八 獣の男は愉悦を貪る
「そろそろ着くよ。外出着なのに歩かせちゃってごめんね」
「ううん、平気。ここは──浅川?」
八王子の川沿いを歩く和服姿の少年と少女。
幅のある浅い河川には、澄んだ水がゆったりと流れていた。視界は広く、遠くで山の連なりが歪な弧を描いている。
「そう、ちょっと上流のほう。間に合ってよかった。一瞬だからよく見てて」
茜はおみつにそう告げて、まっすぐ正面を指差した。
その指先には一番高い山の頂点があり、ちょうど日が落ちるところだった。
眼で追うことができないほどあっという間に、空の色は移り変わっていく。川の水面、周りの茂み、目に映るすべてがあたたかい光で満たされる。
若いふたりに降りそそがれた夕焼けは、まさに茜色であった。
「……綺麗」
「この場所、ひらけてるからかな。日没の数秒間、夕日で満ちるんだ。空も、川も、地面も、全部赤く染まってすごいでしょ」
それは本当に一瞬の光景で、茜が話し終わったとき、すでに空には紺色が混じり始めていた。
「暗くなってきたね。早く帰らないと」
「ねえ、茜。死後の世界ってどんなところかしら。その後、人は生まれ変わるのだと思う?」
「え?」
薄暗くなっていく水の流れを眺めながら、おみつが言う。少女の長い髪と青いリボンが風にゆるくなびいていた。
「大きな川を見てたら、なんだか三途の川を連想したの」
「ああ。でも、もっと寂しいところだと思うよ。もちろん見たことはないけどね」
「そうよね。こんなに綺麗なはず、ないわよね。えっと、もうちょっと帰りたくないなぁ、なんて思ってたら……変なこと聞いちゃった……」
「これ以上遅いとみんなに心配かけるから、今度また休みの日に──」
言いかけて突然、茜が片手でおみつの手首を掴んだ。
普段と違う男子らしい真剣な眼差しに、少女は頬を真っ赤に染め、慌てふためいた。
「あっ茜!? あたし、殿方とデエトより先は、結納が済んでからって思っ……」
「……さがって。ぼくの後ろにいて」
いつもより低い声。
ふたりのいる自然の河川敷に、獰猛な気配が集まってきている。
「なに……? 獣……?」
気づくと、囲まれていた。明確に茜たちを狙っている鋭い瞳。青灰色に発光しているが、姿形は狼そのものだ。
八、いや九匹……と、茜は声に出さず獣を数えた。
「ちがう。なんとなくだけど、実体がない。生きた気配を感じない。狼の心霊、とか……」
心霊とは、この世に漂っている感情のことである。自我を持たない残り香のようなもので、強い感情の影響を受けて文字に宿り、自然発生する。
残った感情があまりに強く、自我と形を持つようになれば物の怪といい、知能や意思もある。千年以上存在し、神として祀られている個体もいる。
──じゃあ、物の怪か。でも野生じゃないな。何の力もないぼくたちに見えるなら、誰かが文字で『形容化』したもののはず。
茜は冷静さを保っているが、この場を切り抜ける方法は思いつかなかった。形容化された文字には普通の攻撃が通じない。石を投げても通り抜けるだろう。
文字には文字の力でしか対抗できないと知っている。だから、逃げるしかなかった。
「おみつちゃん、走るよ!」
掴んだ手をそのまま引いて、茜は川に沿って走り出した。
***
「来るぞ!」
藍の叫びと同時に、虎丸は何者かの殺気に包まれた。
いや、殺気なんてものじゃない、と虎丸は戦慄する。強烈で、あきらかな殺意だった。
しかし、敵の姿はどこにもない。
かわりに現れたのは獣の群れだ。
「……狼!?」
一匹が牙を剥いて飛びかかってくる。
とっさに木刀で応戦するが、刀身はなんの手応えもなく狼の肉体をすり抜けた。
勢いで、虎丸は地面に膝をつきそうになった。
おかげで噛まれるのは避けたものの、宙を跳んだ獣の後ろ足の爪が、すれ違いざま肩に食い込んだ。
「痛った! うそやろ、こっちの攻撃は当たらへんのに、あっちのは効くん!?」
「『形容化』された物の怪だ。木刀に文字の力を付与してないとどうにもならん」
「拳銃は!?」
「ただの鉛弾だから同じだろうな。俺たちが対抗できるとしたら、生身の操觚者本人だけだ。どうやら己の作った世界に隠れながら攻撃してきているようだが」
数にして、六匹。じりじりと虎丸たちに近づいてくる。円を描くように囲まれているので退路はない。
「もしかして、タカオ邸にも敵襲が……」
「いーや、こいつは絶対に単独行動しかしねえよ。造りもんの兵とやらもいないはずだ。館のほうは無事だろうが、茜たちが近くにいるなら危ない。引きつけて文字の力が及ばなくなる範囲外まで離すぞ」
「どっちや!?」
「部員と合流できる可能性を兼ねて、タカオ邸の方角だな」
整備されていない地面を駆け出したそのとき、六匹の狼が青白い煙と化してふたりを包み込んだ。
単なる煙幕ではない。どこかに連れて行かれる、虎丸は直感的にそう感じた。
覆われた視界の中で、聞き慣れない声が響く。
「なァんだ、銃ぶっ放してきやがったのはやっぱり藍ちゃんか。日露戦争はとっくに終わってんだよォ、老兵は隠居して念仏でも唱えてやがれァ!」
「よう、ひさしぶりだな。相変わらず元気なことだ」
「うるせェ、テメェは厄介だからどっか行けよォ!?」
粗暴な口調。
すぐ後で、引き離されることを察した藍の忠告が届く。
「虎坊! こいつは……あーなんて言やいいんだ、八雲と似た固有能力だ! 防御が特に堅い。文字がなけりゃ攻撃はほとんど効かないと思え!」
「八雲さんと似た!? 物の怪使いってこと!?」
返事は返ってくることなく、藍の気配が掻き消えた。
煙が風に流され、ようやく前が見えるようになったとき──。
虎丸はたった独りで、知らない場所に立っていた。
「ここは、森……!? 空が暗い、なんでや」
夕暮れだったはずの景色が変化して、いきなり深い夜が訪れている。
濃い緑の葉が茂る森の中で、酸素が濃くむせり返りそうなほどだった。周囲を見渡してもどこも同じ、生い茂る背の高い木々があるだけだ。
見上げると月の光がかすかに漏れているが、足元は真っ暗だった。
違う場所に移動させられたのか。時間まで変化しているので、何度か経験したことのある情景描写なのか。虎丸には判断がつかない。
木刀を構えて警戒していると、敵はあっさりと目の前に姿を現した。
「テメェ、誰だ? 新世界派の新しい部員かァ?」
グレーの着物に黒の袴、立ち襟シャツの書生姿。歳は虎丸と同じくらいに見えた。背丈は少し低め。あちこち跳ねた黒髪。目つきは鋭く、血走った三白眼で睨みつけられる。
「オレは大阪から来た編……」
「小生か!? 小生は黒菊四天王が末席! 栄えある本郷真虎先生の門下生、だァ!」
「えっ、本郷って……」
「誰だか知らねェがァ、いざ尋常に、死ねァ!!」
「ちょ、ちょっとちょっと待っ……」
敵は背に担いでいた、子供の身長ほどもある特大筆を振り上げた。
──やばい、この男、会話ができへん。というかいっさい人の話聞いてへん。
藍ちゃんと知り合いっぽかったし、こいつが例の●かな?
三白眼の男は寄り添っていた狼の一匹を大筆で殴り倒し、物の怪の傷から溢れた文字を墨代わりにした。
「んなっ、それ自分の使い魔ちゃうの!?」
「文句あんのかァ!? 物の怪だろォ、退治したら喜ばれるやつらだろォ!」
「いやでも、言うこと聞いてくれてんのに可哀想……」
「テメェも肉食うだろォ!? 虫潰すだろォ!? いいから黙ってろ、すっとこどっこいがァ!!」
八雲と似た能力を持っているとさっき藍は言っていたが、使い魔を溺愛しているあの青年作家とは大違いである。
「なんやねん、この狂犬みたいな奴……。新世界派の誰とも性格合わなそうやけど、友達できへんでやめたんかな……」
「誰がだ、ボケ! あそこを抜けてから、小生は名が売れたんだァ。いつまでもあんな無名の同人雑誌でくすぶってる器じゃなかっただけなんだよォ!」
「不義理~。なんで抜けたのに、敵に回ってまで襲ってくんねん? 未練?」
「復・讐・だァ!!」
虚空に、大きく書かれた文字。
大口真神
たしか万葉集にも出てきた……と、虎丸は記憶を巡らせる。
真神、それはニホンオオカミの獣神だ。
文字は形容化し、先ほど襲ってきた狼とは比べ物にならないほど巨大で神々しい灰色の獣神と化した。
「でっか……! いやむり、倒せんて!」
「こっからだよ、このままじゃ位の高い物の怪は命令きかねえからなァ!?」
「扱い悪いから嫌われとるんちゃう?」
「知るかァ!! 小生の名は獏! この身に複数の獣神を宿す者也ィ!」
新世界派の作家たちとよく似た呪文が、男の口から紡がれた。
──元祖『愉悦』の操觚者・名刃里獏の名において命ずる。大口真神よ、其方の力を以って我が肉体と聯合せよ!
『歓喜』の感情を担当している白玉が後釜だと言っていたので、『愉悦』はその前身ということなのだろう。
しかしながら。
藍の忠告はあまりに大雑把すぎると虎丸は思う。
「物の怪と、合体した……!? 八雲さんの力とは似て非なるものやんけ!!」
狼の耳、狼の牙、狼の手足、狼の尾。
巨大な獣神が吸収されて消えたあとには、聖獣と合わさった姿形の男が立っていた。




