六 秘密の景色をきみに
古書と学生の街、東京市神田区──。
書店、洋品店、喫茶店の並ぶ通りには制帽に着物を合わせた学生や、女袴を履いた裁縫女学校の生徒が行き交っている。
学生の多い神田は比較的治安がよく、浅草六区と比べれば健全に見える繁華街だった。
しかし、どんな街でも賑わっていれば必ず裏には怪しい場所が存在するものだ。
素行の悪さでは随一の中年男が、今まさに前途ある若者を不健全な世界へと引きずりこもうとしている最中だった。
「虎坊、大人の活動写真会に行きたくないってお前……。十代の若さで大丈夫か? 心身は健康か?」
「絶対いかがわしいやつやん!! 興味ないって言うたら嘘になるけどー! その映画館、どうせ違法やろ? 猥褻図画公然陳列罪! この不良僧侶!」
青年の拒否に何を誤解したのか、男は爽やかな笑顔で親指を立てた。
「あぁ、なんだ。最初から素直に言えよ。踏まれる系の店がいいんだな?」
「もっとちゃうわ! オッサンとふたりで観るのが虚しくて嫌やねん! どっちかっていうと、岩波書店とかあのへんの古書店街に行きたいなー」
「本~? 青春時代に本なんか読んでどうすんだ。八雲みたいなひ弱小僧になるぞ」
「それ所長の発言!?」
虎丸を悪い大人の店に連れて行こうとしているのは、同人雑誌『新世界』を発行しているタカオ活版所所長の藍だ。
今日はいつもの僧衣ではなく、黒っぽい着物をさっと着流している。雑に合わせられた衿元から鍛えられた肉体が覗いていた。
こうして見ると、大阪で闘った古柔術の使い手・古城周と、体つきの逞しさはそう変わらない。
──本業は僧侶やて言うとったけど、ほんまかいな? この髪の長さで法事は呼ばれへんやろし、素手で木魚叩き割れそうやん。
藍が何者なのかは知らないが、虎丸は伊達に長年武術を習っていないのだ。相当な実力者だということは、日常の身のこなしでもわかった。
だが、少し油断するとただの遊び人にしか見えなくなる。それほどに普段は覇気を感じない。隠せるということは、あちらのほうが圧倒的に上手なのである。
剣戟小説に登場する虚無僧に化けた隠密じゃあるまいし。この強そうな僧侶はいったい何なのだと、虎丸は訝しんでいるが──。
素行不良とはいえ気さくで、知り合ったばかりの虎丸にもよくしてくれるので悪い人間だとは思っていない。ノリのいい藍と話すのは楽しく、なんとなく性格も合うのだ。
しかし、謎の人物ではある。
「なー、藍ちゃんってなんなん?」
「なんなんとはなんだ。何が知りたいんだ」
結局は男ふたり、撞球場で遊戯なぞに興じていた。大人の活動写真と古書店で食い違った折衷案である。
藍の人柄のせいか、それとも自分よりはるかに年上だから甘えなのか。タカオ邸の住人たちの中では、誰より気安く疑問をぶつけやすいのだった。
「ビリヤアド、初めてやねんけど楽しーなー。なあなあ、藍ちゃんはなんでタカオ活版所の所長やってるん?」
「虎坊、かなり筋がいいな。そういえばお前は長物を使うんだったか。別に、たいした理由はねえよ。若造たちの面倒を見てくれと頼まれたからやってるだけ」
「これ、剣術の突きと似とるからなぁ。頼まれたって阿比さんに?」
「そう」
「まさか、若くないツバメなんじゃ」
「阿呆か! 不在時の後見人代理だから、信頼できる人間がよかったんだろ」
「……信頼?」
球を撞く手を止めて、虎丸がうさんくさそうに藍の顔を眺める。
「人間的に信頼できるかはともかく……いや、何を言わすんだよ。俺が人間的に信頼できないみたいじゃないか」
「うーん、しかたない」
「まあ、少なくとも八雲に信用されてる奴じゃないとダメだからな。あいつは極端に人との接触を嫌うから、ほかに適任者なんかいなかったんだろ」
「信用されとる? ほんまに?」
普段ぞんざいに扱われている姿を思い浮かべ、つい聞き返す。
「あいつのことは、昔っから知ってんだよ。ガキのときに苛めす……構いすぎていまだに恨まれてる気がするが」
「こっ、子供の頃とかあるんです? 八雲さん」
「あるに決まってるだろ、誰にでも」
「せやけど、想像できへんわぁ」
「ただのクソガキっつーか……すげえ大変だったよ。反抗期がほんとすげえ大変だった。今もガキだが、静かな分マシだな」
「お父さん……?」
「あんなでかい息子がいてたまるか。一回りしか違わねえし。可愛い娘ならほしいが、生憎と俺は一生華の独身なんでね」
八雲が生前に使っていた筆名、伊志川化鳥の気性難は有名だった。
今の姿からはまったく想像できないが、当時の噂や拓海から聞いた話を統合すると相当奇矯な人物だったのだろう。
好奇心から八雲の過去の話を詳しく知りたい気持ちもある。だが、どうしたって入水自殺の結末と結びつく気がして、虎丸はそれ以上聞かなかった。
「ふうん、ほんなら藍ちゃん三十六なんや。拓海の母ちゃんと同い年やな」
「そういう心にくること言うなよ!」
「拓海ママ、ものすごい美女やねん。清楚と妖艶の強化合宿……」
「再婚しねえのかな。見合い写真を渡しといてくれ」
「一生華の独身どこいったん?」
二人がビリヤードで遊んでいるのは、外国風の立ち呑みバーのような遊戯場だ。斜め向かいに茜とおみつのいる活動写真常設館があった。
「お、あいつら出てきたぞ」
伊太利亜のサイレントキネマを観終わった若いふたりは、洋菓子を出す喫茶店に入るようだ。
看板や飾りがきらびやかすぎて、男だけでは入店しにくいというのが本音だが──。
あまり傍に寄るのも無粋だろうと話し合い、虎丸たちは近くのビヤホールで日の高いうちから酒を飲み始めたのだった。
***
女学生に人気があると話題の可愛らしい喫茶店。
この店に、おみつはどうしても来てみたかったのだ。
「あら?」
向かい合わせではなく、並んで座る形式の二人席である。腰を下ろそうとして、あることに気がついた。
「茜、もしかして背が伸びたのかしら?」
肩が触れそうな距離に緊張しているのを悟られないよう、少女は取り繕った態度を貫いていた。
人形の少女が人間の状態になるのはじつに数ヶ月ぶりだ。成長期の少年の印象は、会うたびに少しずつ変化していく。
「ちょっとだけね。夜眠ってるとき、骨が痛むんだよね。十四、五歳で伸びなかったから諦めてたんだけど、最近になって急に成長してるみたい」
隣に座った少年は、年のわりにいつも落ち着いている。
少なくともおみつの目にはそう映る。
「来年中に白玉だけでも追い抜きたいなぁ。でもこのまま伸びたとしたら、メイド服は似合わなくなりそうだね」
残念、と口では言うが茜は晴れやかに笑っていた。
──殿方と話すときはよけいなことに触れず、黙って頷いていろとお母さまには教えられたけれど……。ほんとうの絡繰り人形みたいに首を振ってるだけじゃ、心を開いてくれないのではないかしら。
だいたい今はもう年号が変わって大正のはずなんだから、新しい時代の女は積極的に!
同級生のあの子たちだって、きっとそうするはず……。
澄ました対応と裏腹に、心の中では悩みをぐるぐると巡らせながら、おみつは慎重に会話を切り出していく。
「なんだか、前よりすっきりとした表情をしていてよ」
「わかる? じつはそう。ぼくはね、幼い頃から自分を守ってくれてた姉に対して、ずっと罪悪感でいっぱいだったんだよ。それは紅ちゃんが悪いんじゃなくて、ぼく自身の……弱さへのコンプレックスみたいなものだった」
ウェイトレスがテーブルに運んできた丸いガラスのカップから、冷たいミルクの香りが立ち昇っている。
まだ手をつけず、茜は言葉を繋いだ。
「でも、初めてこの手で助けてあげられた。全部返したわけじゃないけど、ぼくの中で何かが変わったのは確かなんだ。その日から背丈が伸び始めたんだから不思議なものだね」
茜は詳細まで語らなかったが、おみつは長年この姉弟を見てきたので理解している。
頷いたあと、ずっと気になっていたことを聞いた。
「髪、短くしたのね。久しぶりに会ったから驚いたの。メイド服ではつけ毛だったのね」
「ああ、切られちゃって。そのときは悲しかったけど、今はもういいかな」
「お紅より茜のほうがおしとやかだから、似合ってたのに」
茜は首を横に振って、やんわりと否定する。
「紅ちゃんも昔はちゃんと女の子だったよ。男女を入れ替えて演じるために、お互い極端になっちゃっただけで。でも、紅ちゃんが髪を伸ばしたままでよかったな。ただ売るためだったんだけどね。母さんに似てまっすぐで綺麗だから」
「あのまっすぐな髪だけは、うらやましいわ」
「おみつちゃんも癖なんてないじゃない。あ、溶けちゃうから食べよっか」
会話は一度途切れ、しばらくの間ガラスの器が透明な音を立てていた。
「美味しい。あいすくりんに添えられてるこの三角の、なあに?」
「ウヱフアスっていう薄い焼き菓子だよ。最近人気みたい」
──デエト中だっていうのにお紅の話ばっかりになっちゃった。姉にべったりなのはいつもだし、まあいいわ。大事なことを話してくれたのよね。
茜はどんなときも穏やかだから本心がよくわからなかったもの。前より壁がなくなったように感じるから、上出来かも。
さっきまで悩んでいた乙女心は秋空のように変化して、今やすっかりと上機嫌だ。
喫茶店を出たあとはしばらく街を散策し、早めに帰る約束を守って明るいうちに八王子へ戻ることにした。
高尾山方面に向かう乗合バスの車内で、少し名残惜しそうにしていたおみつに気づき、茜が言った。
「おみつちゃん、降りよう」
「え、でも、まだ着いてなくってよ?」
「ちょっと寄り道。良いもの見せてあげる。子供の頃に見つけた秘密の場所。帰りは歩ける距離だから。言いつけどおりバスには乗ったんだし、問題ないよね」
赤髪の少年は悪戯っぽく人差し指を口元に当て、微笑んだ。
「い、いいの?」
澄ましていたはずの少女は嬉しさを隠せず、頬を染めた。
日はまだ落ちていないが、青かった空は着実に白んでいた。
バスを降りて歩き出したふたりの後ろに──獣に似た影が近づいていた。




