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三 月下に文字は蠢く

 ようやく入れてもらった平屋の部屋を、関西からやってきた新人編集者の虎丸は物珍しげにきょろきょろと見渡した。


 作り自体は何の変哲もない二間続きの和室だ。だが、驚くほど殺風景である。

 家財と呼べるものは重そうな文机(ふづくえ)のみ。原稿用紙とインク壺が整頓して置かれ、黒柿の文箱にいくつかのペン先とペン軸が入っている。



──なんもあらへんな。まあ、この人見るからに生活感欠けとるしなぁ。



 研修で先輩について訪ねた作家たちの自宅は、目も当てられないほどに汚れているか、異常なほど清潔にしているかのどちらかが多かった。なにかと極端な気質を持っている、というのが物書きに対する虎丸の偏見である。


「潔癖ちゅうか、ただ物がないだけって感じやけど。それ自体は別にええねん。でも、()()()()は、いったいなんなんやろ……」


 うーむと唸っている虎丸の正面で、部屋の住人である幻想文学作家・八来町八雲(やらいちょうやくも)は我関せずとばかりに涼しい顔をしていた。


 真っ黒な無地の着物を身にまとい、背丈は虎丸より少し低い。肩につかないくらいの紫がかった黒髪が首筋で揺れている。色白でまるっきり体温を感じないような、浮世離れした雰囲気の青年作家である。

 うわさに違わぬ謎の人物。イメージ通りといえば、いかにもそうだ。


 そして、アレとアレとは。

 先ほどから虎丸が気になってしかたないのは──人と同じ大きさをした絡繰(からく)り人形とタヌキであった。


 等身大の人形は澄ました表情で部屋の隅に鎮座し、タヌキはおそらく家主の物であろうふかふかした座布団で気持ちよさそうに眠っている。


「人形ってただでさえ不気味やのに、このデカさは今にも動き出しそうで怖いわぁ……。てか、動くやろ絶対、この形は」


 若い娘をかたどった人形を引き気味ながらもジロジロと眺める。手にお盆を持っていて、台座の奥に歯車などの部品が覗いている。有名な座敷からくりの茶運び人形のように、複雑な仕掛けがありそうな作りだ。


 畳の上で直に正座した八雲は、タヌキに手を伸ばして撫でながら言った。


「それは私のものではありません。後輩の作家に絡繰(からく)りマニヤがおりまして、彼は命の吹きこまれた人形を作ろうとしているのです。自分の部屋では乱雑すぎて彼女が目覚めたとき困るから、ここに置かせてほしいと頼まれました」

「こっわ。人形より、その後輩さんが百倍こわいっすわ」

「人の趣味嗜好は好きずきですよ」


 そらそうやけど、まあそうか、と虎丸は無理やり自分を納得させる。作家という人種は、方向性の違いはあれどそれぞれ奇人変人に決まっているのだ。慣れなければ一流の編集者になることはできない。


「で、座布団を占領しとるそれは?」


 人形は一旦忘れることにして、腹が立つほど気の抜けた顔をして眠っている獣を指差した。


「アンナ・カレヱニナです」

「は?」

「帝政露西亜(ろしあ)の文豪レフ・トルストイを読んだことはありますか。アンナ・カレヱニナは禁断の愛に身を投じた美貌のヒロインです」

「んーたしか、舞台で有名な『復活』の原作者ですよね。外国文学はまだあんまり読めてへんので……不勉強ですんません。ほんで、その美貌のアンナがなんですって?」

「この子の名です。アンナ・カレヱニナ」


 八雲は当然のような顔をして、柔らかそうな毛をまとう獣に視線を落とす。

 小さな黒い鼻からスピーと不思議な音を鳴らしているタヌキをあらためて眺め、虎丸は眉間を押さえた。


「人の趣味嗜好は好きずき。編集者として、コミュニケエションを円滑に進めるために覚えといて損はない心がけや。太ったタヌキに美貌のヒロインの名前をつける人がおったとしても、なんもおかしいことあらへん……」

「先ほどから懸命に、自分に言い聞かせていますが──。ある意味、素直なのでしょうか」


 うつむいてブツブツと独り言を始めた虎丸を覗き込みながら、八雲が感情の読み取れない顔を近づける。

 目が合って、唐突に虎丸が声をあげた。


「あ、せや。アンタが八来町八雲さんで合っとるやんな?」

「そうですが、今更ですか。私が誰なのか確認する前に随分ぐいぐいと来ましたね」

「人懐こいのは大阪の人間の性分っすわぁ。東京もんが素っ気なさすぎるんですぅ~」


 東京の人間とはまだほとんど会話をしていないので知ったかぶりなのだが、挨拶がわりの雑談のつもりだ。すかさず、営業トークに入る。


「ボクゥ、ナンバ出版の本郷虎丸いいますぅ。好きな作風は伊志川化鳥とかそのへんの幻想文学です。で、この度は八雲せんせの『狂人ダイアリイ』を全部読ましてもらいましてん。ほんでぇ、それはもう、えらい感動しましたわ~。うちは弱小ですけど若手作家に注目しとって、文芸雑誌も作っとるんです。習作でも新作でも未発表ならなんでもええので、ぜひぜひ一作寄稿してもらえへんかと──」

「お断りします」


 最初と変わらぬ口調で、あっさりと却下された。


「ぐぬぬ」


 しかし、諦めるわけにはいかない。

 今は次々と文芸雑誌、同人雑誌が創刊され、歴史に名を刻むであろう文豪を多数輩出しているいわば文学戦国時代なのだ。『新潮』や『白樺』の後追いになるが、なんとしてもこの波に乗りたい。才能あふれる無名作家に唾をつけて編集者として名を馳せたい。

 虎丸には、いずれ自分の出版社を興すという野望があるのだ。


 そのとき、こんこんと叩く乾いた音が鳴って、襖が引かれた。


「八雲ぶちょー、客きてんだろ。茶ァ淹れてきた」


 入ってきたのはさっき庭で会った、真っ赤な髪の娘だ。お盆に湯気の立った湯呑みをふたつのせ、虎丸を踏みつけた可愛らしい編み上げブーツを脱いで畳の上を歩いてくる。


「ああ、有難(ありがと)う。ですが、この方は客人ではありませんし、客人だとしてももうお帰りになられるので気を遣わなくていいのですよ」


 表情は一見変わらないが、八雲はどことなく柔らかい声で娘に礼を言った。穏やかな口調で、虎丸にとって穏やかではないことを口走っている。


「いやあああ、お帰りにならへん、ならへんて! だって外暗いし山静かでめっちゃ怖いねん! お願いやから今日は泊めてえええ」

「なぁんだ、オマエ、押しかけ編集者だったのかよ。たまに来るんだよな。ぶちょーが追い返さないなんてめずらしいから客だと思ったのに。茶なんか用意して損したぜ」


 娘はぶつくさと文句を言いながら畳に座り、虎丸に持ってきたはずの熱そうなお茶をすすり始める。八雲も残りの湯呑みを取り、ふたりは慌てふためく虎丸をほったらかしてなごやかに会話を始めた。


「今、本館にいる部員はあなただけですか?」

「うん。なんでか知らねーけど誰もいねーな。色街でも行って遊んでんじゃねー?」

「その可能性があるのは一名だけですね。皆、文学のことで頭が一杯の唐変木(とうへんぼく)揃いですから」

「ぶちょーがそれ言ううう? でも、よその作家はもっとやりたい放題遊んでるって聞くぜ」

「よそはよそ、うちはうちですよ」


 完全に放置されていた虎丸は、思わず口を挟んだ。


「ちょおっと、無視せんといてくださいよ。傷つきますわ~! そんで、ボク泊めてもらえるんです?」


 ふたりして冷めた目線でちらっと虎丸を見やると、八雲があきらめたように口を開いた。


「もう乗合バスもないので、仕方がありませんね。近辺で野垂れ死なれても後味が悪いです。八王子は色々と出ますので」

「出るゥ? いろいろってなにが出るんやぁあ」


 必死の問いを再度無視して、赤髪の少女に言った。


「彼を、本館に案内してあげてくれませんか?」

「泊めんの!? めずらしー」


 驚く赤髪娘の言葉を遮り、虎丸はあわてて訴える。


「ちょ、待ってください。ふ、ふたりきりなんて教育上まずいんとちゃいます? いくらオレが爽やかな好青年やからって、口の悪いガキでも女の子は女の子ですやん?」

「あちらは何部屋もありますし、問題ないと思いますが」

「うう。本音を言うと、人のおらへん広い洋館なんか怖すぎて無理です。英吉利(いぎりす)のゴシック・ホラァみたいですやん。ここに泊めてくださいよぉ」

「この離れには、寝具を一切置いていないのです」

「じゃあアンタ、いったいどうやって寝てますのん」

「座って」


 真顔でそう言い放つ中性的な男の顔を、虎丸はじっと見つめる。やっぱり変人すぎるわ、と思い直しそうになるがまたしても頑張って自分に言い聞かせた。


「……作家は皆、奇人変人なんや。なにもかもしゃあないねん」

「どんな偏見だよ。想像力足りねーなぁ」


 眉をひそめた娘にダメ出しされ、左右に首を振った。


「想像力を働かせるまでもなく、普通の人間は横になって寝てんねん。忍者とちゃうねんで。いやいや、とにかくあかん。泊まるならこの部屋がええです!」

「んじゃ、あっちから布団持ってきてやるよ。あーもう、めんどくせーな」


 心底面倒そうに立ち上がり、娘は離れを出て行った。



 ***



 夜が更けると、山は厳かなほどに静かだ。


「まだ、ここらには電気きてへんのやな。場所が場所やからなぁ」


 帝都はもちろん、今や関西の一般家庭にも電気が通っている。赤髪娘に運んできてもらった布団から顔だけ出して様子を窺っていると、八雲は本当に座って眠りにつくようだった。


「こいつ、いつの間に入ってきたんや……」


 起きている姿を見た覚えはないが、寝支度をしているうちに中へもぐり込んでいたらしい。タヌキのアンナ・カレヱニナが虎丸の隣でスピーと寝息を立てていた。


「さすがに疲れたわ……。汽車で東京に着いて移動ばっかりやったからなぁ」


 近頃はあまり見かけなくなった石油洋燈(らんぷ)に八雲が静かに息を吹きかけ、火が消えたところで虎丸の意識も途切れた。



──深夜、光る瞳。



 妙な気配を感じ、ふと目覚めた虎丸は驚いて短い悲鳴をあげる。

 目を凝らしてよく見ると、暗闇に浮かんでいるのは障子から漏れる月明かりを反射したタヌキの眼光だ。


「おまえかいー! びっくりするやんけ!」

「ヴゥー……」

「タヌキってそういう鳴き声なんや。いや、威嚇されてんのかな。あれ、八雲せんせは?」


 座布団の上にも、部屋のどこにも姿がない。

 物音がしたわけではないが、なんとなく外がざわついている気がして虎丸は縁側へ繋がる障子戸を少し開けた。


 鯉の泳ぐ池の前、十日夜(とおかんや)の月下に佇んだ、八雲の後ろ姿。

 その手には、虎丸が夢中になって読んだばかりで間違えようもない『新世界』の冊子を持っていた。

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