十 月下に紡ぐ運命の糸
光を孕んだ眼は、夜行性の獣のそれと同じで琥珀色に輝いている。
がなる声は遠吠えの如く──しかし、虎丸が第一印象で感じたように、恐ろしさよりも荒唐無稽さの際立つ男である。
狼と合体した敵の作家は、牙を剥き出し叫んだ。
「三対一だとォ……!? 新世界派め、卑怯也ィ!」
「や、オマエが勝手に単騎で乗り込んで来たんだろうが」
呆れ声で応じたのは、虎丸を助けに来た紅だ。
「それほど小生が怖いかァ!?」
「話を聞け!! はーあ、まさかコイツまで一員だったなんて。黒菊四天王とかいうの、ガチめの変態集団で嫌んなるぜ」
獏より体半分ほど高い木の枝にいる紅は、やれやれといった風情で首を左右に振った。月光に晒された血汐色のまっすぐな髪が、するすると夜風になびく。
別の木の上には藍もいる。獰猛な獣の動きを封じ込めるために、逃げられないよう三人で一定の距離を置いて敵を囲んでいた。
「うるせァ、チビ! ブス! 八雲の番犬女が! 邪魔しやがったらどちゃくそ犯すぞゴラァ!」
「はぁん? やれるもんならやってみろよ! その前にオマエの×××を××××してやっからな、この狂犬男!!」
仲間に窮地を救われた虎丸だったが、ほっと息をつく間もなく頭上を飛び交う罵詈雑言に呆然としていた。
「似たような場面、つい最近もあったような……。××××って……!?」
「おお怖い。こいつらがうちで一、二を争ってた美文家なんだから、作家ってやつは実物に期待するもんじゃねえよなぁ」
と、僧侶は呑気に苦笑いだ。
赤髪娘の喧嘩っぱやさと流麗な文体を交互に思い浮かべ、「まあ確かにそうやな」と虎丸は納得して首を縦に振った。
認めたくはないが、これほど口の悪い名刃里獏の書く文章も、美文という評価に間違いはないのだった。
人数で不利でも引く気は毛頭ないらしく、獏は勢いづけて突然着物を脱いだ。
袴だけになった男の胸には、白い文字で刻まれた『愉悦』。そして、背中に漆黒の入れ墨が入っている。
横を向いた『獏』のシンボル。様々な動物が合わさった姿を持つといわれる、伝承上の獣である。
──某の刻印は『闇桜』
吉原遊廓で闘った本郷真虎が、能力を発現させた際に述べた口上だ。
獏も今度は新世界派ではなく、『黒菊』に倣った。
ふたたび特大筆を振り回し、文字を書く。
「小生の刻印は『幻獣』!! ──弐の獣神、天迦久神! この肉体と聯合せよ!」
天迦久神、『古事記』に登場する鹿の神が現れた。
狼から変形するのかと思えば、灰銀色の耳と尾、爪と牙を残したまま鹿を取り込み、黄金色の角と脚の蹄が増えた。触れられそうな質感ではない。陽炎と見まごうほどおぼろげで、油絵具で幻想的に線を引いたような角が闇夜に伸びる。
「足し算か……。ほんまに伝承のバクみたいやな」
獏というのが筆名か本名か虎丸には知り得ないが、体を表した名だ。
合体を終えたあと、獏の判断は速かった。
瞬時に状況を整理し、操觚者である紅に狙いを定めた。
紅は紅で、一瞬にして自分に向けられた殺気を察知し、毛筆を取り出して『月下翁』という謎の文字を書いた。そして膝丈の海老茶袴をひるがえし、獏を引きつけるため木から木へと跳んで森の奥へと姿を消した。
獣の雄たけびをあげならが、獏が紅を追いかける。
さっきまでは獏も木を伝って移動していたが、金の蹄は空中を駆けることができるらしい。鳥が飛ぶように木々の間を抜けていった。
「ちょ、まって、紅ちゃん! ひとりじゃ危ない……なんやねん、あの跳躍力!」
藍とともにその場に残された虎丸は慌てて呼びかけるが、娘の去ったあとにははらはらと細長い葉が舞い落ちるのみだ。
「まったくあの娘は……。また馬鹿みてえに肉体強化の文字を付与しやがって。書くだけならまだしも、いっぺんに使えば小一時間でぶっ倒れるぞ」
「その前に勝負つかんかったらどうすんの! あんな危険な男とふたりきりで!」
「獏にとっちゃ紅は天敵でな。あいつらは固有能力の相性が最悪だから、まあ心配すんな。一対一の近接戦闘なら紅の独壇場だ。それより狼の次は鹿が来たぞ」
虎丸と藍は、気づけば空飛ぶ金の鹿に取り囲まれていた。
おそらく獏が眷属と呼んでいた、狼の使い魔と同じもの。今度は天迦久神を小型にした鹿の群れである。
「三十匹くらいか。さっきより多いが、一匹の力もその分弱いな。俺らは木から真っ逆さまに落ちりゃ死ぬから数を出したんだろうが」
「んん? いつの間にやら赤い紐……? なんや、これ」
気づくと、虎丸は覚えのない紐の束を手に握りしめていた。
赤い紐は数にして数十本、蜘蛛の糸のように森に張り巡らされている。紐の端は獏と紅の走っていった方角から伸びてきて、鹿の眷属の脚に結ばれていた。虎丸はその真ん中らへんを知らずうちに握っていたのだ。
紅が書き残していった『月下翁』の文字が手元に浮かんでいる。
藍はその言葉を眺めて少し考え、「ああ、なるほど」と口の端で笑った。
「『続幽怪録』っつー唐の伝奇で、まさに今みたいな月の夜──月下翁と呼ばれる老人が登場する話がある。その翁の持つ赤縄で足首を繋げば、どんな男女でも結ばれるという。日本でも若い娘らが好きだろ。運命の赤い糸の由来となった言い伝えだ」
「つまりこれは、暗にオレと結ばれたいっていう紅ちゃんからの愛の告白……?」
「お前の性格だと生きるの楽しそうだよな」
真面目な顔で呟いた虎丸をさらっと流し、藍は解説を続けた。
「獏の使い魔は、数千年前から存在しているような位の高い物の怪ばかりだ。無理やり合体してるだけで、従えているわけじゃない。八雲は自分の小説として書き起こして使役するが、あいつの場合は違う。まさに赤縄のように強制的に縛ってるだけなんだ」
「てーことは?」
「縁は簡単に切れる。闘う必要もなく。紅は目に見えない縁そのものを、赤い縄の伝説になぞらえて『形容化』したんだ。これは獏と使い魔を繋いでいる縁だよ」
鹿の脚近くを狙い、藍が拳銃を撃つ。
使い魔の数と同じ三十ほどの銃声が連続で森に響いた。
虎丸の手の中で張っていた紐が弛み、鹿たちは足枷を外された家畜の如く散らばって走り去った。
「えっ、終わり!? 簡単過ぎん!? 逃げた鹿、人を襲ったりせんかな?」
「眷属ってのは個体じゃなく、本体の神から分かれた一部だ。神と呼ばれる物の怪は、滅多なことじゃ他の生き物を襲わないから問題ねえさ。本体は獏と合体済みだからこの縄じゃ切れないだろうが」
「藍ちゃん、操觚者じゃないのに文字の力のこと詳しいよなぁ」
藍は早くも懐から煙管を出して一服している。
「そんだけ、うちの部員どもを理解してんだよ。あいつらがどんな小説を書くか、どんな言葉を選ぶか。目に見えないものを形容化したうえで断ち切るなんざ、この文字を書いた紅の発想力の勝ちだ。語彙はあの娘らしいが、めずらしく力技じゃないとは恐れ入った」
「ロマンテックな意味の言葉やったなー。さすが口は悪くても恋愛小説家。そんで、これの残りは?」
まだ十本ほど手に残っているが、もう周囲に鹿の姿はない。
獏のいる森の奥から伸びて、逆側の端は虎丸を経由し、まったく違う方角に続いている。
「獏がどこか別の場所にも眷属を放ってるってことだろ。この紐の先に」
「……あ、まさか、茜ちゃんとおみつちゃん!」
***
この森の中にいる限り、どこに敵が潜んでいようと獏には感覚でわかる。
彼自身が作りあげた勝手知ったる空間だ。
だが、紅は隠れてなどいなかった。丸く月の光が漏れている明るい一画で、獏を待ち構えていた。
金の蹄が、空中をゆっくりと歩いて近づいていく。
鹿はどれほど険しい崖でも平然と渡っていく獣だ。天迦久神は『古事記』で神の使いとして登場し、道ならぬ道を歩くという鹿が神格化された存在である。
この獣神と合体した獏も、空だろうと地面だろうと、自在に駆けることができる。
空中を移動できる敵相手に、あのまま足場が悪い木の上で闘うのは危険が大きかった。
だから自分が狙われていることを察した紅は、ひとりで森の奥まで走り、離れたのだ。
あっさりと誘導に乗ってついてきた男の姿を確認すると──赤髪を揺らした娘は、不敵に笑って問いかけた。
「犬肉になるのと鹿肉になるの、どっちがいい? 選ばせてやるよ」
「肉になるのはテメェ・だァ! 赤い犬は美味いらしいぜェ!?」
まるで見えない階段があるように。
獏は鹿の脚で空を駆けあがり、狼の牙を振り下ろした。




