四 硝子に映るは空の向こうと、三千世界
日曜日の午前、タカオ邸。
吉原と曽根崎、東と西で同時に行われた闘いからすでに一週間が経つ。八王子の洋館では穏やかな日々が続いていた。
十二月になったばかりの、渇いた晴天の朝だ。
「どーよ、虎坊」
タカオ活版所の所長・藍に連れてこられたのは、何部屋分も壁を抜いて改装された印刷室であった。
壁際の木棚に活字と呼ばれる文字の型が何万と並ぶ。これまでに刊行された同人雑誌『新世界』二十巻分の紙型もある。中心に鎮座しているのは、墨より黒く光る重たげな活字鋳造機と印刷機だ。
虎丸も仕事で活版所・印刷所と名のつく場所には何度か行ったが、本来はもっと殺風景である。
ステンドグラスの透ける洋館の美しい内装と、重い機械の取り合わせは荘厳だった。まるで、鉄の兵隊や機械仕掛けの鳥が登場する外国の御伽話に入り込んだようだ。
「黒い、重い、かっこいい!! 文選も植字も藍ちゃんがやるん?」
文選とは、ハンコのような形の活字を原稿通りに一つ一つ棚から探していく作業。そして植字は本として印刷できるよう行ごとに字を組んでいく作業で、どちらも非常に細かく時間のかかる工程なのだ。
「ほとんど白玉の人形が──いや、もちろん俺の仕事だ。そろそろ二十一巻の準備をしねえとな。部員の〆切はまだ先だが、白玉と拓海がさっさとあげてきてるから、全員の合格が出たら文選を始める予定だ」
「拓海の字、読めるん?」
「読めねえ。助けて」
悪筆の幼馴染が書いた原稿を渡されて、パラパラとめくりながら虎丸がうなる。
「うーん……。前衛芸術ってことにして、色紙になんか書かせて婦女子に売りたい」
「本当に売れそうだからやめろ。芸術への冒涜だろ」
もちろん冗談なのだが、歌舞伎役者のように婦人たちから囲われる美青年の姿を思い浮かべれば、そう戯言にもならない案だ。
「あ、『新世界』……」
拓海の原稿の下に、もう一作。
雑誌と同じ『新世界』というタイトルのついた小説、つまりは表題作だ。
「オレ、二十巻まで全部読んでんけど、この小説だけは正直よう理解できへんねん。連作なんか独立した短編なんかすらわからへん。話もあるようでなくて、不条理っていうか……。これ書いた作家、消去法で白玉のはずやんな?」
作者の名は『○』とだけ表記された記号となっている。
「又聞きは誤解を生むからよくないな。本人に聞いてみたらどうだ? さっき庭で朝飯の準備してたぜ。つーか、俺らも食おうぜ」
もしや藍も理解できないだけなのでは──と、思わないでもないが。
又聞きがよくないのは、たしかにそうだ。虎丸は素直に納得し、藍とともに印刷室を後にした。
***
正面玄関を出ると、ピクニックのような光景が広がっていた。
花壇の傍に色鮮やかな風呂敷が並べられ、重箱に料理が詰まっている。クロワッサンの入った洋風バスケットやカフェオレのポットまであった。
虎丸が出てきたのに気づき、作家とメイドたちが手招きする。
白いテーブルセットでは洋館の主人である阿比がカップを傾けていた。食事の席にあまり現れることのない八雲と白玉もいる。近頃は毎日顔を出しているので、女主人が滞在している間はなるべく全員揃うようにするのが習わしなのだろう。
「めっちゃうまそ! いっただきまーす」
虎丸は空いていた八雲の隣に座り、手を合わせた。
肌寒い季節だが、風がないので日差しはむしろ暖かいくらいだ。珈琲の甘くて苦い薫りが庭の一角を包んでいた。
八雲は自分の食事も摂らず、せっせとタヌキのアンナ・カレヱニナに果物をやっていた。籠に盛られた林檎や柿を小振りのナイフで剥いて、肥ったタヌキはひたすら口を開けて待つのみである。
銀雪にも餌付けを試みていたが、雪と氷でできた白鬼は人間の食物を好まないらしい。
「なんということでしょうか。銀雪の物語を書く際、好物を付け加えればよかったです。肉体がなくとも人の食物を奪って喰らう物の怪は世にたくさんいるというのに。まさか何も食べられないとは」
「その設定、ほんまにいります? 童話みたいに鬼退治に使われそうですよ」
よほど餌付けしたかったようで、虎丸の横で後悔の独り言をぶつぶつと漏らしている。
無表情で愛想のない少し変わった青年作家は、自身の使い魔には存外甘い。物の怪を使役する条件が物語を綴ることなので、書いている間に愛着が湧くのかもしれないと、虎丸は勝手に納得する。
白玉は主人の向かいに座り、繃帯を巻いた手で不器用にスープを飲んでいた。
「ほら、玉ちゃん。裾にこぼしててよ」
おみつが汚れを拭いてやったりと、なにかと世話を焼いている。双子のようにいつも一緒にいる赤髪姉弟とはまた違う空気だが、この兄と妹も仲は悪くなさそうだ。
とはいってもおみつは絡繰り人形が化けて現れた少女なので、本当に白玉と血の繋がった兄妹なのか、いまだに不明である。
そういえば白玉に質問があったのだと、いつのまにか食べることに夢中になっていた虎丸は預かっていた原稿を取り出した。
「なー、白玉。これはどういう内容?」
「あっ、僕の小説ですね。今回は宇宙についての短編を書きました」
「そら?」
「この青空の、もっと向こうから見たぼくたち。わかりやすく仏教用語でいうと、三千大千世界ってやつです!」
「いや、わからん! オレは坊さんとちゃうし!」
眼鏡の硝子に晴れた空と雲がきらきら反射する。彼の小説と同じく、少年の言葉は虎丸には理解不能だ。
頭に疑問符を浮かべていると、隣の八雲が口を挟んだ。
「先日読ませてもらいました。宇宙はまるで人間の脳髄のようです。私は好きですよ」
「やった、一番厳しい八雲さんに褒めてもらえて嬉しいです!」
さらに、拓海が会話に参加してくる。
「先輩、俺の新作も読んでもらえましたか」
「ええ。無駄のなさとキレは相変わらず見事ですが、ラストがすり抜けた感じで少々甘いでしょうか。もっと後を引く結末のほうが主人公の人間性の欠落が印象に残ると思います」
「なるほど……。少し直してみます」
延々と続く作家たちの議論が始まりかねないので、虎丸はあわてて話を戻す。
「ちょ、ちょっとすんません。前から思ってたんやけど、白玉の名前のとこの○ってなに?」
「○じゃなくて、○ですよー」
「あ、はい、白玉ね!? まさかの絵文字かい……」
他の筆名と並んでポツンと印字された○は、なんと白玉団子という意味だったらしい。無邪気なのか難解なのか、判断のつかない少年だ。
「じゃあ、最初の十巻くらいまで、●になっとるのは? みたらし団子?」
「あーそれは、違うひとです。洋館に住みはじめたのはぼくがいちばん早いですけど、小説を書いてみたのは他の皆さんより後なんです。●さんの抜けた穴を埋めるために部員として参加することになりました」
「新世界派に、もうひとり作家がおったってこと?」
「そうです。でも、敵側に行っちゃいました。こないだ襲ってきたひとたちのほうへ」
「えっ!?」
なかなかに衝撃的な発言である。
作家たちが一瞬雑談を止める。虎丸の目には、特に十里の反応が大きかったように見えた。カフェオレの入ったカップを地面に置いて、いつもにこやかな青年がめずらしく表情をかげらせる。
「抜けた部員については虎丸君にもいずれ話します。吉原遊廓にて敵組織『黒菊』の上層部が判明したので、藍と十里君に詳細を調査してもらっているところですから。彼とも再会することになるでしょうね」
煙管の紫煙をくゆらせながら、八雲が言った。
「ジュリ、うさぎ林檎やろーか?」
「大丈夫だよ。ありがとう、紅」
いつものように悪態をつかなかったのは、紅なりに反省した結果のようだ。十里はかすかに笑って、首を横に振った。
そのとき、露草色の裾が動き──。
しんみりとしていた空気が一気に爽やかな風へと変わった。




