一 恋を綴る作家
「おい、起きろよ。何時だと思ってんだ」
布団の上からぐいぐいと踏みつけられる感触。だが、肉体は休息を欲している。
「まだ六時やん……。もおちょい……結局寝たの朝方やねん……」
虎丸は近くに置いていたコートのポケットをまさぐって時計を取り出し、時間を確認するとふたたび顔を枕に伏せた。
「朝飯持ってきてやったのにいらねーの?」
飯という言葉を聞いて、勢いよく飛び起きる。
「いりますぅ、完全に忘れとったけど昨日食べ損ねてめっちゃ腹減ったぁ!」
急いで寝床を片付け、アイロンをあてた替えのシャツに袖を通す。
赤髪の娘が持ってきてくれたおにぎりを食べてお茶を飲み、ようやく一息ついた。
「ハァ、落ち着くわ……。東京の佃煮うまぁ」
「八雲さんはあんま飯食わねーし、自分で調達しないと餓え死にするぜ」
「あのひと、ほんまに人間? じつは物の怪ちゃう?」
「んなわきゃねーだろ。失礼なこと言うな、莫迦やろー」
娘には怒られたが、半分冗談、半分本気である。
昨晩のできごとを思い出しながら、座布団に正座して眠っている八雲を見る。膝でタヌキのアンナ・カレヱニナがだらしなくお腹を見せ、寝息を立てていた。
「わっ、目ぇ開いた」
不躾にじろじろ眺めていると突然目が見開かれ、八雲はそのままの姿勢で微動だにせず喋り始めた。
「おはようございます。紅、あなたも早いですね」
「ぶちょー、おはよ。飯食う? やり方よくわかんなかったけど、米炊いてきた! 釜は焦げた」
「では、いただきましょうか。釜は虎丸君に磨いてもらえばいいのです」
「ええ、オレですかぁ?」
雑用を振られた虎丸は、面倒くさそうに抗議する。
「働かざる者食うべからずですよ」
「夜、死ぬ気で働いたやーん?」
「あれの報酬は原稿でしょう」
「う、せやった」
それもそうだ。客ではなく仕事の話を持ちかけに来た立場なのだから、甘えるわけにはいかない。釜くらいやったら喜んで磨かせてもらわなあかんわな、と気を引き締め直す。
「私、朝風呂派なので裏庭の五右衛門風呂を焚いてくれませんか。水汲みと薪割りと」
「人づかい荒ぁ! 銭湯でも行ってくださいよ……ってあるわけないか」
ここは高尾山の麓に建つ白亜の洋館──の、離れである。
外観はモダンだというのに、電気さえ通っていないことを思い出して虎丸はがっくりと肩を落とした。
「よし、そろそろ道場行ってくる!」
赤髪娘は食べ終わると、せっかちに立ち上がった。肩には布に包まれた長い木のようなものを担いでいる。
形からして薙刀だろうか。たしか八雲が武闘派と称していたのは、とてもそうは見えないがこの紅という名の娘のはず、と虎丸は食後のお茶をすすりながらふたりの会話を聞いていた。
「今日は朝稽古の日でしたっけね」
「自主練! 新しい師範代が男前でさぁ、いートコ見せたいじゃん?」
「おや、ご執心だった甘味屋の看板娘はどうしたのです?」
「そっちは嫁入りするっていなくなった。楽しみが減ったよなぁ。んじゃ行ってきまーす」
動きやすそうな膝丈の女袴をひるがえして、元気に玄関から出て行く。
──ん? 男前の師範代に看板娘?
すでに娘は行ってしまった後だが、虎丸は後ろめたい話でもするように声をひそめた。
「あのー、今の紅ちゃんて子、もちろん女の子ですよね? もしかしてもしかすると男の子?」
「さあ?」
真顔で首をかしげる八雲は、はぐらかしたわけではなく本当に知らないといった風だ。
「さあって……知らんの!?」
「プライベエトな話ですし、親しき仲にも礼儀ありですから」
「えー、男か女かって、そんな難しい問題やったかな」
「難しいのですよ、人によっては。それに私やここの者たちからすれば、どちらだとしてもさほど変わりません」
「そんなもんすか……。性別問わずってなぁんかエロチシズムというか、耽美派っぽい世界観ですわぁ」
「まあ、あの子は意外と奥手なので、そう不健全な話もありません。銀幕スタアの追っかけをしている女学生のようなものです」
「いろんな人間がおるんやなぁ」
世は西洋化の進んだ大正時代。
多様な価値観が存在するものだ、と自分に言い聞かせて納得する。根がおおざっぱで柔軟な虎丸である。
「ところで、今日こそタカオ活版所、開きます? 洋館の中見てみたいなぁ。あと責任者と人脈作れたら最高ぉ」
「次の業務再開は年明けではないですかね。〆切を破る者がいればそのぶん先延ばしになりますが。本館の中に入るだけでしたら紅に頼んでください。使用人や私以外の部員──うちは所属している作家のことをそう呼ぶのですが、彼らの部屋はあちらですので」
非常にゆっくりとした動作でちまちまと白米を口にしながら、八雲は答えた。
「は!? まさか、ここの活版所って『新世界』しか刷ってへんのですか? 自費出版の同人雑誌ひとつ作るためにこんなでかい洋館があんの!?」
「そうですよ。部員全員の衣食住も保障されています」
「えーと、つまり、パトロンがおるってことですよね……?」
「はい。この館の持ち主が出資者です」
要するに、彼らには財的支援者がいるのだ。世間には期待をかけた若き芸術家の面倒を見る資産家がいるとうわさを耳にすることもあったが、目の当たりにするのは初めてである。
「ごっつい金持ちの道楽や……うらやましい……。オレもいつか気に入った新人作家集めてそういうことやりたいわぁ……」
夢にまで見た華やかな文学の世界を垣間見て、虎丸は胸を躍らせたのだった。
***
朝食と朝風呂を終え、執筆を始めた八雲の邪魔にならないようにと、虎丸は縁側に出て本を読むことにした。
まだすべてに目を通せていなかった二十巻分の『新世界』を高く積む。
今日はとても天気がいい。睡眠不足の体に陽射しがとろけそうに落ちる。
タヌキのアンナ・カレヱニナを膝に置いているとよけいに暖かくて、一緒に眠ってしまいそうだ。
「八雲せんせと無事に会えたって、会社に報告の電報打たなあかんなぁ。もう朝のバスは時間すぎたし、郵便局は明日やな……」
庭先に足を放り出し、休暇のようにくつろぎながら『新世界』を何冊かぱらぱらとめくった。八来町八雲の『狂人ダイアリイ』だけはすでに全巻分読み終わっているので、あらためて中身を確認する。
「あ、表題作は別にあったんや。しかし、見事に全員無名やなぁ。他所でいっさい書いてへんってことやろうけど、出資しとるっちゅう金持ちは、この五人をどっから見つけて来たんやら……」
八雲が部員と呼んでいる、所属作家の一覧が載った目次を眺める。玄関の看板にもあった新世界派という呼称は、同好の士である部員との結束を表すために自分たちで名乗っているのだろう。若手が集まって文学活動をする際にはよくある話だ。
一~三巻はまだひとりだったらしく、『狂人ダイアリイ』を含めすべて八雲が書いている。刊行を重ねるごとに部員は増えて最新の二十巻では五名になっているが、一度も耳にしたことのない名前ばかりだった。
大阪を発つ前、編集長に「八来町八雲は有名作家の別名義かもしれない」という話を聞かされたが、これほどの支援を得られるならば可能性はゼロではない。
はたしてパトロンの目的はただの道楽なのか、将来的な利益を見越しているのか、商売人気質の虎丸としては気になるところである。
「あれ、この名前、紅って書いてコウかな? 誰かの身内か小間使いかと思ったら、あの子も作家やったんや。オレより全然年下やろうに立派やわぁ。どれどれ」
四巻から連載を開始しているので、年若そうに見えて八雲の次に古株らしい。
千代田紅と名の記されたページを開いた。
小説の題名は『あかねさす』。
意外なことに、乱暴極まりない本人からは想像もつかない流麗な雅俗折衷体だ。言文一致運動が広まって明治期に衰退してしまった文体だが、地の文は文語体、会話文は口語体で書かれている。
印字にも関わらず筆づかいが浮かんできそうなほど繊細で、それでいて力強い文章。
「あ、恋の話や……」
舞台は江戸時代後期の吉原遊廓。
没落した名家の娘はわずか六つの年で女衒に売られた。見習いとして十年働いたのちに遊女・朝雲の名で人気を集め、あるとき歳の離れた上客に恋をする。
その男はむかし彼女の父がもっとも信頼していた腹心だったが、裏切って現在の地位を得たのだ。朝雲とは互いに正体を知らぬまま惹かれ合うのである。
「なんとまぁ……。今は亡きお父ちゃんに雰囲気似とるせいで恋に落ちるなんて、因果なことやなぁ。朝雲はこれからどうなるんやろ……。惚れた相手が家の仇と知ったら辛いやろな~。うーん、千代田紅も女心の描写が瑞々しいし、文体に儚さと力強さが両方あって上手いわ。若い娘らに受けそうや。編集長には八雲せんせのことしか言われてへんけど、オレが売り込もかな」
と、いちいちつぶやきながら読み進め、続きの巻を手にしようとしたそのとき。
障子戸が音もなく引かれた。陽だまりに寝転んで読書にいそしんでいた虎丸を、戸の隙間から顔を出した八雲が無表情に見下ろしている。
「──あなた、独り言が多いですね」
「ちゃいます~、アンナに話しかけとったんです~」
タヌキを両手で抱えて突き出し、無用の言い訳をする。人に飼われて野生を失ったか、悲劇的な美女の名を持つふくよかな獣は猫よりも長い時間眠るのだ。
「いやぁ、でも、執筆の邪魔やったんならえらいすんません。うちの原稿書いてもろとるのにー」
「それは書いていないので大丈夫ですよ」
「ええええ」
三週間で戻らなあかんし、後生やから急ぎでお願いしますよぉ、とすがりついていると、ダンッと玄関前の敷石を踏む音がした。
この荒々しさは少女だか少年だかよくわからない紅という娘だろうと思っていたら、案の定だ。
「かー! まだ誰も帰ってきてねえ! 放蕩しすぎだろ全員!」
「かーって……オッサンちゃうねんから」
本人と顔を合わせれば、あの『あかねさす』を書いた作者だとはますます信じられなくなるのだった。
「二十巻が刊行されて一段落したばかりですからね。次の〆切も先なので羽目を外しているのでしょう」
「ぜったい、ロクなことしてないぜ。だれかがなにかしらの面倒ごとを持ち帰ってくるのが目に見えてる」
「それもまた一興ですよ」
「八雲ぶちょーはかわすの上手いからなぁ」
八雲にたしなめられ大人しくなったところを狙って、虎丸は話を切り出した。
「あ、紅ちゃんの小説読ましてもろたわぁ。まだ若いのに筆が達者やなぁ。よかったらうちの編集長に紹介──」
「オマエ、いくつ?」
さりげなく勧誘したつもりが、どうやら失敗したようだ。
別のなにかが紅の怒りに触れたらしく、無防備に後ろに手をついて座っていた虎丸のみぞおちに足袋を履いた足が落ちる。
その際、丈の短い女袴がひるがえり、娘の腿の内側あたりに刻まれた白い文字が目に入った。
「うっ、ふと、ふとも」
「あん?」
「ちらっと見えた……いや、何でもないでーす」
正直に見たと言えば怒らせそうで、思わず誤魔化す。
太腿のついでに目撃したのは、八雲の手のひらにあった『憎悪』と似たような刻印だ。奇妙な塊を倒したあと、残った感情を吸い込んだ文字である。
こちらはなんと書いてあるのだろうと袴の中を覗きこみたい衝動に駆られるが、さらに状況が悪化するのは明白なのであきらめるしかない。
虎丸は両手をあげて降参の意を示しながら、友好的な態度で必死に話を繋いだ。
「歳のことなら、オレは十九やで。ちょいとワケありで高等学校は途中退学してもうてんけど、親のツテを使ってどうにか出版社にもぐり込んで今に至るっていう──」
「その話は死ぬほど興味ねー。おれは二十歳なんだよ。オマエより一つ年上! なれなれしく紅ちゃんって呼ぶな。紅さんだろ」
「えええ、うそやん。せいぜい十五、六くらいやと思ってたわ。しかもコウさんて、絶対ないわ~」
「なんだと、コノヤロー!」
虎丸がぐりぐりと踏まれるのを一通り見守ったのち、八雲が口を開いた。
「紅、そこいらでお止めなさい。以前から言っていますが、暴力癖はよくありませんよ」
「いや、遅いて! しばらく見てましたよね!」
「どの程度頑丈かなと」
「ヒドぉ」
表情に乏しい男はなに食わぬ顔で言い放って、話を変えた。
「それより随分帰りが早かったですが、なにかあったのですか?」
「あ、そうそう! 稽古場の近くで見つけちまった、結構な大物!」
「またタヌキですか~? 昨晩の変なやつも、今考えたらやっぱりタヌキのような気ィしてきましたわぁ」
幽霊や怪奇現象の類が大嫌いで、こればかりはどうしても信じたくない虎丸が気の抜けた声を出す。紅は会話に割って入ってきた青年を、見下すような眼差しで一瞥したあと言った。
「八雲ぶちょー、先におれが見つけたほう解決していい? こいつ貸してくんねー?」
「大物なら急ぎでしょう。お好きにどうぞ」
両者で交渉はあっさりと成立した。
が、わけもわからず、納得できないのは虎丸である。
「まって、まって。勝手に決めんといて。意味はようわからへんけど、オレ、勘はええねん。もしかして今度はその大物とやらと闘えってこと? 昨日みたいに?」
「お、エライじゃん。物分かりがよくて見直したぜ」
「察しただけや、受け入れてへん! だいたい八雲せんせとは書き下ろしを条件に合意したけど、他は知らん! タダ働きはオレの主義に反するんやぁ」
夕焼けのような色をした長い髪を揺らして、紅は虎丸にぐいっと迫った。
「じゃあ、飯三食。どうせオマエ、八雲さんの原稿を手に入れるまでは大阪に帰れねーだろ。滞在中は飯食わしてやる。今度はおれの『闘者』になれよ」
「うう……! 周辺は商店も屋台もなぁんにもあらへんし、飯は食いたい……! 『とうしゃ』ってなんや?」
「そのまんま、闘う者。決まりな。ほら、行くぞ!」
自分よりもずっと小柄な娘にせっつかれながら、虎丸はあわててコートを着込む。
紅の許可がなくとも、洋館の使用人が戻ってくれば食事くらい出るのである。
八雲はそれを知っていたが、あえて口は出さず無表情にアンナ・カレヱニナを撫でていたのだった。