三 生と死の正当性
舗装されていない小径を、二頭の馬がゆっくりと駆けていた。
日の高い正午とはいえ、山深くに進めば気温は下がる。外套を羽織っていても肌寒いほどだ。どこからか川のせせらぎが聴こえている。
「はいほー……は、ちゃうな。はいしーどうどう、ソウニャ! ドウニャ!」
適当なかけ声をあげながら、虎丸は学校の体育科目で少し習っただけの馬をうまく乗りこなしていた。
馬術も武術も似たようなもの、という女主人の金言はあながち間違いでもないようだ。
もともと運動能力にだけは自信がある。とくに馬のような身体のバランス感覚を要するものは得意分野なのだ。
山の風景は美しく、慣れれば乗馬もなかなか楽しいものであった。
「ソウニャ、ドウニャ! 猫の鳴き声みたいで発音しにくいわぁ。にゃーにゃー」
二頭の馬の名は、文学者の間で近年話題の露西亜小説『罪と罰』に登場する人物の愛称らしい。
虎丸はまだ読んでいないが──たしか、自らの思想を証明するため人を殺した美貌の青年が、罪悪感に苛まれ次第に追い詰められていくという筋書きだったはずだ。
「まあ、どうせ拓海がつけた架空美女の名前やろ。あいつドストイェフスキイ好きよな」
ソウニャのほうに乗ったタカオ邸の女主人・阿比は少し前を走っている。
虎丸の独り言が聞こえていたらしく、振り返って質問を投げかけてきた。
「虎丸、貴方はあの作品の主人公が犯した罪についてどう思って? 殺人に正当性は成り立つのかしら?」
「うえ!? そ、そうですねぇ。ええと思います!!」
『カラマゾフ兄弟』と違って『罪と罰』はまだ日本語の完訳が出版されていない。露西亜語なぞ読めない虎丸は、まったく話についていけないのである。
ああ、勉強不足、とため息をつく。名編集者の道はかくも厳しい。
「では、その逆……死者の蘇生にも、正当性は成り立つかしら。自然でない生死が倫理に反するのだとしたら……不自然に生まれた者が死を選んでも、不自然に死んだ者を生き返らせたとしても、元の形に返すだけとは認められないのかしらね」
相次いで難解なテーマをぶん投げられ、だらだらと汗を流しながら相づちを打つしかない虎丸であった。
***
高く昇った陽が反射し、水面がきらめいている。透明に染まった魚影があちこちで小さな飛沫をあげていた。
「小川がありますよ。馬を休ませましょか?」
「あら、下流よりずっと水が綺麗なのね。近頃の帝都は人が増えたりで、なんやかんやと汚れてきているから。虎丸、わたくし、魚釣りがしたいですわ」
「道具とか、なんも持ってきてへんですよ?」
「どうにかしてちょうだいな」
さすがはお金持ちのマダム。
由緒のある九社花財閥の現当主ともなれば、生まれてこの方ずっと金持ちだったはずなのだ。蝶よ花よと育てられた深窓のご令嬢だったのに違いない。もはやわがままとも聞こえないくらい無茶振りが板についており、厭な気がしない。
「はいはーい、かしこまりましたっと」
そして、悲しいかな。
虎丸は母親にあごで使われることに慣れすぎて、婦人の言うことはほいほいと聞いてしまうのである。
いつも阿比にまとわりついている白玉であれば、どんな要求も文字の力でなんとかしてしまうのだろう。しかし、虎丸に超自然現象を起こす力はない。
「うーん、竿と針は短時間で作るの無理やなぁ。あ、つかみ捕りします?」
考えた末にダメもとで尋ねてみると、阿比は拒否こそしなかったがよくわからないといった顔をした。
「泳いでいる魚をですか? そう簡単につかめるものかしら」
「ええっと。まずこの袋をですね、良い感じの流れのとこに設置して、ほんで餌を探して……」
虎丸は馬にぶら下げていた大きな麻袋の中身をすべて出し、靴を脱いで川に入った。
石をいくつか移動させ、小さな溜め池を作る。これだけでは魚がするっと泳いで隙間から抜けてしまうので、麻袋を水中鯉のぼりのように泳がせて流れの出口を塞ぐ。最後に、土を掘って探したミミズを放り込む。
「ほんで、しばらく待つだけです。水の流れを完全に止めたら魚はなかなか入ってこーへんので、麻袋を使うところが重要ですねぇ。目で見るだけでもぎょうさんおるし、餌のにおいに釣られてかかると思いますよ」
狙いどおり、小魚が数匹まんまと溜め池に飛び込んできた。
「ほい、どうぞ!」
川の淵で手招きをすると、阿比はためらうことなく膝下まである乗馬用ブーツを履いたまま水に入った。
「なんて美しい魚。鱗が蛋白石みたいに輝いていて」
「オイカワですね。塩焼きが美味いんですわ、こいつ。つかめます?」
阿比が柔らかに揺れる水面に、手袋を外した両手を入れる。
手のひらに包まれた魚は光を反射して何色にも映った。
「この魚、今食べられるの?」
「火はルウペ持ってるんでたぶん起こせます。あ、でも塩がないか。んじゃ、みんなの分も捕って帰って、お昼ご飯にします?」
事もなげにそう言うと、阿比は少し呆気に取られたようだった。
「……貴方、皆が言っていたとおり、どんな環境でも適応して生きていけそうですわね」
「オレ、そんな野生児みたいな評価なんですか!? どっちかっていうたら、文系インテリジェンスのつもりやったんですけど」
「露西亜語は?」
「読めません!」
中学高校で必須だった独逸語すら怪しいのに、勘弁していただきたいという気分である。嗚呼、明治から続く教養主義の世の中が憎い、とぼやいてみたって始まらない。
「帝政露西亜にも、連れていって数ヶ月くらい放置したら現地語を使えるようになっていそうですわ」
「恐ろしいこと言わんでくださいよー、マダムー」
そう口にしたあとで、虎丸は「しまった」と思った。
──ついマダムって呼んでもうたけど、既婚の人にしか使ったらあかんのやったっけ? 失礼やったらどうしよ。
パトロンって名目で若い作家をはべらして遊んどるし、もしかしたら独身かも?
もしくは異国かどっかに旦那がおって、日本でこっそり愛人を何人も洋館に囲っとるって可能性も……。
「ほほほ、虎丸、ぜんぶ聞こえていてよ?」
「うわぁ、妄想が口に出とった! すんません、異国に置いてくるのだけは勘弁してください!」
呼び方以上に失礼な発言の連発だ。
さすがに怒られるかと思ったが、阿比はまったく気にしていない様子で次々と魚を捕って楽しそうにしている。
八雲と同じくらい、捉えどころのない人である。
「娘時代、魚釣りはたまにしていたの。でも使用人、というか監視役ね。針に餌をつけるのもすべて彼ら任せで、わたくしは魚がかかるまで竿を持たせてもらうだけ。故郷にはとても綺麗な川があったのに、危ないからといって。つまらなかったわ」
「故郷って……金沢ですよね。石川県の」
「ええ、そう」
九社花財閥はもともと金沢で呉服屋を営んでいた一族で、江戸から明治にかけて貿易や製糸との兼業で大きくなっていった豪商だ。有名な話なので虎丸も知っている。
「だからつかみ捕りなんて、初めてですわ。思えば、これまで魚に触ったこともなかったのね。おもしろい手触り。最近ではなんて言うのだったかしら、とてたま?」
「とてたま……。とてもたまらない。女学生が言いますね」
「ふふふ、楽しい。楽しいですわ」
かの青年作家ほどではないが、阿比も表情が豊かなほうではない。
いつも隙がなく、完璧に優雅な立ち振る舞いをしている。つまりは近寄りがたい雰囲気だったのだ。
だから、少女のような笑いかたをするのに驚いた。
意外な一面にはっとしていると、すぐいつもの貫禄ある話し方に戻ってすっぱりと言った。先ほど虎丸が漏らした妄想への返答である。
「婚姻の経験はありません。跡取りのことで、多くの問題が起こって長年揉めて。親族にもいろいろ言われたのだけど。結局、今現在わたくしの後継はおりませんわ」
「九社花財閥の跡取り問題ともなると、それはそれは大変そうですねぇ……」
「虎丸、貴方のお母さまはご息災? おいくつ?」
「もー元気で元気で、うるさいくらいですわぁ。ハタチって言わな怒られるけど、今年で四十やったかな。倍やんけ」
「あら、わたくしと同じ歳なのね。貴方のように素直な子が育つのなら、きっといいお母さまなのでしょう」
素直とは。
渋い大人の男を目指している虎丸としては、いまいち喜ばしい言葉ではないのだが──。
阿比がとても嬉しそうに話すので、そのまま賛辞として受け取った。
捕れた小魚は十数匹。気温は低いが新鮮なほうがいいだろうと、早々に帰り支度を整えて下山することにした。
「わたくしの可愛い作家たちが言っていたとおりね」
「また、なんかウワサ話!?」
緩いながらも下り坂だ。
行きよりもゆっくりと馬を走らせながら山を下りていると、突然阿比が言った。娘のようにはしゃぐ姿も意外だったが、第一印象よりずっと饒舌な人でもあった。
「貴方、藍にどことなく似てるわ」
「藍ちゃん??」
「ええ。あの子のほうがやさぐれていて素行不良で女にだらしなくてトウが立ってるけれど」
「めっちゃ悪口言われとる……」
「けれど──。藍は、他人のために生きてばかり。情が深いのね、どうしようもなく」
やがて、平坦な道につく。
馬に乗り慣れている阿比は「駆りたいから先に行く」と虎丸に告げたあと、ソウニャに呼びかけて一気にスピードを上げた。
最後に一言、独白を残して。
「虎丸も……あの子のように優しいままで。でも、あんなふうな生き方はしないでほしいわ」
去っていく後ろ姿を見送りながら、虎丸は──。
「……どっちや?」
と、首をかしげた。




