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二 悲しき遊女の語る言葉は

 活版所と新世界派部員の住処がひとつになった白亜の洋館、通称タカオ邸──。

 と、いうのは虎丸が勝手につけた呼び名だ。


 高尾山の麓にあるタカオ活版所なので、タカオ邸。ひねりがないと性別不詳娘・(コウ)には却下されたが、虎丸自身は気に入っているので貫くつもりである。


 その娘、紅は現在、虎丸のはるか前方を走っていた。

 タカオ邸から、彼女|(不詳だが便宜上、彼女とする)の通う稽古場があるという場所に向かって一直線。かれこれ十数分は全力に近い速さで疾走している。


「はぁ、はぁ、ちょ、紅ちゃーん、はやすぎ、飛脚か!!」


 虎丸も幼少時から剣術で鍛えているので、体力には自信がある。なのにまったく追いつけないどころかむしろ離されていく。

 どれだけ走ってもスピードが一切落ちないのはさすがにおかしい。八雲も相当怪しいが、まさかこの娘も物の怪なんじゃ──と疑いたくなるほどである。


「そういや、初めて会ったとき怪奇現象が起こって帽子燃えたような……。あ、弁償してもらうの忘れとった! この件終わったら新世界派宛てに請求したろ」


 予備で持ってきていた中折帽が飛ばないよう押さえながら、揺れる赤髪の背中を追う。

 八王子駅とは逆方向のさらに奥地へと向かっており、周辺には山と畑がぽつぽつあるだけだ。見晴らしがいいので見失うことはないが、負けず嫌いの虎丸は少しばかり悔しいのだった。


 息もきれぎれになってきた頃、山間部に隔離された小さな村に到着した。

 先に入っていった紅を探すと、今にも潰れそうなさびれた道場の前に立っていた。あれだけの距離を走ったというのに呼吸はほとんど乱れていない。虎丸はもはや歩いたほうが速いような動きでふらふらと地面にへたりこんだ。


「はー……死ぬかと思った……。こんなに急がんでもええやん……」

()()は感情のままに暴れて周りに危害を加えるんだ。ぼろい村だけど人が住んでるから、近くにいるとちょっとばかし厄介なんだよ。あと体も温めとかねーと」

「温まるどころか、いま物の怪が出たらオレ死ぬわ……。あれ、そういえば八雲せんせは? いっしょに出てきたよな?」

「あの人が走ってついてこれるわけねーだろ。今頃アンナ・カレヱニナと散歩でもしながら向かってきてるよ」

「マイペエスっちゅうんか、呑気やなぁ」


 昨日初めて会ったばかりだが、のんびりとタヌキを抱えて歩いている光景が容易に想像できてしまうのが不思議だ。


 道場の裏手にある井戸の水をもらって、どうにか一息つくことができたそのとき、勝手口が開いて背の高い二十代半ばくらいの男が現れた。


「紅? どうしたんだい、稽古中に突然帰ったと思ったらまた戻ってきて」

「あー……七高(しちたか)師範代」


 見つかって気まずいのか、紅が言い淀んだ。



──なるほど、この男が今朝言うとった師範代か。たしかに色男やけど、なんとなーく嫌な雰囲気……。



 顎に手を置いて、虎丸はわざとらしく上から下まで観察する。山奥の村にいるのが似つかわしくないほど小奇麗に髪を整えた、清潔感漂う好青年だ。何故だか気に入らないのは、単に男前だからだろうか。

 虎丸はモテすぎる幼馴染に敗北し続けてきた過去の経験から、いかにも女子にキャアキャア言われていそうな男前が大嫌いなのである。


「実家に忘れ物して取りに戻ってただけだ……です。コイツが貧弱すぎてバテやがったんで、道場の井戸借りてました」

「ああ、そうか。彼、初めて見る顔だけど交際相手かな?」

「ちげえ!!……です! やめてくださいよ!」

「まあまあ、照れなくていいよ。じゃあ、また次の稽古でね」


 怪しい敬語で必死に否定する紅を受け流し、師範代は笑いながら道場の中へと戻っていった。

 憧れの相手に勘違いされたのがよほど嫌だったのか、紅が大げさに両手で顔を覆った。


「もぉ、勘弁してくれよ……。なんだってこんなヤツと誤解されなきゃいけねーんだ」

「嬉しいやろ!?」

「はぁ?」


 ヘビに睨まれたカエルの如く、虎丸は首を縮める。紅の武芸の腕がどれほどなのかは知らないが、威圧感は相当のものだ。


「いやーでも、よかったんちゃう? オレの勘やとあいつは悪者やで! ぜったい裏で女の子をぎょうさん泣かしたりしとるわ~」

「はぁ?」


 まったく同じ反応だが威圧感が倍増して、さすがの虎丸も今度は黙った。

 しばらく休んで体力も回復したところで、本来の目的に移る。


「ついてこい。おれの実家の裏からまわってもっと山のほう向かうぞ」

「紅ちゃん、この村出身なんや。東京もんはみんな都会人ぶって気取っとるんかと思ったけど、なんや結構な田舎やん~」

「うるせー! そんな無駄口叩いて、()()見てもびびんなよ」


 まだ陽も高い時間だというのに、山に入ると途端にあたりは薄暗くなった。虎丸は若干及び腰になりながら紅の後ろをついていった。



 ***



 紅には怖気づくなと言われたが、どう考えても無理な話だ。


「え、なんやねん、これ……」


 虎丸の背丈は平均的な男子より少し高いくらいだが、軽く見積もって倍はある。

 縦長の楕円形にそびえる、巨大な文字の集合体である。


「でかいタヌキやな……。タヌキ汁何杯分できんのかな……」

「おい、現実逃避すんな。二回目なんだろ、いい加減受け入れろよ」


 と言われても、現実にしては不可解すぎる物体だ。

 目に見える異様さだけではない。前にしているだけで胸騒ぎのようなものがこみあげてくる。



──またこの感じや。感情が全身になだれこんでくる……。

 でも、昨日の感覚とはまたちょっと別もんのような……?



 昨晩倒した端切れより体積が大きい分、重圧は桁違いだ。だが、大きさだけではなく何かが決定的に違う。


「あ……わかった。感情の種類がちゃうんや。八雲さんの小説から出てきた『憎悪』やなくて、苦しんどるのはおんなじでも、このでっかいやつはもっと別の気持ちの塊なんや」


 そう口にしたとき、背後で今しがた名を出したばかりの八雲の声がした。


「おや、野生の文字ですかね」


 アンナ・カレヱニナを抱きかかえて悠長に歩きながら、ようやく虎丸たちに追いついてきたらしい。アンナはめずらしく目覚めており、集合体に向かって昨晩と同じように唸り声をあげていた。


「野生の文字ってなに!? 東京ではこんなんが自然の野山におんの!?」

「文字というものは誰かが書かなければ生まれません。ですので元を辿れば人間の影響によるものですが、故意に作り出したものと区別するために、自然発生した文字を野生と呼んでいるだけです。しかし、これは──」


 文字を見あげ、青年作家は無表情に不穏なことを言いだした。


「今から『形容化』するところですね。強力なので気をつけてください」

「なんて? 形容詞?」

「形容詞は、名詞に情報を書き添えること。形容とは物の姿を言い表すこと──つまり文字が具体的な形を持つのですよ。これも私たちの呼び方ですがね」

「具体的な……かたち……?」


 八雲の説明をすべて理解できたわけではないが、確実によくない響きだ。虎丸は嫌な予感に身を震わせる。


 思ったとおり、というべきか。

 楕円に集まっていた何千・何万の真っ黒な文字が(うごめ)いて、嵐が葉を舞わせるように激しい竜巻が起こった。


「紅、この感情はあなたの担当(・・)ですね」

「だいじょーぶ、準備万端」


 足が震えて動けない虎丸とは違い、慣れているのか紅は余裕の態度だ。小袖の袂から缶を取り出し、なにやら開けている。八雲が愛用していたのはインクとつけペンだったが、娘が手に持っているのは墨と毛筆だ。


「売り物の練墨ってほんとは好きじゃねーんだよなぁ。水と混ぜるだけだし持ち運び便利だけど。やっぱり墨は自分の手で()るのが一番!」


 今度は肩に担いでいた薙刀を袋から出した。反り型の鞘を外すと、木々の隙間からわずかに漏れた日に刃が反射して鋭く光る。


「え、薙刀で斬るん!? なんちゅうか、あれって普通の刃物が貫通するもん?」

「文字には文字を、が大原則。こっからだよ。見てろ」


 赤髪の娘が、流麗な筆遣いで虚空に描くは『炎』の字。



 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎

 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎

 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎 炎



 いくつも、いくつもの炎。

 文字はやがて本物の熱を宿し、長刀の刃、柄部に至るまで、激しく燃えさかる炎をまとった。



「炎の、薙刀……!?」



 薄暗い山中、祭りのかがり火のように燃える炎はとても幻想的で、虎丸は思わず感嘆の声を漏らした。


 紅がくるくると薙刀を回せば、真っ赤な髪色と同化してまるで彼岸花が一面に咲いたみたいな華やかさだ。

 炎を遣わし刀を中段に構えた姿は、少女であろうと少年であろうと関係なく凛としていて美しい。虎丸はさっきまで怯えていたことも忘れ、惚れ惚れと見入ってしまう。


「この不思議な文字の力を使うことのできる作家を、私たちは『操觚者(そうこしゃ)』と呼んでいます。ですが大抵の場合、物書きはひ弱ですから自分だけでは何もできません。武道など闘いに特化した者──『闘者(とうしゃ)』に文字を付与し、昨晩あなたに手伝ってもらったように相棒となってもらうのです。紅はどちらも対応できる稀有な作家ですね」


 八雲の解説もよそに、虎丸はまるで芝居でも鑑賞しているように手を叩いてはしゃいでいる。


「紅ちゃんめっちゃかわいい~! 少女歌劇(アイドル)みたい~」

「虎丸君、あなた、わりと紅のこと好きですね。三度は踏まれたでしょう」

「んー静かな子よりは元気なほうがタイプかなぁ」

「マゾヒストでしょうか。紅は落ち着いていて大人びた相手を好むようですが」

「オレのことやん。ダンデェやって昔からよう言われるんですわ」


 赤髪娘の鋭い声が飛んできて、また空気に緊張感が戻った。


「くだらねー話してんじゃねー! 来るぞ!」


 文字の洪水が圧縮され、ひとつの確かな形になっていく。ひしひしと肌で感じる突き刺すような感情の渦。

 

 溢れる文字が変化し、現れたのは遊女の衣装を身にまとった若い女だった。

 女の形をしたなにか、というべきか。

 うつむき、打掛(うちかけ)の袖で顔を隠して、さめざめと泣いている。



──ん? 喋っとる?



 と、虎丸は気づいて耳を傾ける。



 恋しい、恋しい、恋しい、恋しい



 そう囁きながら、遊女の形をしたものは泣いていた。

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