七 聞きたかった言葉は
その頃、大阪に帰った虎丸は──。
すき焼き屋のテーブルで、泥酔していた。
「オレは、自分で死ぬやつはどうしても嫌やねん! そら、死にたいくらい苦しいって言われたら助けてやりたいと思うけど! すでに一度命を絶ってもうた相手に、どう思っていいかなんてわからへんしー!」
顔を突っ伏して、呂律の回っていない舌で何度目かの主張を繰り返している。
向かい合わせで座っている美青年は凛々しい眉をひそめ、酔っ払いを見下ろしていた。
「……弱い。まさか猪口一杯で潰れるとは。しかも泣き上戸か」
虎丸の何倍も飲んでいるはずの拓海は、顔色ひとつ変えず平然としていた。
「東京で八雲さんたちに出会って、初めて文字の力を見て、ただ面白いなぁって馬鹿みたいに思っとったけど……。生き返るなんて、反則や。そんなん平等ちゃうやん……うううう」
「泣くな、子供か。そもそも命は平等じゃない。治療を受けられず、助かるはずの命が助からないことなんかいくらでもある」
がばっと頭を起こし、しかめ面で酒を飲んでいる幼馴染に言い返した。
「死に方のことちゃうねん。死そのもの!」
「急に動くな。酔いが回るぞ」
「もう遅い~。……拓海、ガキの頃、神社で犬拾ったん覚えとる?」
いつも楽観的な男が、めずらしく死生観なんぞを語り出したと思えば──突然、昔話に転換した。
酔いのせいで視線が定まっていない。片手で頬杖をつき、空いたほうの指先で手持ち無沙汰に鱏のヒレをさいていた。
「食べ物で遊ぶな。犬? 小町のことか?」
「そう、茶色の毛をした雌犬の小町ちゃん……そういや、名前つけたんおまえやったな。すでに架空美女フェチシズムの片鱗見せとるやん!」
「小野小町は実在した人物だ」
「千年前の歌人なんかほぼ架空や! いや名前のことはええわ、話戻すで」
冷めた肴を口に放り込んで、水で飲み下してから言った。
「小町、うちで五年くらい飼ったけど中学あがる前に死んでもうたやろ。オレがめっちゃ泣いとったら、うちのオカンに言われてん。死は、平等で優しいもんやって」
まだあきらかに酔っていたが、必死に言葉を探して喋っている。
「置いてかれたら、寂しいし悲しい。でも、死んでしまったものみんなに対して、死は平等に安らかで優しいんやって。そう言われたから、悲しくても見送れたのに。せやから、自死するほど苦しんだ人と周囲がいまだにつらそうなんも納得いかん」
「それは、文乃さんが子供だったお前をあやすために言っただけだ。小町の死と重ね合わせて自分の中で齟齬が生じるからといって、死が平等じゃないと納得できないなんてお前のわがままだろう」
はるかに口の立つ幼馴染に言い含められそうになり、虎丸は声を詰まらせた。
「ぐっ。ちゃう、ちゃうわ。もっとこう……オレの中だけじゃなくて! いろいろあかん気がしてんねん……」
「要するに、自死したことと蘇ったことが倫理的に納得いかないのか?」
「簡単にまとめんな。合っとるけど! 逆に聞くけどなぁ、おまえはなんであの人に協力してんねん?」
虎丸の問いに、少しも顔色を変えず拓海は答えた。
「俺はほかの作家と違って、八雲先輩個人のためにしているわけじゃない。あの人が天才だから。それが理由だ、ただひとつのな」
「文学の才能は、倫理と関係あらへんやろ」
「……歴史に残る文学作品がある。紀元前から、世界のあらゆる場所で産まれた数多の物語が。最古の『ギルガメシュ叙事詩』から始まり、『死者の書』『オイディプス王』『楚辞』『ベオウルフ』『源氏物語』『神曲』『三国志演義』……」
拓海が始めた話を、虎丸は水の入ったグラスを傾けながら大人しく聞いていた。
「そこまで遡らなくとも、現代の日本にもこの先読み継がれていくだろう天才はいる。森鴎外、尾崎紅葉、夏目漱石、幸田露伴、挙げていけばきりがないほどだ。彼らの作品が、この世に存在しなかったらどうなるか想像してみろ」
「なかったら、ないやろ……」
「在ったはずだと知ったうえで、ないと考えろ」
「むずかし!」
「世界のどこかにいる誰かに一生涯影響を与え続けるはずの本が、もし存在しなかったら? 数十年数百年の時を超えて読み継がれるはずの名作が消えたら? 伊志川化鳥が遺した、題すらついていなかった未完成の小説には、それだけの可能性と価値があると俺は信じている。だから協力する。たとえ倫理的に間違っていても、天才は天才。それだけだ」
もう、言い返す気はなかった。ただ小さく呟いた。
「……あの人の小説は好きや。でも、おまえみたいに割り切れへん。せめて、せめて仲間のためとか納得できる理由やったらよかったなぁ。あの人が、周りにおる仲間をもっと大事に想ってくれてたら、受け入れられたかもしれへんのに……」
透明な液体でふたたび盃を満たして、虎丸は一息に飲み干した。
***
『黒菊』の使者と自称する二人組が去り、タカオ邸を襲撃したゴロツキたちが白玉の文字によってすべて潰された直後──。
虎丸は、八雲の自室である離れ屋に呼ばれていた。
八雲は普段と変わらない姿で愛用の座布団に正座をして、膝にタヌキのアンナ・カレヱニナを乗せていた。
畳の上に置いた原稿用紙の束を指で滑らせると、虎丸のほうに渡してきた。
「約束の書き下ろしです」
「うおお、いつの間に! ありがとうございます!」
普段馴れ馴れしくしているとはいえ、仕事上の礼儀は必要だ。うやうやしく頭を下げて、原稿を両手で受け取った。
今すぐにでも読みたかったが、八雲は早く話をしたがっているように見えた。虎丸は編集者の顔を引っ込め、友人として足を崩して正面に座り直した。
「虎丸君。あなたには、大切なものがありますか」
会ったばかりのときも、「感情とはいったい何だと思うか」と聞かれた。
なんとなくその質問と似た雰囲気を感じて、虎丸は正直に答えた。
「お金! って言いたいとこですけど、せやなぁ……もっと代替えがきかんもんはぎょうさんありますから。家族とか、友人とか、面白い先輩とか、話のわかる上司とか。もう長いこと会うてへん知人でも、出会いや思い出は大切です。あと、命もかなぁ。月並みですんません」
「あなたらしい答えです。何かを大切だと思えるのは、感情があるからでしょう。今感じている楽しさや嬉しさも、思い出として慈しめる気持ちも。欲望さえも感情です」
八雲が手のひらを上に向けて掲げる──すると、白い塊が虚空にふっと浮かんだ。
じっと見つめると、小さな文字が集まって蠢めいているのがわかった。色はインクの黒ではなく、新世界派の部員それぞれの体に刻まれた文字と同じ、透明な乳白色に光っている。
「きれーですね、宝石みたいや」
「私が今まで集めた『憎悪』の結晶です。混じりけのない純粋な感情はこのような色になります。混ざりやすく、ひとりにつき一種類しか集められないので皆に手伝ってもらっているのです。紅が『恋慕』、十里君が『悲哀』、拓海が『畏怖』、白玉が『歓喜』ですね」
「担当、って言うてたやつですね」
「私の失くした感情が主にこの五つだったので、五人の作家が必要だったのです。新世界派の発足も、すべてはこのために」
集めた感情をいったいどう使うのか、と。
早くそれを聞きたくて急いた気分になったが、八雲が話し出すのをじっと待った。
やがて、作家は静かに言った。
「私は一度死にました」
「……はい?」
「本館の地下に遺体が安置してあります。今の体で目覚めたとき、感情の大部分が失われていました」
「……え、えええ?」
「生前の筆名は、伊志川化鳥といいます。あなたが好きな作家だといっていましたね」
「化鳥と同一人物だってことは、知ってます」
八雲は少し意外そうな顔をしたが、触れずに続けた。
「入水自殺の報道は真実です。私は一度死んだ。そして、禁忌だった文字の力で生き返った。それが一度目の罪悪。しかし、今は白玉の作った仮初めの肉体に過ぎない。失くしてしまった感情を満たすことで、私は元の肉体を手に入れ、完全に蘇ろうとしている。それこそが、これから犯す罪悪です」
「それは、つまり……」
死んだことを後悔しているから、生き返りたいんですか。
と、掠れた声で、虎丸は尋ねた。
「いいえ、後悔はありません。伊志川化鳥未完の遺作──『狂人ダイアリイ』を完成させるためです」
聞きたかった言葉は、それではなかった。
虎丸は八雲から目を逸らしてうつむいた。片手で顔を押さえ、声を絞りだす。
「そ、そんなことのため? そんなに大事なんですか、小説を書くことが」
「小説なんかのために、と思いますか? ええ、救いようもないほど自分勝手な罪でしょうね」
「そら、オレだって文学は好きです。文芸担当の編集者を目指しとるんやし。でも、紅ちゃんは?」
「紅? どうして紅の名前が出てくるのです」
八雲は本当にわからない、という表情で目を少し細めた。
「どうしてって……本気で、言うてるんです? あの子は、八雲さんのために闘っとるやないですか。十里さんや拓海だってそうなんかもしれんけど、紅ちゃんは怪我したり血を流したりして、八雲さんのために身を捧げとる。全部、未完の小説を書くためなんですか」
「そうです」
「なんの見返りもなく? 女の子やのに? あの子、女の子なんですよ」
「性別が、関係ありますか?」
「八雲さんの言う男でも女でもいいってのは、仲間やからどっちでも関係ないって話やないですか。オレだって紅ちゃんや茜ちゃんがどっちでも、大事なのは変わらへんけど。でも、八雲さん、紅ちゃんの気持ちに気づいとるでしょ? 紅ちゃんが女の子として見てもらうことを求めとるのに、知らないふりするなんて可哀想や」
八雲は静かに息を吐いて、冷静な口調で言った。
「私にとっては、先のない話だから留まるしかないのです。幸せにできないことをわかっていて手などつけられません。男子ではなく娘なら、なおさら」
虎丸には「先のない」というその言葉が、報いる気がないという意味に聞こえた。
「なのに、まだ闘わせるんですか」
「はい」
「……もう、ええです。オレには理解できへん。そこまでして、誰かを利用して傷つけてまで、小説を完成させる理由が」
虎丸は下を向いたままで立ち上がった。
八雲は引き止めようとはしなかったが、最後に、去りかけた背中に問いかけた。
「一つだけいいですか。私が伊志川化鳥だということを、どうして知っていたのですか」
「気づかないわけ、ないじゃないですか。オレはあなたの愛読者です。大ファンですから」
「そうですか。──有難う」
引き戸の閉まる音、立ち去る足音が、夜に響く。
石油洋燈に火は灯っていたが、虎丸が行ってしまってから室内は急に暗くなったようだった。
無音の数分間──。
そのままの体勢で座っている八雲の隣で、風もないのに炎が揺らいだ。
机に置かれた書きかけの原稿がパラパラとめくれて舞う。次巻のための『狂人ダイアリイ』だ。落ちた影と混じり合って、小さな黒い字が漏れ始めた。
文字の集合体はやがて形を作る。まるで文机から人の頭が生えたように、八雲と同じ顔立ちをした男の顔が現れた。
──なんだ、結局誰にも云わないのか。貴様の真の目的を。
高飛車な声がこだまする。
下卑た笑い顔なのに、面差しと威圧感のせいかその表情さえ美しく見える、鬼に似た男。
自分と生き写しの姿をした男のほうを見ようともせず、青年作家は瞳を閉じた。




