九 地下の棺に眠るのは
「はー、今日も仕事がんばりましたっと。ただの雑用やけど、来年は東京支社出すって編集長が言うてはったし、こっちに誰かおると便利なんやろな。明日も乗合バスに遅れへんように起きなあかんなー」
この数日間はじつにいろいろ起こったが、仕事をサボるわけにはいかない。本社からの指令どおりに業務をこなし、夕方のバスでタカオ邸に戻ってきた。夕食、風呂のあとは洋館を散歩というのが虎丸の日課である。
独り言を漏らしながら静まり返った夜の廊下を歩いていると、カタカタという奇妙な音がかすかに聴こえた。
「この音、どっかで聞いたことあるような……。あ、タイプライタァか」
虎丸の勤めているナニワ出版にも、最新式が一台置いてある。なにしろ編集長は虎丸に負けず劣らずの新しいもの好き。今年発売されたばかりの超高額な和文タイプライターを仕入れて客先にまで自慢し、煙たがられていたのだ。
編集長よりはるかに速いが、機械が文字を打鍵する独特の音が館内のどこからか響いていた。
「新世界派の誰かが使うてんのかな。だいぶん遠い気がするけど、どの部屋やろ」
音を追って広い洋館をうろついていると、いつの間にか裏庭に出ていた。外から回らなければ入れない車庫があり、停められているのは馬車かと思えば、高級自働車のルノーであった。
「自働車まであったとは、ほんまに大金持ちやなぁ。あれ、これってもしかして、地下への階段……?」
艶やかなワインレッドの車体に普段の虎丸なら大興奮しているところだが、ふっと鳴り止んでしまった打鍵音の行方のほうが優先である。
車庫の奥の狭い扉が開いており、階段が下へと続いている。
たしか地下には食料の貯蔵庫があると聞いた。無断で侵入するのは泥棒のようで気が引けた。
しかし、どうしても気になる。
十里たちが様子のおかしくなった八雲を運んだのが、何故か地下室だったからだ。
気は引けるが、乗り込むことに決めた。仲間はずれの気分を味わったのもあって、ほんの少しいじけているのである。
「よし、地下室に引きこもりの部員がおるらしいし、堂々と訪問する感じで行こ。もう夜中やけど。ごめんくださーい、誰かおりますかー!?」
一階分の段差を降りた先は、冷気が沈んでいた。狭い通路の両側に三つずつ扉がある。本館ほどの広さはなさそうで、かかった札を読むと手前の四部屋が倉庫として使われているようだ。
最奥の二つの扉だけ材質が違う。無機質なメッキではなく、客室と同じ高級感のある木製である。
いかにも誰かが出て行ったばかりといった風に、左側の扉が少し開いていた。
虎丸は隙間から遠目に室内を覗き見る。
「うわ、汚っ。ていうか、怖っ。人形がいっぱい……」
想像より奥行きがあり、部屋は広く作られていた。床や机の上に道具と部品が散乱している。一口に道具といっても種類は様々だ。ノコギリや金づちなどの工具、足踏みミシン、よくわからない銅線や金属。先ほど聞こえていた音の正体、タイプライターもあった。
そして、なによりも特筆すべきは、おびただしい数の人形だった。
愛好家ではないとはっきりとわかるのが、飾っていないのだ。所狭しと詰められた人形たちはほとんどが等身大で、どこかで見た服装をしていた。タカオ邸の使用人と同じ制服を着ているのである。
「なんとなく着せとるわけでもなさそうな……。使用人が文字の力で動くってのは聞いたけど、つまり正体はこの絡繰り人形ってことかいな」
鬼の棲む民家に行ってきたばかりだが、タカオ邸のほうがよっぽど幽霊屋敷だと虎丸はあらためて思う。
「部屋の住人とは入れ違いになったみたいやな。最後の部屋におるんかな~」
そっと部屋から離れて、反対側の重い扉を開けた。
先ほどの散らかった部屋とは一転、広さは同じなのに見事な殺風景だ。
人の気配もなく、置いてあるものといえば中心に寂しく置かれた縦長の木箱だけ。どれどれと近づいた虎丸は、驚いて途中で足を止めた。
「……げ、これ、もしかして……棺?」
人のすっぽり収まる大きさといい、どう見ても白木の寝棺である。
「八雲さんが言うてた『力を利用して悪事を犯してる』って、まさか殺人事件なんじゃ……。いやいや、大丈夫や。タカオ邸のことやから、出るなら生ものやなくて物の怪とか死霊のはず。ってそれ全然大丈夫ちゃうし、こわ~! よいしょっと」
忍び足でそばに寄り、震える手で棺の端を持ち上げて、中を覗いた。
恐ろしいのが嫌ならよせばいいのにと、自分でも思うのだが──。
ここまできたら、共犯になりたいのかもしれない。毒を食らわば皿まで、だ。
「はい、でたー!! 仏さんの現物でた!!」
間違いなくそこにいる、棺に横たわる死人。
後ずさりながら思わず跳ねのけてしまい、衝撃で蓋いが床に落ちた。このまま逃げ去ってしまいたいが、すでに腹は括ってしまった。何度か深呼吸をして、再び棺にそっと近づく。
頬をつつくと、地下室の冷気よりも凍った体温が指先に伝わってきた。
「うーん……まったく傷んでへんけど死にたてほやほやかいな? 触ったらジュリィさんみたいに祟られんのかなー。えいえい、肌冷たいのに結構柔らかいな。誰やろ、この女のひ……と……」
長い髪から女人と思い込んでいたのだが、そうではなかった。
──八雲さん?
よく見れば、目鼻立ちは八雲そのものだ。だが、霞を食って生きているかのように浮き世離れした雰囲気の八雲とは真逆で、目を閉じていても威圧や凄みがあり、まるで別人のようだった。
髪の長さも違う。腰まで長く波打ち、あげた前髪は後頭部で結われているらしく、富士の形をした額がさらされていた。
どことなく、今より歳若いような気もする。
──いや……そうか、これは……。
鬼のように、烈しい美しさ。
敷きつめられた花の中心に浮かんでいるこの姿は。
「……伊志川化鳥」
虎丸が片手で口元を押さえて立ち尽していたそのとき。背後で、突然人の気配が動いた。
「あわわ、どうしよう。見られちゃった。厠に行ってる間に。あわわわわ」
「うわ、びっくりしたぁ!」
目が飛び出るほど驚いたものの、振り返ると立っていたのはどこにでもいそうな少年である。おかげで、虎丸はむしろ我に返って平静を取り戻した。
「誰や、眼鏡少年!」
「えっと、ぼくは白玉。館に住む新世界派の部員のひとりです」
「美味そうな名前やな……」
「あなたは大阪から訪ねてきた編集者の虎丸さんですね? いつも独白が多いから、だいたいのことは把握してます」
少年は緊張感のない顔で、へらっと笑った。
寝癖がついた黒髪のざんぎり頭、人相がよくわからないほど度のきついビン底眼鏡、体つきは小柄で華奢、年齢は十代の半ばくらい。
目立つ容姿をした他の三人に比べれば圧倒的に地味で冴えない少年、というが虎丸の正直な感想である。
──気ィ弱そうやし、押したらいろいろ教えてくれるかな。
こそこそ調べるわけでも、無理に問い詰めるわけでもない。ならば何も問題はないだろうと自分で納得し、虎丸は次々に質問を浴びせた。
「えーと白玉、ちょっと聞いてもかまへん?」
「はい!」
「棺の中におる人、生きてるん?」
「いいえ、五年前に亡くなっています」
「これ、八雲さんやんな?」
「うーん、難問ですね。どっちかというと『いいえ』かな。八雲さんは今、自室でお休みになられてますから」
「じゃあ……伊志川化鳥、やろ?」
「そこまでの結論にたどり着いていたなんて! びっくりしたぁ。虎丸さん、名探偵ですね!」
もっと濁されると思っていたのに、予想に反して少年は口が軽い。
であれば単刀直入に聞いてしまえ、と。
他の作家に尋ねてもなかなか要領を得なかった問いを投げかけた。
「なぁ、新世界派の目的ってなに? 雑誌を作ることちゃうで、裏に隠された秘密みたいな……。なんで感情を集めてるん? 部員のみんなが文字の力を使って犯そうとしとる悪事って、いったいなんや?」
白玉と名乗った少年は、ずり落ちそうな眼鏡を両手でかけ直した。レンズの奥に隠れていた大きな瞳は澄んでいて、気弱なだけではない明確な意志の存在を感じる。
「とても、シンプルな話なんです。ぼくたちはそれぞれ担当する感情を集める。そして──死んだ人間を蘇らせようとしている。そう、激情の天才小説家・伊志川化鳥。その人を、です」
「……生き返らせる? 死んだ人間を?」
「はい、でも、申し訳ないんですがここで見聞きしたことはぜんぶ忘れてくださいね。地下の管理はぼくの役割だし、鍵をかけてなかったのがばれたら叱られちゃうから。あなたの熱量に押されて喋りすぎちゃいました」
すべてを見透かすような視線で、まっすぐ虎丸を見て、最後に少年は言った。
「仲間内以外で……あの人を気にかけてくれる誰かがいるって、純粋に嬉しかったんですよ」
少年が身をかがめると、またあの音がした。
足下にボール型のタイプライターが置いてある。カタカタと打鍵音が響いて、虎丸の目の前に文字が浮かんだ。
逆側からじゃ読まれへん──そう言おうとして唇を開いた感覚を最後に、虎丸の意識は閉ざされた。
第五幕【白鬼の棲家】 了




