「これ、離したらどうなるんやろ」
「えっ? 自由にさせたらってことかい? 前みたいに、仲間に危害を加える可能性があるんだよ」
前回のことがあるので十里は渋る。しかし、拓海は虎丸の提案に賛成した。
「……十里先輩。拒否反応のときはいつも抑え込んでいましたが、無意識だとしても八雲先輩は何かをしようとしていて暴れるのだとしたら? 攻撃対象や理由がわかるかもしれません。今は俺たちしかいませんし、いざとなったら虎丸が止めます」
「八雲さんくらいの腕力やったら、めいっぱい暴れても余裕ですわぁ」
十里は数秒考え込んでいたが、娘たちや手足に古傷のある白玉がいないならと渋々承諾した。
「そんじゃ、離しますよ~。せえのっと」
「あれれ。予想外に大人しいねぇ……」
虎丸の拘束から解けた八雲は、ふらっと立ち上がって遠くを凝視していた。
目線の向こう──山間の闇は深く、満天の星が降っている。
冷たい風になびいた青年の髪が、夜にまぎれて腰近くまで揺蕩っているように見えた。
肩より短いはずなのに、錯覚だろうかと虎丸が目を凝らしたそのとき。
突如、八雲が右手首を自身の爪で裂いた。
「うわー! 自傷はあかん!」
「待て。血を使っているだけだ」
手首から零れた鮮血が虚空に浮かぶ。
木漏れ日のような、柔らかくも妖しい光を放つ血文字。
左の人差し指で、夜空に赤い文字を綴っている。
──……
憎んでも、憎んでも憎み足りない
この身を焦がすほどに、この身を壊すほどに
俺を憎んでいる俺が、俺自身を殺すから、
「──人の命も義も放り出して、狂気に身を窶そう……」
「虎丸? 知っているのか」
「『狂人ダイアリイ』や」
「あの特殊な小説に、こんな意味の通る一文があったか?」
「ない。でも、そうや。あの小説の主人公の言葉や」
離れ屋の庭で初めて『形容化』を目にしたとき、流れ込んできた感情。
そして耳にした言葉だ。
八雲はゆっくりと虎丸たちのほうを振り返った。髪は幻覚だったようで短いままだが、威圧感、雰囲気、どこを取ってもいつもの八雲とはまったく違っている。
「……これは、なんだろう」
呆然と、しかし八雲から目を離せずに十里が声を漏らした。
「拒否反応って、人形の体と人間の魂を無理やりくっつけたから生じる不調だと白玉は言ってたよね? でも、これじゃまるで……別の人間だ。八雲部長じゃない」
黙って何かを考えていた拓海が、十里の独白に近い問いかけに答えた。
「拒否反応についてはわかりません。ですが、これは俺たちが目指している結末ですよ」
「……どういうことだい」
「新世界派の中では唯一、俺だけが実物と会って話をしたことがある人です。この空気、この威圧、絶対に間違えない。この人は──」
拓海が言わんとしていることを、虎丸も理解した。
激情の作家。
明治末期の文壇を狂風の如く翻弄し、絶頂のさなかで自ら命を絶った天才。
「伊志川化鳥や……」
名を呼ばれた美貌の作家は、妖しく笑って、
また、虚空に文字を綴り始めた。




