二 誰かの恋は、自分の恋と違う色
絡繰り人形がいたはずの場所には、見知らぬ少女が立っていた。
白い肌と毛先の揃った長い黒髪。まさに、和人形がそのまま動き出したような容貌であった。
「それで、貴方はどちら様?」
と、台座の上から虎丸を見下ろすうら若き乙女。
なんとなく、どこかで見た顔だという気がする。よくよく観察すれば、大きくて丸い瞳が白玉とそっくりなのだった。
小振りな鼻と唇も似ている。どれも男子であれば気弱そうなだけだが、娘なので可愛らしい特徴である。
「いやだわ、固まってしまったのね。殿方から挨拶してくださるのが礼儀ではなくて? しかたがないから、先に名乗ってあげてもよろしくてよ。あたしは餡蜜。年は十六」
「と、虎丸。十九でーす」
見た目は古風で江戸時代の姫君のような雰囲気なのに、喋り方は大人が眉をひそめる今風の女学生言葉だ。取り澄ました態度で、紅と方向性は違うがはきはきとしていそうな少女だった。
──顔立ちよう似とるし、白玉の妹かな?
目の前の本人の聞けば早いのだが、なにしろここはタカオ邸だ。
状況的には、どう考えても人形が変化してこの少女に成り変わったのだ。深く追求すればよけいな怪奇現象に巻き込まれそうで、慎重になってしまう虎丸である。
玄関で足音がする。誰かが離れに入ってきたようだ。
襖を引いて顔を覗かせたのは、赤髪娘の紅だった。
「ぶちょ、お茶淹れてきた──げっ、おみつ起きてんじゃん」
「起きとる? 起床? そんな普通に言い表せる感じ?」
目撃した限りでは「起きた」ではなく「化けた」だと思うのだが、未だへたり込んでいる虎丸を完全に無視し、娘たちは頭上で鋭く視線を交わす。
そして──。
「あらぁ、お紅じゃないの。相変わらずブスね! チビでがさつで貧乏くさくて痩せっぽちで、しかもブス!」
「あ? オマエこそ、作りもんのくせに自分で思ってるほど美人じゃねーぞ。それで美化されてんなら元は相当ヤバイんじゃね? この勘違いブスめ」
「なんですって!? だいたい料理だって裁縫だってできないくせに、八雲さんにだけいそいそとお茶淹れてきたりして、あざとい魂胆ミエミエなのよ!」
息をつく間もなく、飛び交う罵倒。
「うわぁ、めっちゃ仲悪ぅ……。こわぁ……。ブスって言葉が飛び交ってるぅ」
突如始まった女同士の喧嘩に、虎丸はドン引きである。
「無理して使ってる女学生言葉もう忘れてんぞ。このミジンコ!」
「貴女は学校行ったことないでしょ! 前から思ってたけどその左右に結った髪型、カマドウマの足に似てるわ!」
「うるせー、真っ黒のゴキ××頭!」
──でもちょっと、子供みたいな言い合いになってきたな……。
と思っても、もちろん怖くて止められない虎丸であった。
「えーと、餡蜜ちゃん? もしかして、白玉の妹かいな?」
「おみつとお呼びになって。説明が長くなるから妹ってことでよくってよ。ところで、拓様はどちらかしら?」
ようやく喧嘩が終わったのを見計らって声をかけると、開口一番にこれである。
「なんや、この子も拓様かい」
幼馴染の顔を思い浮かべて、虎丸は舌打ちを漏らす。自分が女子に縁遠いのはしかたないにしろ、拓海がモテるのは気に入らないのだ。
「なんでアイツばっかり! 性格も口も悪いのに!」
「拓様の顔が嫌いな女子はいないわ。冷たい性格と毒舌は近くに寄らなければいいだけだし、あたしは理想主義の拓様鑑賞派よ」
「そんな白樺派みたいに言われても……。そういや紅ちゃんは面食いやのに、拓海には反応せえへんよな」
「拓海ィ? 見慣れた。あと年下興味ねー」
「そうなんや~、よかった。いや、よくはないわな」
拓海と同級生の虎丸も当然紅より年下で、どうしたって追い越せはしない。
しかし、年齢の問題以前に紅の想い人は八雲なのだ。その思慕は虎丸が当初想像していたよりずっと深く重いと、傍で見ているうちに薄々わかってきた。
恋愛経験のほとんどない青年には、窺い知ることのできない境地である。
「お茶、美味しいですね。狭山産はコクがあって」
「はい! 紅さんは日本茶を淹れるのだけはお上手ですね。ちゃんと湯呑みも温まってて、蒸らしの時間も適切です。毎日運んできてるだけありますねー」
当の八雲は、呑気にお茶をすすっている。
隣に座った白玉もにこにこと娘たちの会話を見守っている。
自分が去ったせいで一度失くしてしまったこの不思議な友人たちは、あまりに以前と変わらずそこにいる。本当にこのまま何事もなかったことにしていいのだろうかと──。
虎丸の頭にふと、心配がよぎっていった。
***
女主人が帰ってきているため、夕食はいつにもまして豪華だった。
主、活版所所長、作家五人、メイドの二人、そして居候の虎丸。タカオ邸に住む総勢十名が初めて揃ったのだ。
おみつは茜と同じで、新世界派の身内なので生活を世話になるかわりにメイド仕事をしているのだという。夕食時には長い黒髪をおさげに結って、てきぱきと働いている姿があった。
白玉の作った使用人がいれば事足りそうなものだが、金持ちだからといって無条件に支援するわけにいかないのは虎丸にも理解できる。作家ではない彼女たちに奉公させているのは女主人の線引きなのだろう。あるいは気兼ねなくここにいれるよう、優しさかもしれない。
「茜ちゃんも拓海も、主人に学校通うための援助してもらったって言うとったな。八雲さんの中身が伊志川化鳥とはいえ、実質無名作家たちにこの手厚さ……。文学関係の人じゃなさそうやのに、なんで新世界派に出資しとるんか聞いてみたいなぁ」
虎丸はまだタカオ邸の女主人がいったい何者なのか、新世界派の部員たちとどんな関係にあるのかも知らないのだ。
断髪を揺らした主をちらりと盗み見ると、ナイフとフォークを美しい所作で扱って静かに食事をしていた。
饒舌な十里と紅が談話の中心にいるのは普段通りで、主がいても変わらないようだ。他の者はときどき口を挟むが、女主人は話を振られたとき以外、聞き役に徹している。それでも居心地は悪くなさそうに見えた。
あらためて挨拶をするため、食事のあとも虎丸は席を離れなかった。
だが、同じように紅も主人に話があったらしい。
八雲たちは自室に戻り、メイドたちが台所へ片付けをしに行ったあと。
女主人と所長の藍、白玉、そして虎丸と紅が食堂に残っていた。
「……あの、アビさん。せっかくもらった洋服と靴、失くしちゃった。ごめんなさい」
紅はいつものように『主』ではなく、主人を名で呼んだ。
虎丸がかつて見たことないほどしおらしい態度だ。下唇を噛んでいる小柄な娘を、女主人はふわっと抱きしめて言った。
「服など、また買えばいいのです。わたくしの可愛い紅、貴女が酷い目に遭わなくてよかったわ。女の子だからといって、そういう思いを絶対にしてほしくないの」
女性としては背丈の高い主人の胸の中で、紅は猫のように目を細めた。紅と茜の姉弟は母を早くに亡くしているはずなので、母親と同年代であろう主人に甘えているのを見ると虎丸は胸があたたかかくなるのだった。
「あ~心がじんわりする……。アビさんって、主の名前ですか?」
「はい、阿比さんです!」
虎丸の質問に、白玉が答える。思い返してみればこの少年は女主人にべったりである。
「そういえば、まだ名乗ってもいませんでしたね。わたくしは『九社花』家の当主、九社花阿比ですわ」
「九社花って……あのー、まさかですよ? 金沢の……?」
「はい」
「ええええ」
これまでで一番の衝撃とめまい。
編集者を目指してはいるが、金持ちにもなりたい虎丸が知らないはずのない名だ。
──日本五大財閥に数えられる、あの九社花財閥!?
金沢を拠点とし、明治時代の貿易事業をほぼ独占していた豪商一族である。
「そ、そりゃあレヴェルの違う金持ちですわ……。なんで新世界派に出資しとるんです?」
「芸術への理解と庇護は、富を持つ者の義務です」
「なるほど。文化の維持は金かかりますもんね」
と、一瞬納得しかけたが、うまくかわされたような気もするのだった。
「あ、オレも阿比さんって呼んでええですか?」
「まさか、虎丸さん。このあいだ言ってた『若いツバメ』を狙ってるんじゃ……!」
「ちゃうわ!」
白玉の過剰反応に思わずつっこむ。
「お世話にはなっとるけどオレが主って呼ぶんも変やし。やっぱり名前で呼ばな、いつまでも知らない人みたいな気ィするやん?」
もとより人懐っこい虎丸にも、自分のルールのようなものはあるのだ。
「もちろん、構いませんよ」
承諾してくれた阿比の後ろで、煙管を咥えた藍がため息とともに煙を吐いた。
「虎坊、お前の言ってることは正しいよ。名は体を表す。今のアイツは知らない名前で、知らない奴みてえだ」
阿比や藍がどんな理由で新世界派と関わっているのかまだ不明だが、藍が言っているのは八雲のことだと虎丸にもわかる。
女主人は黙って藍の煙草を奪い、一口吸って返すと食堂を出て行った。
夕食後の珈琲も飲み終わり、夜も更けた頃──。
二階の客室に戻る途中、虎丸は廊下でおみつを見かけた。
洗濯物を乗せたワゴンを引いているので、まだメイド仕事の最中なのだろう。正体はともかく若いのにちゃんと働いててえらいなと、就寝の挨拶だけしようと近寄ってふと気づいた。
熱のこもった視線。
廊下の曲がり角で、じっと先を見ている。少し体が引けているのは、相手から隠れているのかもしれない。
「あらら、恋する乙女の顔や。拓様かな? でも拓海の部屋って一階やったよな」
我ながら野次馬だと、虎丸は思うのだが。
寂しいのか、切ないのか。
真剣で、しかも惚けた瞳。誰かのこんな視線をはじめて見たのだ。
ついつい気になって、その瞳の先を確かめようと近づいた。




