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狂人ダイアリー ~大正浪漫幻想活劇~  作者: アザミユメコ@書籍発売中
第七幕【編集者と作家の別離】
38/143

一 まるで、恋のような

──大阪市南区・難波。


 報告書とともに八雲から受け取っていた約束の原稿を提出すると、編集長は黙って目を通した。読み終わってから、短く「上等や」と言った。


 虎丸が進級をあきらめて高等学校を中退し、ナンバ出版に入社したのは今年の春先だ。この編集長の下で働き始めてわずか半年だが、部下を大げさに褒める性格でないことは知っている。上等、といえば結果にまったく不足はないという意味だ。


「よう書き下ろし取ってきたな。東京での雑務もご苦労さん。だいぶ無茶ぶりしたはずやのに、適応力高いやっちゃなぁ。かなり無鉄砲なこともしたやろ。まぁ、まだ若いねんからそんくらいのほうがええわ」


 虎丸には知らされていないが、実は同じ業務をこれまで三人の社員に投げて、三度とも失敗しているのである。


 雑誌に住所が記載されているので活版所まではたどり着ける。が、人の気配が感じられない洋館はいつも閉ざされていた。手紙や電報も門前払い。間違いなく存在しているはずなのに、不気味なほど作家たちの情報が漏れてこない。文壇の関係者は揃って口を(つぐ)む。

 他の出版社が接触しようとしても同じ結果だったらしく、同人雑誌『新世界』はますます得体の知れない集団として噂が独り歩きするようになったのだ。


 喉から手が出るほど欲しかった作家の原稿だ。まさかダメ元で送り出した新入社員があっさりと手に入れてくると思わず、編集長は内心かなり驚いていた。


「ちゅうわけで、研修期間は終わりや。来月から正式な編集者に昇格やな。親父さんお袋さんも安心するやろ」

「べつに親父は、オレのことなんか気にかけてませんし」


 父のことに触れられて、虎丸はつい拗ねたような口調で言い返した。

 よく口にしているように、虎丸は自分の父親と仲が悪い。幼馴染の拓海とは性格が真逆だが、ずっと一緒にいたのはお互い父親に対する感情が共通していたからだ。


 もう何年も会っていないのだが、使えるものは使っておこうと就職のとき権力者であるその名を散々使ったのである。

 当然、ついて回ることになる。今更ながら後悔し始めた虎丸だった。


「コネ入社しといて反抗期かー?」

「名前出しただけです~。口利いてもろたわけちゃいますもん~」

「おんなじやボケェ。あんなん出されたら弱小出版社はびびるわ。せやけど、ただでさえ気難しい作家の心を開かせられんのは、経験も学歴も親の力も関係ないおまえの能力や。半日汽車乗って疲れたやろ。とうに終業やさかい、寮に帰れ」

「はい……」


 新人には分不相応なほど褒められているはずなのに、編集長の言葉が息苦しく胸に刺さった。


「あの、編集長」

「なんや」

「編集の仕事、どんくらいされとるんですか」

「おまえくらいの歳から、二十五年。経営側に回るまで担当した作家は百人超えとる。おおかた明治と一緒に消えていったけどな」

「いろんな理由で、消えてく小説家がおるんでしょうけど……。その、編集長が自分から突き放した……担当をやめた作家っておりますか?」


 勝手に言っていただけで正式に担当編集になったわけでもない。

 でも、たしかに心を開いてくれたのかもしれない。

 そして──。



 虎丸は自ら去った。



「そら、おるで」

「どんなときですか? 性格がまずかったとか」


 編集長は一杯に溜まった灰皿に、紙巻煙草を押しつけて火を消した。


「性格なんか揃いも揃ってまずいわ。どんだけ人格が破綻しとっても、愛人宅まで迎えに行ったり、借金取りから逃がしたり、勝手に死なれて毎年墓参り行ったり、遺作をかき集めたりするはめになっても。わしは編集者になったとき、担当しとるかぎり絶対作家の味方したるって決めてたんや」


 編集者は忍耐と根性であると常々語っている編集長に対し、考え方が古いと批判する社員もいる。どちらかというと虎丸も汗くさいのは嫌だと感じていたくちだが、おいそれと反論できる経験など持ち合わせていない。


「文芸の編集者はただの片想いや。一方的に惚れて勝手に売ったるって張り切っとるだけや。あいつらほんまに逃げるわ、怒るわ、死ぬわ、乳児の世話のほうが手軽いくらいや。でもおかしなことに、作家と編集の関係は一方通行で成り立つねん。惚れたい人間と惚れられたい人間がおったら、それで」


 これが、文学を心から愛する大先輩が導き出した答えだ。


「それでも、担当をやめるときはあるんですね」

「信頼は壊れるからな。新人の頃にようやらかした。作家を自分の思い通りに動かしたいと思ったりしてな。見放すっちゅうか、信頼が全部壊れたら離したるしかないねん。逆に言うたら信頼されとる以上は一蓮托生や」

「まるで、恋みたいな話ですね。編集長は作家が好きなんや」

「わしは仕事が恋人の男(やもめ)や。家族は社員。はよ帰れ」

「はあい、お疲れ様です~」

「なぁ、虎坊」


 くるっと身をひるがえして帰ろうとした瞬間に、また声をかけられた。


「今、自分で帰れて……」

八来町八雲(やらいちょうやくも)って、どんな男やった?」

「どんな? うーん、せやなぁ……」


 突然の質問に、虎丸は戸惑った。

 困惑しているのを悟られないよう、帽子の位置を直しながらぼそぼそと言う。


「……綺麗なひとでしたよ。男に言うんも変ですけど。いつもまっすぐ正座して、煙管(キセル)を扱う手つきがたおやかで。書いとる小説はおどろおどろしい題材が多いけど、どっかに清廉さがあんのは作家がこういう人やからかって納得しました。静かすぎて全然気配を感じへんのに、見たら釘付けにされる感じ。水面の波紋みたいな人です」

「そうか。惚れ込んだ言い方やな」


 それ以上何も言われなかったので、一礼して退社した。



 ***



 半月ぶりに歩くミナミの繁華街は賑やかだ。飲み屋の店先に連なった赤提灯が灯り、仕事終わりの人間で溢れている。


 こんなにも雑然とした喧騒の中にいるのに、虎丸の頭には透明に広がった水のイメージが滲み込んでいた。

 自分で口にした水面という言葉が張りついて、離れない。


 伊志川化鳥(いしかわかちょう)は入水自殺で命を絶った。

 波紋のようだったと表現したのは、無意識のうちに繋げていたのだろうか。すなわち、死を連想していたのだ。


 編集長に言われたとおり、作品にも本人にも魅了されているのだろう。

 しかし、八雲とあの和室で最後に交わした会話を何度反芻しても、どうしても受け入れることができない。


 鞄を抱えて寮の木階段を登ろうとしたところで、はたと気づいた。


「……そういや、東京に持ってった服、ほとんどボロボロになってしもたんや。実家戻ってオカンに繕ってもらお。編集の仕事でなんでこんなに破れんねんて文句言われそうやな」


 そう漏らして踵を返した。我ながら言い訳めいている、と虎丸は思う。

 ただ一人になりたくない気分だったのだ。


 実家といっても生家ではないが、職場のある難波駅から鉄道で一本だ。父親と離れて暮らすようになったあとで、母と一緒に小さな平屋へと引っ越した。虎丸は京都の高等学校に進学し、就職後は会社の独身寮に入ったので、今は母が一人で住んでいる。


 玄関の戸を引くと、神経質なほどに磨き上げられた男物の革靴が目に入った。

 居間からなにやら楽しげな声が聴こえてくる。


「めずらしいな、客?」


 首をかしげながら襖を開けると──。


 ちゃぶ台の前で自分の母親と向かい合って座っていたのは、ここにいるはずのない人物であった。


「んな、拓海!?」


 東京にいるはずの幼馴染が、何故か平然とそこにいたのだ。

 正装代わりに東京帝国大学の制服を着た美青年を指差し、虎丸はうわずった声で叫ぶ。


 食卓を整えていた虎丸の母は振り返って、呑気な声で言った。


「なんや、虎丸やん。どないしてん? 連絡もせえへんといきなり帰ってこられても困るでー」


 虎丸の明るい髪色も、猫科っぽい顔立ちも、楽観的な性格も、すべてこの母譲りである。

 似ているだけに、あまりの気楽さが時々本気で腹立たしい。


「繕いもん頼もうと思っただけや。いやそれより、なんでこいつがおんの!?」

「一枚十銭な。拓海くん、ほんまにええ男になったなぁ。男前は成長してもやっぱり男前やで。久しぶりに遊びに来てくれて嬉しいわぁ」

「ほんで、なんで拓海だけ熱烈歓迎してんねん!!」

「虎丸、アンタもちょっとは見習ったら?」

「男前をどうやって見習うねん。産むときにもうちょい頑張ってくれや。ちゅうかオレはバリバリのオカン似やん!」


 虎丸は脱力して、畳の上にどさっと座った。昔からそうだ。母と話していると、落ち込んでいるのがまるで馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。


「さすが拓様、帝大の角帽がよう似合うてるわー。知的で、アンタのわけわからんエセ西洋風とは大違いやな」

「拓様いうな」


 虎丸と母の会話を聞いてた拓海は、普段の皮肉っぽい笑い方ではなく心から楽しそうに噴き出した。


「ふ、本当、変わりないですね。お元気そうでよかったです」

「いつまでも若いなんて照れるわぁ。おかわりいる?」

「いただきます」

「なごやかにすな! 拓海ぃ、おまえ、いつどうやって来てん!」

「お前と同じ正午発の汽車に乗っていたが? すぐあとを追ったからな」

「ほんなら汽車内で話しかけろや! いやその前に、何しに来たんや!」

「声をかければ車内で騒ぎそうだから寝ていた。お前の口から、理由を聞きに来たんだ」


 拓海のために飯を盛りながら、母親は勝手に話題を変えた。


「虎丸、夕飯食べていくつもりなん? アンタの分あらへんで?」

「オレには作ってくれへんの!?」

「二度もめんどいわー」

「構いませんよ。この後連れ立って出かけますので。こいつは外で食います」

「勝手に決めんなぁあ」


 ペースを乱されすぎて、もはや何について悩んでいたのかさえ忘れそうだ。

 成長した青年二人を嬉しそうに見ている母親を尻目に、虎丸はあきらめてちゃぶ台へと突っ伏したのだった。

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