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八 「狂人ダイアリイ」に眠るもの

 タカオ邸の女主人は虎丸の前までやってくると、腰に手をあてた。


「あ、どうも~? ボクは本郷虎丸いいます。大阪のナンバ出版から、八雲せんせに執筆依頼しに来てましてん。新世界派の皆さんにはごっつお世話になっとります~」


 ビクビクしながら挨拶する虎丸の全身を頭からつま先まで一通り値踏みし、女主人は真顔で言い放った。


「可ですわ。有り」

「可!?」


 何の判定かわからないが、合格ラインということらしい。

 足を組んでソファに座っている拓海が、鼻先で笑う。


「こいつがですか? 主の好みにしては、平凡ですね」

「ほほ。なにも貴方のような、胡蝶蘭さながらに華のある若者ばかりが魅力的というわけではありません。わたくしは個性と多様性を愛します。うちにこういう系統の子はいませんし。やんちゃそうな子も可愛いですわ」

「さすが、守備範囲がお広い。おっしゃるとおり多様性は必要です。優だけでは自然も社会も成り立たない。雑草がないと土は肥えず、花も咲きませんからね」


 さらっと雑草扱い。



──あいつ、あとで覚えとれよ。



 幼馴染の拓海に言われるとよけいに腹が立つのだが、主の手前引きつった笑いを漏らすのみである。


「あ、せや! 帽子代!」

「帽子?」

「う、ええと、来たばっかりの日に帽子を燃やされて……弁償代を……」


 話を聞いた女主人は胸元からおもむろに、当座小切手の綴じられた束を出した。

 拓海に渡されたペンでサラッととんでもない金額を記入すると、黙って虎丸に差し出す。


「多い、多すぎる!!」

「余ったらフロミネンでもお買いなさい」

「それでもまだ多いです! オレ、ヒゲ生やしてませんし!」


 フロミネンとは資生堂が売り出している髭用トリートメントの商品名だが、ダンディズムに憧れているもののあまり似合わない虎丸には無用の品だ。


「とにかく! こんな額受け取れへんし、よう考えたら毎日タダ飯食わせてもらってるんで返します……」

「あらあら、慎ましいのですね。良い子だわ」


 というよりも、タカオ邸に来てからというもの原稿や食事を餌にさんざん怪異と闘わされ、「タダより恐い物はない」が身に染みているだけである。

 誤解されては気まずいが、女主人のほうも虎丸が遠慮したのを評価したわけではなかった。


「帽子でしたら、衣装室にいくつもありますから好きなのを持って行きなさい。貴方であれば、館に居るのはまったく問題ありませんわ。この子のこと、どうぞよろしくお願いいたしますね」

「なんやようわからへんけど、まかせたってください!」


 この子、とは。

 一瞬、隣にいる白玉のことを言ったのかと思ったが、主人が扇子を伸ばした先にいるのは八雲だ。


「今晩はもう休みます。明日以降、皆でゆっくり食事をしましょう。紅と茜、寝支度を手伝ってちょうだいな」

「はーい」

「はい、喜んで」


 赤髪姉弟をともなって、女主人は優雅に部屋を出ていった。


(あるじ)は、(あい)ちゃんの存在を完全に忘れてるよねぇ」

「捕まったにしても居所が不明ですから、どうせすぐには動けません。十里先輩、落ちていた原稿用紙と『黒菊(クロギク)』の詳細を調べましょう」

「そうだね~。僕らの食事は部屋に運んでもらおう」


 十里と拓海も、連れ立って外に行った。


「うーん、反射的にまかせろとは言うたけど、今までと同じでかまへんよなぁ」


 具体的に何をよろしくされたのか不明だが、仲良くしろくらいの意味だったのだろうとひとりで納得して虎丸は頷く。


 隣にいた八雲が、静かに言った。


「虎丸君。夕食のあと、少々付き合ってもらえませんか。私の自室で」

「はいはーい、なんでしょ?」

「事情をできる限り話すと、約束しましたよね。もう、あなたに隠すつもりはありませんので」

「? はい……」



 ***



 翌朝、食堂には普段と変わらず朝食が並んでいた。

 拓海がドアを開けると、八雲と白玉というめったに食事の席に現れないはずのふたりが向かい合って座っていた。

 女主人と赤髪姉弟の姿はまだない。毎朝、早く起きてくるはずの虎丸もいない。


「おはようございます。八雲先輩、白玉」

「ああ、拓海ですか。早いですね」

「ほとんど寝ていないので。十里先輩と徹夜で原稿を分析していました。皆が揃ったらその話をしたいのですが……虎丸を見ませんでした?」


 虎丸に特別の用があったわけではないのだが、なんとなく八雲の様子に違和感を覚えて尋ねた。


「帰りましたよ、大阪に。朝一番の鉄道で発ちました」

「帰った!? どうして急に……!?」


 八雲は、すぐには答えなかった。

 室内に刻み煙草と香炭の匂いが篭っている。もしかするとこの人も眠っていないのかもしれない、と拓海は思った。無口な作家は風呂好きで、朝に姿を見せるときはいつも石鹸(シャボン)の匂いを漂わせているからだ。


 白玉が、遠慮がちに問う。


「ほんとに、記憶消しとかなくてよかったんですか?」

「ええ、もう私たちに関わろうとはしないでしょうから」


 まさか。

 と、拓海が口を挟んだ。


「……全部、事情を話して。それで?」

「そうです」

「俺、追いかけます」

「やめておきなさい。彼の意思なのです」


 瞳を伏せている八雲は、傍目には落ち着いて見える。

 激昂したのはむしろ拓海のほうだ。目上に礼儀正しい彼が、めずらしく反抗的に言い返した。


「嫌です。俺は昔、あの馬鹿に好き放題言われて自分の人生を変えたことがあるんです。だから追いかける理由があります。つまり俺の事情でやり返してくるだけですから、八雲先輩の話とは一切関係ないです」


 だから止めるな、という言い分だ。

 荒々しく飛び出して行った拓海を、白玉は驚いた顔でぽかんと見ていた。


「び、びっくりしたー。拓海さんもあんな風に激しいときがあるんですね」

「彼も頑固ですね」


 八雲もそれ以上、止める気はなかった。

 手に持っていた煙管(キセル)が一瞬震えて、床に落ちた。俯いた八雲のそばに、少年が慌てて駆け寄る。


「大丈夫ですか!? 八雲さん、昨夜からずっと調子が悪そうです。また拒否反応なら地下で()()()()()ますか?」

「平気です。本当にただ、疲れているだけで。おかしいですね。人の肉体を持たない私が疲労を感じるなど」

「……あんまり、ひとりで罪の意識を背負わないでください。あなたの意思と関係なく、あなたをこの世に呼び戻したのは、このぼくなんですから」


 肩をつかんでいる白玉の手を丁寧に離して立ち上がり、八雲は言った。


「少しだけ自室で休みます。皆が起きてきたら呼んでもらえますか? 藍のことですから簡単にどうこうされはしないでしょうが、対策が立ったら早く救出に向かいましょう。十里君と拓海に全部任せてしまって申し訳なかったですね」

「はい……」


 少年は心配そうな表情で、後ろ姿を見送った。



 八雲は離れに戻ると、机に積んであった同人雑誌『新世界』を一冊持って縁側に出た。


 自身の小説、『狂人ダイアリイ』を開く。すると、ページから真っ黒な(もや)が溢れ出し、小さな文字が(うご)めき始めた。


 風にまぎれるようにして、文字の声がこだまする。



 憎んでも、憎んでも憎み足りない

 この身を焦がすほどに、この身を壊すほどに

 俺を憎んでいる俺が、俺自身を殺すから、

 人の命も義も放り出して、


 狂気に身を(やつ)そう



 この小説が持つ叫び、憎悪の感情。

 今にも嗚咽とともに飛び出してしまいそうだったが、八雲の手のひらに制されて、文字の塊は身動きが取れず留まっていた。



──叫びを聞いたからにはこの主人公、どうしても助けたらなあかん気ィするんですわ。



 あのとき、青年がいった言葉を思い出す。

 両手でぱたんと冊子を閉じると、悲痛の声も途切れた。



「受け入れてもらえると思いました? いいえ。しかし、彼がいなくなってあなたのほうが、よっぽど寂しそうではないですか。化鳥(かちょう)──」



 朝の光の下、散って消滅した文字に向かって、八来町八雲は小さく囁いた。

第六幕【黒き菊の伝書使】 了

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