十一 心には真っ黒な虚構の森がある
細く、反りの少ない清廉な刀身。
持ち主の克己的な気質を象徴するような飾り気のない静形の薙刀が、虚構の高熱に包まれていく。
石突から切っ先まで、『炎』の文字がいくつも踊っていた。
「──滅びの炎よ、敵の手跡を掻き消せ!」
恋愛小説家・千代田紅の固有能力は、他者が『形容化』した文字の強制解除だ。
条件は接触という、ただ一点のみ。
当たらなければ消すことはできないが、安定した体幹から繰り出される攻撃の命中率の高さは、紅が誰よりも日々修練を重ねている成果だった。
消耗が激しく短時間しか発現できない一撃必殺技なので、無闇には使えない。外せば一気にやり返される可能性があるからだ。
血の気が多いうえに思いきりがよすぎる強襲娘に「出すのは仲間がいるときに限定しろ」と、なんとか説き伏せたのは世話役の藍である。
一応、今のところ言いつけは守られている。
「ちィ、誘い込みやがって……」
対峙する名刃里獏も、かつては同人雑誌『新世界』でともに小説を発表していた仲間だった。
だから、赤髪娘の炎に触れた時点で負けるのは百も承知だ。
逆もまた然りだが、闘者は操觚者がいなければ、文字の力の前では無力に等しい。桁外れな強さの藍に気を取られ、唯一文字の付与ができる紅を最優先で仕留めようと森の奥まで追ってきた。
しかし──能力の相性を考えれば、警戒すべきは紅そのもの。
つられたのは失敗だったと気づき、獏は尖った牙をぎりっと噛みしめる。
「相変わらず、単純莫迦やろーだなぁ、オマエは」
暴言を吐くやいなや、紅が先にしかけた。
娘の動きは圧倒的に速かった。
かろうじて爪で防御するしか、獏に選択肢は残されていなかった。
紅の能力は相手を力で打ち負かす必要はない。接触さえすれば形容化を無効化できるので、獏のような近接戦闘しか手段のない相手にはめっぽう強い。
しゅうっと文字の消滅する音がして、耳、爪、牙、角、蹄──獏が武器としていたすべての合体が解除された。
「あ。わりーな、どっちも消えちまった。そんじゃ、人肉になーれ♡」
猫のように大きな切れ長の瞳を細めて、赤い髪の娘がにっこりと微笑む。
紅には獏を殺める気などないが、挑発だ。
戦闘開始前に紅が犬肉と鹿肉どっちになりたいかと聞いたのは、どちらの合体を残して倒されたいかという意味である。
残してきた『運命の赤い糸』で、虎丸たちが獣神の眷属を逃がしたらしい。本体の一部である眷属が離れ、力がその分弱まっていたため、一撃で獏の形容化は完全に解けてしまったのだ。
「く、そォ!!」
強制的に人の姿に戻された男は、反動で膝から崩れ落ちた。地面に額をつき、うつむいたまま雄たけびをあげる。
獏の『聯合』も、精神力と体力を大量に浪費する大技だ。闘者の素質はなく物の怪の力に大きく依存した強さなので、合体が解除されてしまった生身では紅に勝てない。
藍が言ったように相性は最悪、まさに天敵なのだった。
「テメェらなんかに、引いてたまるか、よォ!?」
「しつけーな、とっとと帰れ」
編み上げブーツの踵で敵の頭を踏みつけながら、紅は内心焦っていた。茜とおみつがどこにいるかわからない。無事をまだ確認できていないのだ。
簡単には諦めそうもない獏に向かって、しかたなく最終奥義を出すことにした。
「ジュリィも呼んどいたからもうすぐ来るぜ? いいのか? ぶちのめされた情けない姿を晒して」
その名を聞き、顔をあげた獏の目の色が一瞬で変わる。
「この、卑怯者がァ! テメェら、笑ってられるのも今のうちだァ、もうすぐ一斉攻撃してやるからなァ!!」
「ハイハイ、教えてくれてありがとよ。オマエのことだから偵察のつもりが、敵を見つけてひとりで突っ走ったんだろ?」
「ぐっ、クソ女!! テメェなんか新世界派で三番目に嫌いなんだよォ!」
「真ん中じゃん。オマエに好かれる必要ねーし、どうでもいいけど。おれもオマエのことなんか嫌いだよ、裏切り者め」
もし十里が本当にここに来るのなら、決して口にはしなかった言葉だ。
あえて言った理由は、完全に紅の個人的な感情である。
目の前の男は八雲を裏切って、敵に内部の情報を売った。他の部員は獏の事情も汲んで責めはしなかったが、八雲に特別な感情を抱いている紅はどうしても許すことができなかった。
「拓海が参加したすぐ後だから……もう二年経つか。オマエが新世界派を去ってから。感情が集まる直前でいきなり動き出しやがって、ハイエナみてーなヤツらだな」
「あァ!? そもそも、人道を踏み外してるのは新世界派のほうだろォが」
獏を見下ろし、紅はうんざりとした表情でため息を吐く。
「正義だの倫理だの、『黒菊』のボスもそんなもんで動いちゃいねーだろ? 最近報道されてる政治家神隠し事件、オマエの仕業なんだってな。手を汚したヤツがこれ以上、正義ヅラであの人を批難すんじゃねー。自分の復讐だって断言したほうがスッキリするぜ?」
「ボスの大義のための犠牲と、テメェらの身勝手な欲望を一緒にすんじゃねェよ! 鞣すぞォ!?」
どちらも、自分の大事な何かを守るために譲れない。相容れない。
今さら確認するまでもない。袂を分かった日と何も変わらないのだ。
不毛な言い争いは、人の近づく気配で幕を閉じた。
「ちっ、ホニャララ野郎め、もう来やがったのかァ。おい、最後に小生たちの予言を教えてやるよ」
獣の男は、地面に這いつくばって高く笑う。鋭い三白眼で娘を見上げている。
毛先のはねた硬そうな黒髪が激しく揺れていた。
「あと一人、テメェらの中から裏切者が出るぜ。それからもう一人、今度は退場者だァ。全部テメェらの自業自得だがなァ。せいぜい八雲に尽してヤり棄てられやがれェ、番犬女!」
紅の足を払いのけて、敵は去った。
***
森を走るふたつの足音。
「あ、紅ちゃんおった! マイエンゼル!!」
「……今、敵の後頭部を編み上げ靴で踏んでいたような気がするが、お前にはあれが天使に見えるのか?」
「うーん、まあ、ぎりぎり見えるかな?」
「そうか、真正だな」
駆けつけたのは虎丸と藍である。
眷属を一掃したあと、森の奥へ消えた紅を探していたのだ。
「おーい、大丈夫やった!?」
ようやく見つけて傍に寄るも、紅は険しい表情で地面に視線を落としたままだ。敵が去るときに何かを言い残していったようだが、内容までは聞き取れなかった。
どうしたのかと尋ねる前に、紅はいつもと変わらない調子に戻って両腕を伸ばしながら言った。
「はー、すっきりした! こないだ変態四天王の蛇男に負けたの、すげーイラついてたんだよなー」
「八つ当たりされとる……。あの男、帰ったん?」
「ジュリィが来るってウソついたら逃げた。うちを抜けてもう結構経つのに、まーだ効果あるんだな」
よほど胸がすいたのかけらけらと笑っている紅に、藍が一応といった口振りで苦言を呈す。
「あんまりいじめてやるなよ……。獏は本気でムキになるから」
「てーか、なんでジュリィさん?」
虎丸は獏という男のことをよく知らない。理由がわからず、首をかしげた。
着物の砂埃を払っている紅は、何ともなさそうな顔をしているが少しだけ指先が震えている。どうやら文字の力を使いすぎたようだ。
「イトコだから、あいつら」
「へっ!? 全然異人さんっぽさなかったけど、ほんなら狂犬男もお仏蘭西?」
「や、日本側の血縁。イキリのくせに昔っからジュリィにだけは頭あがんねーんだ、獏は」
確かにあの仏蘭西人ハーフの青年なら、ふわふわとした喋り方と態度で猿回しのように軽くあしらいそうである。
「ううーん、容易に想像できたわぁ。兄に敵わへん弟みたいな感じやろか」
「獏のほうが年上だけどな」
「あれで!? 十代かと思った……」
「んで、茜とおみつは?」
「紐は切ってもうたけど、あっち!」
虎丸が指を差したのは運命の赤縄が伸びていた方向。
眷属に襲われている可能性があるため、すでに紐は切っていた。居場所を知らせなければならないので、まず紅と合流したのだ。
突如、地響きが鳴り、徐々に大きく揺れ始めた。
地面は割れ、木々は倒れ、夜空が回転する。作者の獏がいなくなった影響か、急激な勢いで森が崩れている。
さっきまでむせかえるほど土と木の匂いを感じていたのに、虚構の森は絵の具を混ぜくったように非現実な景色となって壊れていく。
いち早く異変に気づいていた藍が、紅に言った。
「茜たちが森の外側にいるが内側にいるかわからんが、方角さえ合ってりゃそのうち会えるだろ。走るぞ」
「藍ちゃん、その字だけでいけそー?」
「おう。俺は大丈夫だから、虎坊連れてきてくれ」
藍の足には紅の毛筆で書かれた『弾機』の文字が浮かんでいる。虎丸救出のとき、木の上まで登るために付与したものだ。
常人とかけ離れた跳躍力で、崩れる地面を飛び越え走っていった。
紅と虎丸がいる場所もすでに亀裂が入り、地の底が細く口を開いている。
「もう文字書いてる時間ねーな。虎丸、左手よこせ!」
「ひだりて? ほい」
虎丸が言われたとおり左の手のひらを差し出すと、紅が自分の右手を上から重ね合わせる。途端、体重を失ったような感覚が、虎丸の全身をぶわっと包んだ。
そのまま紅に手を引かれ──ともに、走り出した。
不思議なくらい体は軽く、地面から露出した岩の上を足が勝手に移動する。
「うおお、なんこれ! 飛んどるみたい!」
「おれの右手に付与してる『軽量』の効果だよ。薙刀を長時間振り回せるように、掴んだものを軽量化する強化……って、なんで鼻血!?」
「よくよく考えたら手ぇ繋いどるなって。ピュアボウイなもんで」
「手だけで!? 逆にキモッ」
「ひどっ! それにしても、女子の手って小さい、やわらかい……」
「離されてーのかオマエ。莫迦なこと一回言うたびに指一本ずつ外すからな」
「なにその怖いルゥル! ごめんなさい!」
危険な状況なのだが走っているというよりは運ばれているので、つい意識が逸れる。
「なぁ、紅ちゃん。この森は情景描写?」
「同じだけど、もっと規模がでかいやつ。空間丸ごと情景描写って感じかな」
「銀雪のときの雪景色といっしょか。巨大なだけで」
「アイツの創作世界っつーか、小説の中に入ったようなもんだよ。現実のどこにも存在しない世界だけど、操觚者なら自由に出入りできる」
虎丸は崩壊していく景色を眺めながら、木の上から見たこの森を思い出していた。
木々の向こうは真っ黒な作り物。作家なら誰しも心のうちに持っているのであろう、絵画の中に似た虚構の世界。
「でも獏のやろー、前はこんな芸当できやしなかったんだけどな。敵の中にいる他のヤツの能力かもしんねー。うちにだってここまでの空間を描けるのはジュリィくらいしかいねーのに。白玉はリアルな風景描写とか得意じゃないし」
「白玉の思考はお宇宙の向こうやからなー」
空気の歪んだ行き止まりで、藍が待っていた。
三人で外に出るとすでに日は落ち、さっきまでいた森と同じように現実の夜空にも月と星が輝いていた。




