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狂人ダイアリー ~大正浪漫幻想活劇~  作者: アザミユメコ@書籍発売中
第九幕【絡繰り人形のはつ恋】
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十二 匂ひ紫の香は仮初めの命に蕩けて

 薄暗闇を走る少年と少女の影。

 きれぎれの吐息が、土を踏む足音とともに山中に吸い込まれる。


 突然現れた敵の使い魔──狼の数は、全部で九匹だ。

 茜とおみつは川の浅瀬を渡ってなんとか向こう岸に逃げたが、振り切れたわけではない。


「おみつちゃん!!」


 手を繋いで前を走っていた茜が、青ざめて叫ぶ。

 獣の走るスピードに人間が敵うはずもなく、おみつが飛びかかってきた狼の牙を受けてしまったのだ。

 鋭利な先端が、少女の腕を切り裂いた。


 だが、血は(こぼ)れなかった。

 かわりに水色の着物が破れた隙間から、小さな黒い文字がぞよぞよと溢れた。


「大丈夫、腕がもげるくらいの傷でも、人形に戻ればあの子に治してもらえるもの」

「くらいって……。くそ、やっぱりぼくが何しても当たらない……!」


 茜は苦しまぎれに路傍の石を拾って投げるが、つぶては狼の肉体をすり抜けてしまう。


 ここまで逃げてこれたのは、狼はふたりを追い詰めるだけで決定的な危害を加えてこなかったからだ。とはいえ、獣の目的などわかりようもないので油断はできない。

 たった今、おみつも怪我をしたのだ。もっと追いつめていきなり襲ってくる可能性は十分にある。


「あっちの攻撃だけ喰らうなんて、どうすれば……」

「茜、今のは違う。自分から噛まれにいったの。あたしたちを飛び越えていって、道をふさがれそうだっだから。あたしなら、狼に触れるみたい」


 いかにも十六の少女らしい鈴を転がすような可愛らしい声だ。しかし、今は凛々しさを感じるほど冷静に響く。

 この状況でおみつが落ち着き払っているのは、茜には意外だった。正体はどうあれ、勇猛果敢な自分の姉と違って気質はごく普通の娘だと思っていたのだ。


「あの子が教えてくれたのよ。作家のみんなが使う文字の力は虚構だからって。物の怪と同じで、普通の人には現実として認識できないから触れないの。でも貴方たちは現実だから、向こうには認識されてしまうの」


 体力は一般的な少女と変わらない。走りながら懸命に喋るので息があがっていた。


 茜はタカオ邸でメイドとして働いているが、新世界派の作家たちが使う不思議な力についてすべてを知っているわけではない。それはおみつも同じだ。誰かに教えられた話をなぞらえて喋っているだけだ。


 その、誰か──「あの子」というのが白玉を指していることは茜にもわかった。

 記号的な単語を使った抽象的な説明が、いかにも白玉らしい言い方だった。



「だから、あたしと貴方は本来住む世界が違うの。あたしは人形の形骸(からだ)をもらってぎりぎりこっちにいるけれど、貴方に認識されることをやめることだってできるの」


「……おみつちゃん!?」



 握りしめていたはずの肌の感触がいきなり消え、茜は驚いて振り返る。

 繋いだ手がすうっと通り抜けるように離されて、少年と少女の足が同時に止まる。


 立ち止まったおみつは、まっすぐに茜を見ていた。

 それなのに、視線は少年を通過してもっと遠くを眺めているようだった。


「あたしも……『形容化』された存在だもの。それも、八雲さんよりずっと文字そのものに近いの。あたしなら狼に触れる。引きつけられる。だから茜、先に逃げて」


 茜は少女を正面から見つめ返して、声を張りあげた。



「えっと、話は全部飲み込めてないんだけどね、とりあえず、無理!! ちゃんとぼくの()を見て。ぼくを見ててよ。ぼくはおみつちゃんを()()()()()よ!!」



 茜の瞳は、世間ではめずらしい澄んだ赤茶色をしている。睫毛に縁取られた円の中心に、少女の姿が映り込んでいた。

 少年の瞳を通しておみつは自分自身がそこにいることに気づき、はっとして息を飲む。


 おみつの手を、茜はもう一度掴んだ。

 今度はもう通り抜けない。熱を持った肌の感触があった。


「あっ」


 ふたたび、走り出した瞬間。おみつの髪を結っていたリボンがほどけて地面に落ち、少女は反射的に手を伸ばした。

 おそらく大切なものなのだろうと、狼狽した様子でわかる。だが、狼の眷属がすぐそこまで迫っているので茜は足を止めるわけにはいかなかった。


「今度新しいの、買ってあげるから!」

「で、でも、亡くなったお母さまに送っていただいたの。女学校の入学祝いで」

「じゃあ一緒に逃げて、あとでちゃんと探しに戻ろう。だから、きみが怪我なんてしなくていいんだよ! あ、言い忘れてたけど、青いリボンよく似合ってるよ!」

「は、はい!」


 すでに山の奥深くまで来ている。茜は普段から中学の部活動で運動をしているので体力はあるが、おみつが限界だ。呼吸は荒く、今にも倒れそうだった。


 どうすればいいのか、と奥歯を噛みしめたそのとき。

 追尾してくる狼の後ろ脚に、真っ赤な紐がくくられていることに気がついた。



──赤い糸?



 ついさっきまでは間違いなく存在していなかったものだ。

 紐は地面をつたい、山の麓の方向へ伸びている。



「急に現れたってことは、文字の力……? おみつちゃん、助かるかも」

「えっ?」



 (コウ)の書く小説に、「運命の赤い糸」の比喩は時折登場する。

 唐の伝説では足首だが、遊女の小指切りから転じて恋人同士の指を繋ぐ相思相愛の象徴として、恋愛小説では人気の定番ネタだ。

 ほとんど勘だが、言葉の選び方になんとなく姉の息づかいを感じたのである。


「きっと大丈夫。あと少しだけ、頑張ろう」


 山中の木々をくぐって、傾斜を避けて横に移動する。

 逃げきるよりも、体力を温存するための時間稼ぎは功を奏した。

 

 狼たちの脚に結ばれていた赤縄は突然はらりとたゆみ、獣は瞬く間にその場から散った。


「はぁ、な、なに……? どこかへ行ったの……?」


 気が抜けたのか、おみつは地面にへたりこんだ。

 茜は着物の袖で流れる汗をぬぐって、ふうっと息をついた。



 ***



 青染めのリボンを掲げ、虎丸は手を振った。


「おーい、茜ちゃ……茜! おみつちゃん!」


 (あい)、紅とともにふたりを探しにきたのだが、道中でおみつの髪飾りがぽつんと落ちているのを見つけた。血の気が引く思いをしたが、何とか無事な姿を確認したところである。


 正直なところ、紅の弟・茜はまだ中学生にも関わらず頭の回転が速くしっかりしているので、大丈夫だろうという楽観的な気持ちもあった。

 だが、文字の力に対して自分たちのような普通の人間がいかに無力か、虎丸は今回の襲撃で思い知ったのだった。


「虎丸さん!」


 虎丸の呼ぶ声に気づいた赤髪の少年は、あきらかに安堵の表情を見せた。

 おみつは地面に座り、うつむいて呼吸を整えている。茜がすぐ隣で膝をつき、具合を見ているところだった。


「おー、茜とおみつ、ちゃんと無事だったか。えらいえらい」


 あとから悠長に歩いてきた僧侶が、しゃがんでふたりの頭を交互に撫でた。


「藍さんと紅ちゃんも、来てくれたんだ。ぼくらの場所がよくわかったね」


 じつは、若者たちのデートをこっそり監視していたのだ──。

 と、言うわけにもいかず虎丸が目を泳がせていると、かわりに紅が嘘はついていないが絶妙に真実を隠した説明をした。


「文字の力を仕込んで、何かあったら助けに行けるようにしといたんだよ。まさか藍ちゃんたちが昼から飲んだくれてるとは予想外だったけどな」

「すんません!!」

「ゴメンナサイ」


 横目で睨まれ、虎丸と藍はほとんど反射的に謝る。


「まっいいや。無事に見つかったから」

「そういや木刀についとった、あの『呪』の手紙はなんやったん?」

「たいした仕掛けじゃねーよ。紙に呪いの効果を付与して、開けたら『消滅』の固有能力が発動するようになってる。そしたら離れた場所にいても木刀を取り出したことと、だいたいの位置がおれにわかるってだけ。べつに呪いじゃなくてもよかったけど」

「何でもええなら、もっと穏やかな手紙にしよ??」


 ふと、おみつの袖が破れているのを見つけて紅が手を伸ばした。



「ん、オマエ、怪我してんじゃん。ちょっと見せてみ──」


「触らないで!」



 予想外の大声に、空気が一瞬固まる。

 娘たちの仲が悪いことは知っていたが、このような刺々しい雰囲気ではなかったのにと虎丸も驚いた。


「触らないで。あたしの、わたしのこと嫌いなはずでしょ」

「……そんな場合じゃねーし。怪我してるときまでケンカ売らねーっての」

「大人ぶらないで。前はもっと、すぐにケンカしてたじゃない。ひとりだけ大人にならないでよ。どんどん、置いていかれるみたい。いつの間にか女の子の恰好になって、少しずつ大人っぽく、女らしくなっちゃって。まだ粗暴だしブスだけど」


 伸ばした手を引っ込め、そのまま自身の頭をぐしゃぐしゃと掻きながら紅はつぶやく。


「憎まれ口叩く元気、あんじゃん。……まったく」


 時間が経ってもおみつの呼吸は収まるどころか、むしろ荒くなっていた。視線を落として熱に浮かされたように言葉を繰り返している。


「貴方たち、だれ? お父さまとお母さまは? 弟はどこ?」

「弟? 三人兄弟なん?」


 白玉、餡蜜(あんみつ)に続いてまだ下に兄弟がいるのかと虎丸は首をかしげる。

 少女はますます錯乱していた。


「わたし、学校に行かないと。でも今朝は髪が綺麗に梳けなくて」

「おみつちゃん、これ。さっき渡しそびれたんだ」


 茜が少女の手をとって小振りの紙袋を乗せると、うわ言はとまった。瞳も正気に戻る。おみつは恐る恐るといった様子で、上目づかいに茜を見た。


「……なに?」

「最近ずっと人形のままだったから随分過ぎちゃった。十里さんが相談に乗ってくれて、少し大人っぽいプレゼントを選んでみたよ。今年は、()()()()だからね。誕生日、おめでとう」


 透明な瓶に貼られた薄水色のラベル。

 何年か前に発表された夏目漱石の『三四郎』に登場して、女性の間の一躍人気となった舶来の香水・ヘリオトロープだ。閉じた蓋からかすかな香りが漏れる。


「あ、ありがとう……。いい匂い……」


 まだ息は上がっているが、おみつは隠しようもなく嬉しそうな顔を見せた。



──二十一?



 初めて会ったとき、おみつは自分で十六だと言った。しかし、そのあとに年齢の話をして紅に怒られたことも思い出した。



「お願い、誰か、わたしの弟のこと、気にかけてあげて」

「わかってる、心配すんな」



 藍がそう言って黒髪の頭をぽんぽんと叩いたと同時に、おみつは意識を失った。


「……今回の『形容化』は、これで限界だな。白玉のところへ運ぶぞ」

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